1902(明治35)年
9月
義和団で最後まで残った梅花拳の趙三多、逮捕。獄中死。
9月
吉沢商店、明治座で蓄音機併用の活声活動写真を興行。
9月
森鴎外訳『即興詩人』
9月
国木田独歩「富岡先生」(「教育界」)
9月
長谷川天渓「自然主義とは何ぞや」(「明星」)
9月
堺利彦『家庭の新風味』のシリーズ6冊が完結
9月
坪内逍遥(43)、早稲田中学校の校長(二代目 ← 初代大隈重信、初代教頭坪内逍遥)に就任。
9月
若山牧水(17)、短歌研究のために野虹会を起こし、同級生以外の小野葉桜らも加わる。
9月
野上豊一郎・小宮豊隆・藤村操・安倍能成・斎藤茂吉ら第一高等学校に入学。一級上に岩波茂雄(後に退学。明治37年9月に東京帝国大学選科に入学)・阿部次郎・吹田順助・上野直昭ら、二級上には森田草平・小山内薫らがいる。
9月
山梨県中巨摩郡の山梨製糸会社女工500人、劣悪な待遇に抗議してストライキ(不貫徹)。
9月
仏、労働総同盟(CGT)、労働取引所連盟と合同。書記長グリフュール。
9月
露、蔵相ウィッテ、旅順口・大連・ウラジオストクを視察。満州撤兵・対日妥協をニコライ2世に進言。ニコライは「聞くのを喜ばない態度」で書面をもって報告するようにとのみ応える。
9月
ロンドンの漱石。自転車運転の練習を始める。
漱石は、ロンドン2年目のこの年(明治35年)、日記を書いていない。ただ、この年の秋(「忘月忘日」)の出来事を『自転車日記』として書き残した。
「西暦一千九百二年秋忘月忘日白旗を寝室の窓に翻えして下宿の婆さんに降を乞うや否や、婆さんは二十貫目の体躯を三階の天辺(てっぺん)まで運び上げにかかる、運び上げるというべきを上げにかかると申すは手間のかかるを形容せんためなり、階段を上ること無慮四十二級、途中にて休憩する事前後二回、時を費す事三分五セコンドの後この偉大なる婆さんの得意なるべき顔面が苦し気に戸口にヌッと出現する、あたり近所は狭苦しきばかり也、この会見の栄を肩身狭くも双肩に荷になえる余に向って婆さんは媾和条件の第一款として命令的に左のごとく申し渡した、
自転車に御乗んなさい」(『自転車日記』)
この時期の漱石は、下宿に閉じこもって本ばかり読みふけり、「夏目狂せり」という電報が文部省に届いたりしていた。心配した下宿の「婆さん」は、気分転換に漱石を外に引っ張り出した。
「ああ悲いかなこの自転車事件たるや、余はついに婆さんの命に従って自転車に乗るべく否自転車より落るべく「ラヴェンダー・ヒル」へと参らざるべからざる不運に際会せり、監督兼教師は○○氏なり、悄然たる余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼はまず女乗の手頃なる奴を撰んでこれがよかろうと云う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の捷径(しょうけい)はこれに限るよと降参人と見てとっていやに軽蔑した文句を並べる、不肖なりといえども軽少ながら鼻下に髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない、まあ落ちても善いから当り前の奴でやってみようと抗議を申し込む、もし採用されなかったら丈夫玉砕瓦全を恥ずとか何とか珍汾漢ちんぷんかんの気燄(きえん)を吐こうと暗に下拵に黙っている、とそれならこれにしようと、いとも見苦しかりける男乗をぞあてがいける、思えらく能者筆を択ばず、どうせ落ちるのだから車の美醜などは構うものかと、あてがわれたる車を重そうに引張り出す、不平なるは力を出して上からウンと押して見るとギーと鳴る事なり、伏して惟(おもんみ)れば関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車に万里の波濤を超こえて遥々(はるばる)と逢いに来たようなものである、」(『自転車日記』)
・ラヴェンダー・ヒルはクラバム・コモンの北側、ザ・チェイズの北端に直角に交叉する大通り。
・「○○氏」は小笠原長幹伯爵の傅役(もりやく)犬塚武夫(小宮豊隆の叔父)で、同役の三土忠造とともに伯爵について来英し、一時ミス・リール方に下宿していたために、金之助に自転車の乗り方を教えるめぐりあわせになった。
・漱石と犬塚は、自転車屋へ向かう。まず「女乗」を薦められるが、それを断り「男乗」のい、ギーっと鳴るようなオンボロの自転車を買う。
▽荒正人、前掲書による
「秋、同宿の犬塚武夫にすゝめられ、 Clapham Common (クラッパム共有地)の傍らの馬場で、気分転換に自転車の稽古を始める。(「自轉車日記」)
・・・・・
九月中旬から十月上旬の間に、 Hammersmiyh (ハマース、スミス)の岡倉由三郎の下宿へ自転車に乗って訪ねる。」
「明治三年生れ、昭和二十七年没。小宮豊隆の従兄で、第一銀行に勤めていた。旧藩主の小笠原長幹伯爵が、明治三十四年ロンドンに留学した際、三土忠進とともに傅育役として随行した。小笠原長幹は一流のホテルに泊っていたが、他の二人は別の所に下宿していた。この下宿には下村観山も同宿する。(小笠原長幹は、学習院卒業後、ケンブリッジ大学に留学する。帰朝後、式部宮になったが辞任し、大正七年貴族院議員となる。彫塑をよくした。)」
「鎌田栄吉『欧米漫遊雑記』(明治三十二年六月十三日 博文社刊)は、次のように述べている。「巴里倫敦にて最も盛なるは自轉車にて男女共に之に乗じ要事にも運動にも市中の千車萬馬恰も戦争の如き中を平気に通り抜くる者澤山あれども又其割合に馬車抔に突當りて、怪我は愚か即死するもの毎日の如く新聞紙上に見る厨なり、是れは危険なる例なれども、郊外の運動抔に出掛くる人の多きこと非常にして、新聞には自轉車乗りの一欄を設けて、之に関する事項を掲ぐることと相成り、其外自轉車に就て出版する書籍も多く、殊に自轉車乗りの地図に英全国図あり、ケムブリツヂ及びオツクスフオルド地図あり其他諸地方の自轉車地図ありて之に便ずるが如き其盛なる一議なり。」当時、自転車は、今日の自動車のように流行していたものらしい。」(荒正人、前掲書)
悪戦苦闘始まる
「「どこへ行って乗ろう」「どこだって今日初めて乗るのだからなるたけ人の通らない道の悪くない落ちても人の笑わないようなところに願いたい」と降参人ながらいろいろな条件を提出する、仁恵なる監督官は余が衷情(ちゅうじょう)を憐んで「クラパム・コンモン」の傍人跡あまり繁からざる大道の横手馬乗場へと余を拉(らっ)し去る、しかして後「さあここで乗って見たまえ」という、いよいよ降参人の降参人たる本領を発揮せざるを得ざるに至った、ああ悲夫、」(『自転車日記』)
「監督官云う、「初めから腰を据すえようなどというのが間違っている、ペダルに足をかけようとしても駄目だよ、ただしがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」、と心細いこと限りなし、ああ吾事休矣(わがこときゅうす)いくらしがみついても車は半輪転もしないああ吾事休矣としきりに感投詞を繰り返して暗に助勢を嘆願する、かくあらんとは兼て期したる監督官なれば、近く進んでさあ、僕がしっかり抑えているから乗りたまえ、おっとそう真ともに乗っては顛ひっくり返る、そら見たまえ、膝を打うったろう、今度はそーっと尻をかけて両手でここを握って、よしか、僕が前へ押し出すからその勢いきおいで調子に乗って馳かけ出すんだよ、と怖こわがる者を面白半分前へ突き出す、・・・・・。」(『自転車日記』)
「忘月忘日 例の自転車を抱いて坂の上に控えたる余は徐(おもむ)ろに眼を放って遥あなたの下を見廻す、監督官の相図を待って一気にこの坂を馳かけ下りんとの野心あればなり、・・・・・、
人の通らない馬車のかよわない時機を見計ったる監督官はさあ今だ早く乗りたまえという、ただしこの乗るという字に註釈が入る、この字は吾われら両人の間にはいまだ普通の意味に用られていない、わがいわゆる乗るは彼らのいわゆる乗るにあらざるなり、・・・・・、されども乗るはついに乗るなり、乗らざるにあらざるなり、ともかくも人間が自転車に附着している也、しかも一気呵成いっきかせいに附着しているなり、この意味において乗るべく命ぜられたる余は、疾風のごとくに坂の上から転がり出す、・・・・・、今度は大変な物に出逢であった、女学生が五十人ばかり行列を整えて向むこうからやってくる、こうなってはいくら女の手前だからと言って気取る訳にもどうする訳にも行かん、・・・・・、絶体絶命しようがないから自家独得の曲乗のままで女軍の傍をからくも通り抜ける。ほっと一息つく間もなく車はすでに坂を下りて平地にあり、けれども毫も留まる気色がない、しかのみならず向うの四ツ角に立ている巡査の方へ向けてどんどん馳かけて行く、・・・・・、とうとう車道から人道へ乗り上げそれでも止まらないで板塀いたべいへぶつかって逆戻をする事一間半、危くも巡査を去る三尺の距離でとまった。大分御骨が折れましょうと笑ながら査公が申された故、答えて曰いわくイエス、」(『自転車日記』)
「忘月忘日・・・・・
「夏目さんは大変御勉強だそうですね」と細君が傍から口を開く「あまり勉強もしません、近頃は人から勧すすめられて自転車を始めたものですから、朝から晩までそればかりやっています」「自転車は面白うござんすね、宅ではみんな乗りますよ、あなたもやはり遠乗をなさいましょう」・・・・・
今まで沈黙を守っておった令嬢はこいつ少しは乗(で)きるなと疳違(かんちがい)をしたものと見えて「いつか夏目さんといっしょに皆でウィンブルドンへでも行ったらどうでしょう」と父君と母上に向って動議を提出する、・・・・・、「しかしあまり人通りの多い所ではエー……アノーまだ練なれませんから」とようやく一方の活路を開くや否や「いえ、あの辺の道路は実に閑静なものですよ」とすぐ通せん坊をされる、・・・・・「しかし……今度の土曜は天気でしょうか」・・・・・、審判官たる主人は仲裁乎(ちゅうさいこ)として口を開いて曰いわく、日はきめんでもいずれそのうち私が自転車で御宅へ伺いましょう、そしていっしょに散歩でもしましょう、――サイクリストに向っていっしょに散歩でもしましょうとはこれいかに、彼は余を目してサイクリストたるの資格なきものと認定せるなり」(『自転車日記』)
「忘月忘日 人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもないと、今日はズーズーしく構えて、バタシー公園へと急ぐ、・・・・・、今しも余の自転車は「ラヴェンダー」坂を無難に通り抜けて、この四通八達の中央へと乗り出す、向うに鉄道馬車が一台こちらを向いて休んでいる、その右側に非常に大なる荷車が向うむきに休んでいる、その間約四尺ばかり、余はこの四尺の間をすり抜けるべく車を走らしたのである、余が車の前輪が馬車馬の前足と並んだ時、すなわち余の身体が鉄道馬車と荷車との間に這入りかけた時、一台の自転車が疾風のごとく向から割り込んで来た、かようなとっさの際には命が大事だから退却にしようか落車にしようかなどの分別は、さすがの吾輩にも出なかったと見えて、おやと思ったら身体はもう落ちておった、落方が少々まずかったので、落る時左の手でしたたか馬の太腹を叩いて、からくも四這の不体裁を免まぬがれた、やれうれしやと思う間もなく鉄道馬車は前進し始める、馬は驚ろいて吾輩の自転車を蹴飛ばす、相手の自転車は何喰わぬ顔ですうと抜けて行く、間の抜けさ加減は尋常一様にあらず、・・・・・」(『自転車日記』)
で、結論は、、、
「余が廿貫目の婆さんに降参して自転車責に遇ってより以来、大落五度小落はその数を知らず、ある時は石垣にぶつかって向脛を擦むき、ある時は立木に突き当って生爪を剥がす、その苦戦いうばかりなし、しかしてついに物にならざるなり、・・・・・」(『自転車日記』)
しかし、これは脚色のようで、鏡子夫人が後に語ったところによると、彼は「よくおっこちて手の皮をすりむいたり、坂道で乳母車に衝突して、以後気をつけろとどなられたりして、それでもどうやら上達して、人通りの少ない郊外なんぞを悠々と乗りまわして」いたらしい。
つづく
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