2025年2月11日火曜日

大杉栄とその時代年表(403) 1902(明治35)年7月1日~4日 「只今巴理より浅井忠と申す人、帰朝の序拙寓へ止宿。是は画の先生にて色々画の話抔承り居候。又一所に参り候芳賀矢一氏も、浅井氏と同船にて来る四日出発、帰途に上る筈に候。・・・・・皆々が帰ると自分も帰り度なり候。」(漱石の手紙)

 

浅井忠

大杉栄とその時代年表(402) 1902(明治35)年6月16日~30日 「何事によらず革命または改良といふ事は必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事であつて、従来世の中に立つて居つた所の老人が中途で説を飜したために革命または改良が行はれたといふ事は殆その例がない。」(子規『病牀六尺』) より続く

1902(明治35)年

7月

朝・デンマーク修好通商条約締結。

7月

嘉納治五郎(弘文学院校長)、湖広総督・張之洞の招きに応じて清国へ教育視察の旅に出る。2ヵカ月半。北京、天津、保定、上海から揚子江を遡って南京、安慶、武邑、長沙と巡り、北京では清朝政府の親王や大臣と教育政策について話し合い、各地で総督や巡撫から大歓迎を受け、教育関係者と意見交換。

帰国後、清国視察旅行の印象を、「靖国巡遊所感」など数編にまとめて雑誌『国士』に発表(『嘉納治五郎大系』第9巻、本の友社、1988年)。

日本では、清国は大いに覚醒して刷新を図ろうとしていると考えられているが、現実は決してそうではない。日本に来た清国の視察員や留学生たちの改革意欲に燃える姿だけを見て、清国全体がそうなのかと思うのは大きな間違いである。

自分の見るところ、世界の知識を輸入して近代的な教育を普及させ、世界の強国と肩を並べるだけの国力を備えたいと熱望しているのは、実は「某大臣、某総督、某志士、某学者というがごとき僅々の人士」だけであって、地方全体ではそんな雰囲気はない。そのために、せっかく海外留学して帰国しても、憂国の心情に駆られて急激な主張を唱えれば、大多数の頑迷な人々から拒絶され、海外留学は有害だとまで言われてしまう。

「その心情まことに憐れむべきものあり」と。

7月

布施辰治、明治法律学校卒業。

11月、判事検事登用試験に合格。司法官試補に採用され宇都宮裁判所に赴任。

翌明治36年、検事代理に任命。秋、幼児3人と共に心中を図り自首した母親の殺人未遂起訴を拒否。東京で弁護士登録する。

7月

志賀直哉(19)、中等科2度目の落第、6年級に留め置かれ木下利玄・正親町公和と同級、実篤と隣クラスとなる。細川護立は実篤と同じクラス。

翌36年10月、中等科卒、高等科に進む。

明治38年高等科卒業時の成績、2番木下利玄、3番細川護立、直哉はビリから6番目、実篤はビリから4番目。

7月

矢野龍渓「新社会」刊行。社会主義理想小説というべきもので、読者に社会主義について啓蒙する目的で書かれたもの。政治小説『経国美談』で知られる龍漢が、社会改良という視点から社会主義に関心を持ち、それを小説の形で発表した。『新社会』は僅か半年で20数版に達する。

7月

露、蔵相ヴィッテ(10~、極東訪問)、満州鉱山会社設立。

7月

オーストラリア、移民制限法により言語テストを実施。東洋人のみならず、ヨーロッパ人の入国拒否が可能になり、移住者の大量流入に歯止め。国政選挙で女性の投票権認められる。

7月1日

埼玉県深谷町の製糸工場富岡館の女工270人、賄い方に大食をなじられて同盟断食。

7月1日

大日本錦糸紡績同業連合会、第4次操短開始。

7月1日

この日の子規『病牀六尺』(五十)。


「○肺を病むものは肺の圧迫せられる事を恐れるので、広い海を見渡すと洵(まこと)に晴れ晴れといい心持がするが、千仞(せんじん)の断崖に囲まれたやうな山中の陰気な処にはとても長くは住んで居られない。四方の山に胸が圧せられて呼吸が苦しくなるやうに思ふためである。それだから蒸汽船の下等室に閉ぢ込められて遠洋を航海する事は極めて不愉快に感ずる。住居の上についても余り狭い家は苦しく感ずる。天井の低いのは殊(こと)に窮屈に思はれる。蕪村(ぶそん)の句に

屋根低き宿うれしさよ冬籠(ふゆごもり)

といふ句があるのを見ると、蕪村はわれわれとちがふて肺の丈夫な人であつたと想像せられる。(略)

(七月一日)」


7月1日

(露暦6/18)シュトゥットガルト、合法的マルクス主義者ストルーヴェ、隔週刊政治誌「解放」創刊。

7月1日

米議会、1902年のフィリピン法(フィリピン組織法・フィリピン統治法)可決、フィリピンの二院制議会を規定。

7月1日

7月1日~2日 ロンドンの漱石


「七月一日(火)、午前、芳賀矢一、訪ねて来たが、留守をして会えぬ。

七月二日(水)、晴。芳賀矢一を訪ねる。外出中で会えない。鏡宛手紙に、「書状一通寫眞一束端書一牧(ママ)外に倫氏梅子端書各一葉落手被見致候」と書く。また、同宿中の浅井忠も七月四日(金)に芳賀矢一と同船で帰国すると伝え、みんなが帰ると自分も帰りたくなると洩らす。(芳賀矢一は、岡倉由三郎と共に Cambridge の三土忠進を訪ねる。)」(荒正人、前掲書)


「七月二日(水)付鏡宛手紙にも、七月四日(金)、浅井忠は芳賀矢一と共に阿波丸で帰朝すると伝えている。浅井忠は、 London 滞在中に「にわとり」(油絵)を描いている。これは漱石の下宿で描いたかもしれぬ。八月十九日(火)、神戸港に入港する。東京市に約一か月滞在し、九月には新設の京都工芸学校の教授に赴任する。「何日か倫教に居る時分、浅井さんと一處に、とある料理屋で、たったビール一杯丈飲んだのですが、大變眞赤になつて、顔がほてつて街中を歩くことが出来ず、随分、困りました。」(談話「文士と酒、煙草」 明治四十二年一月九日『国民新聞』)


「ある日画伯を案内して、市中観物に出掛けた。漱石先生も喜んで加はり、画伯、飄逸、太良と自分で、一行は五人になった。

午前中は国立絵画館とテート画廊を丁寧に観た。数々の名画の前に立って、薀蓄を傾けた黙語画伯の説明には、先生も熱心に聴いていた。

午後からキュー植物園に行った。屋外に卓子を並べてある喫茶店で、午餐の後、青芝の上で五人が立ってならんだ処を、画伯はポケットから小型の写真機をとり出して、横合から斜に撮影した。」(渡辺(春渓)「漱石先生のロンドン生活」)」(荒正人、前掲書)


7月2日 この日付けの漱石の妻、鏡子宛ての手紙。


「其許持病起り(さう)相のよし、よく寐てよく食つてよく運動して、小児と遊べばすぐ癒る事と存候

「此方(こちら)は不相変無事御安心可有之候。只今巴理より浅井忠と申す人、帰朝の序(ついでに)拙寓へ止宿。是は画の先生にて色々画の話抔承り居候。又一所に参り候芳賀矢一氏も、浅井氏と同船にて来る四日出発、帰途に上る筈に候。

皆々が帰ると自分も帰り度なり候。然し日本にてかくの如くのんきにひまがあつて勉強が出来たら、少しは人に見せられる著書も出来相なれど、帰れば中々追使はるゝ故左様勝手には不参、しかたなさものに候」


7月2日

この日の子規『果実帖』、「七月二日雨 山形ノ桜ノ実」


7月2日

ルーズベルト米大統領、フィリピン平定完了・植民地統治宣言。ゲリラ的活動は各地で継続。

7月4

7月4日 ロンドンの漱石


「七月四日(金)、晴。午後、土井晩翠・岡倉由三郎・美濃部俊吉と共に、 Fenchurch Station (フェンチャーチ停車場)に、芳賀矢一・浅井忠・岡村の帰国を見送る。六時五十四分、 Tilbury Dock (ティルベリー・ドック)に向う。一行は、日本郵船の阿波丸に乗船する。(岡倉由三郎は、 Tilbury Dock まで同行し、近くの一旗亭で夕食を共にし、船室に入りシャンペンを飲む。漱石たちも同行したのではないかと思う。芳賀矢一らは、十時三十分に出航する。)」(荒正人、前掲書)


つづく


0 件のコメント:

コメントを投稿