2024年11月29日金曜日

大杉栄とその時代年表(329) 1901(明治34)年4月3日~6日 「春雨の朝からシヨボシヨボと降る日は誠に静かで小淋(こさび)しいやうで閑談に適して居るから、かういふ日に傘さして袖濡らしてわざわざ話しに来たといふ遠来の友があると嬉しからうがさういふ事は今まであつた事がない。」(子規「墨汁一滴」)

 

Denmark Hill から Peckham Green を経て

大杉栄とその時代年表(328) 1901(明治34)年4月1日~2日 「一年半、諸君は短促なりと曰はん、余は極て悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す、短には非ざる也。始より無き也。若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや。」(中江兆民『一年有半』) より続く

1901(明治34)年

4月3日

清国の南京に日本領事館分館開庁。

4月3日

二六新報社、片山潜らの指導、東京向島の白髭神社前、第1回日本労働者大懇親会開催。神武天皇祭(祝日)、3万余人参加。工場法・普通選挙の要求を決議。

5月5日に函館、5月11日足利、5月末福島、6月9日桐生で開催。

秋山定輔秘書小野瀬不二夫(かつて片山潜と普選運動に関わる)の提案。会費10銭にみやげものと弁当。芝居、落語などアトラクション。みつ豆・甘酒は食い放題。小野瀬は動員を片山に依頼。片山は東京・横浜・横須賀・大宮などから予約6千を確保。3月17日社告を出すと3万枚の切符が売れる。警視総監安楽兼道は5千人の集会しか認めず。懇親の式を先着5千で15分で終らせ、後は自由入場とする。結果、2万人が会場に。入れない1万人は払い戻しのうえ、みやげ物を貰い帰る。

片山潜:

安政6年12月、岡山県久米郡羽出木村の庄屋の次男として誕生。明治7年美作地方農民一揆(逮捕400余、処刑15)で長兄(戸主)が処刑。明治12年郡長安達清風が開く熟に入る。岡山師範学校(1年中退)、明治14年上京、銀座の活版所績文社の工員。明治17年春渡米。サンフランシスコで皿洗い・コック・農業労働の後、オークランドのホプキンス・アカデミー、テネシー州メリービル大学、グリンネル大学、エール大学神学部を卒業。明治29年帰国。東京専門学校教師。アメリカ時代にラサールの伝記を読み社会主義に目覚める。明治30年キングスレー館設立。高野房太郎らと労働運動開始。

4月4日

珍田捨己駐ロシア公使、日本の日露漁業条約案をロシアに提出。しかしロシアは応じず中止。


4月4日

「 春雨の朝からシヨボシヨボと降る日は誠に静かで小淋(こさび)しいやうで閑談に適して居るから、かういふ日に傘さして袖濡らしてわざわざ話しに来たといふ遠来の友があると嬉しからうがさういふ事は今まであつた事がない。今日も雨が降るので人は来ず仰向(あおむけ)になつてぼんやりと天井を見てゐると、張子(はりこ)の亀もぶら下つてゐる、芒(すすき)の穂の木兎(みみずく)もぶら下つてゐる、駝鳥(だちょう)の卵の黒いのもぶら下つてゐる、ぐるりの鴨居(かもい)には菅笠(すげがさ)が掛つてゐる、蓑(みの)が掛つてゐる、瓢(ひさご)の花いけが掛つてゐる。枕元を見ると箱の上に一寸ばかりの人形が沢山並んでゐる、その中にはお多福(たふく)も大黒(だいこく)も恵比寿(えびす)も福助(ふくすけ)も裸子(はだかご)も招き猫もあつて皆笑顔をつくつてゐる。こんなつまらぬ時にかういふオモチヤにも古笠などにも皆足が生えて病牀のぐるりを歩行(ある)き出したら面白いであらう。

(四月四日)」(子規「墨汁一滴」)

4月5日

3月20日の加藤高明外相の勧告を受け、露、政府官報で対清交渉打ち切り声明。8日 露公使が日本政府に通牒。

4月5日

鉄幹妻瀧野、家を出る。4月末、鉄幹は中渋谷272番地に転居(渋谷停車場から、田畑を辿って道玄坂の近く、憲兵分隊に接する)。

林瀧野は鉄幹と別れた後、上京、樋口一葉の住んだ「水上の上」に間借りをし、そこで正富汪洋(おうよう)と知り合い結婚。


4月5日

「 恕堂(じょどう)が或日大きな風呂敷包を持て来て余に、音楽を聴くか、といふから、余は、どんな楽器を持て来たのだらうと危みながら、聴く、と答へた。それから瞳を凝(こら)して恕堂のする事を見てゐると、恕堂は風呂敷を解いて蓄音器を取り出した。この器械は余は始て見たので、一尺ほどのラツパが突然と余の方を向いて口を開いたやうにしてゐたのもをかしかつた。それからまた箱の中から竹の筒を六、七寸に切つたやうなものを取り出した。これが蝋(ろう)なので、この蝋の表面に極めて微細な線がついてをるのは、これが声の痕(あと)であるさうな。これを器械にかけてねぢをかけると、ひとりでにブル/\/\/\といひ出す。この竹の筒のやうなものが都合(つごう)十八あつたのを取り更(か)へ取り更へてかけて見たが、過半は西洋の歌であるので我々にはよくわからぬ。しかし日本の唱歌などに比べると調子に変化があつて面白く感じる。日本のは三つほどの内に越後獅子(えちごじし)の布を晒(さら)す所ぢやといふのが一つあつた。それは甚だ面白かつた。西洋の歌の中にラフイング、ソング(笑歌)と題するのがあつて何の事だかわからぬが、調子は非常な急な調子で、ところどころに笑ひ声が這入(はい)つてゐる歌であつた。これは笑ひ声に巧みなといふ評判の西洋音楽師が吹き込むだんださうで今試みにこの歌を想像して見ると、

鴉(からす)が五、六羽飛んで来て、権兵衛の頭に糞かけた。アツハハ、ハツハ、アツハハハ

神鳴り四、五匹ゴロ/\/\、雲の上からスツテンコロ/\、物ほし台にひかかつた。太鼓が破れて滅茶々々だ。アツハハ、ハツハ、アツハハハ

猫屋の婆さん四十島田、猫の子十匹産み居つた。白猫黒猫三毛猫山猫招き猫。アツハハ、ハツハ、アツハハハ

といふやうにも聞えた。しかし原作がこんなに俗であるかどうかそれは知らぬ。

(四月五日)」(子規「墨汁一滴」)


4月5日

マケドニア最高委員会(マケドニアのオスマン帝国支配からの解放と独立を求める革命的グループ)の主要メンバー、逮捕。

4月5日

4月5日~7日 ロンドンの漱石


「四月五日(金)、満月。 Good Friday (聖金曜日)。市内は休業する。終日、 Robert Louis Stevenson (スティヴンスン 1850-1894)の ""Kidnapped"" 1886 を読む。夕方、 Brixton (ブリクストン)に出掛ける。往来の人々外出着で得々としている。服装・背丈・容貌に劣等感を抱く。宿へ帰って一人で食事する。

四月六日(土)、祭日で家の者がいないので、午前九時半頃、ゴング鳴り朝食を知らせる。田中孝太郎、二日ほど Stratford-on-Avon (ストラットフォード・オン・エーヴォン)に旅行するとのことである。昼食は、 Miss Sparrow (スパロー嬢)と二人である。 Elephant & Castle (エレファント・エンド・カスル)で古本屋をひやかすが、金がなく買えぬ。 Camberwell (キャンパーウェル)を歩いている時、二人の女から、 least poor Chinese 

(中国人にしては哀れっぽい感じの殆どない男)と云われる。午後四時のお茶の時、 Miss Sparrow から、日本の婚礼や葬式について聞かれたので、説明する。

四月七日(日)、 Easter (復活祭)。この日から一週間、復活祭週間。白シャツと襟を替える。 Denmark Hill から Peckham Green を経て、 South London Fine Art Gallery (南ロンドン美術館)で Ruskin や Rossetti の遺作を見る。面白く思う。」(荒正人、前掲書)


4月6日

露、列国の反対(日英共同抗議)のため対清協約草案12項を撤回。

4月6日

寺内正毅参謀次長中心の秘密会議、ロシアとの戦争準備に関する調査決定。

4月6日

滝廉太郎(21)、横浜港からケーニヒ・アルベルト号で出航、音楽研究のためドイツ留学に向かう。35年10月17日、病を得て帰国、横浜に帰着。


4月6日

「 故陸奥宗光(むつむねみつ)氏と同じ牢舎に居た人に、陸奥はどんな人か、と問ふたら、眼から鼻へ抜けるやうな男だ、といふ答であつた。今生きて居る人にも眼から鼻へ抜けるほどの利口者といはれて居るのが二、三人はある。自分も一度かういふ人に逢ふて、眼から鼻へ抜ける工合を見たいものだ。

(四月六日)」(子規「墨汁一滴」)

つづく


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