1902(明治35)年
9月
この頃、「夏目狂セリ」との噂が広がる。
明治35年の9月頃、「夏目狂セリ」との電文を文部省に送った人物がいたようだ。当時、ロンドンで漱石を知っていたのは土井晩翠や姉崎正治、留学生の岡倉由三郎、同じ下宿の犬塚武夫や渡辺和太郎らがいた。犬塚や渡辺らは、企業人や伯爵のお供としてロンドンに来ていたので、文部省関係からは除外できるので、土井晩翠、姉崎嘲風、岡倉由三郎のうちの誰かが、電文を送ったと考えられる。
漱石の妻鏡子の『漱石の思い出』には、以下とある。
「夏目が発狂したというもっぱらの噂が日本にも伝わっていたのだそうですが、私はいっこうそんなことを知らずにおりました。事のおこりはこういうのだったと後からきかされました。なんでも留学生の義務として、文部省へ毎年一回ずつか、研究報告をしなければならないのだそうですが、夏目は莫迦正直に、一生懸命に勉強はしているものの研究というものにはまだ目鼻がつかない。だから報告しろったって報告するものがない。しかも文部省のほうからは報告を迫ってくる。そこでますます意地になったのか、白紙の報告書を送ったとかいうことです。文部省でも変だと思ってるところへ、ちょうど同じ英文学の研究であちらへ行っていられたある人が、落ち合って様子を見ているとただごとでない。宿の主婦にきけば毎日毎日幾日でも部屋に閉じこもったなりで、まっ暗の中で、悲観して泣いているという始末。これはたいへんだ、てっきり発狂したものに違いない。こういうので、いつ自殺でもしかねまじいものでないとあって、五日ばかりもその方が側についていてくだすったそうですが、経過は依然たるもので、見れば見るほどますます怪しい。そのことがいつか文部省のほうへ電報でいったのか手紙で行ったのか、夏目がロンドンで発狂したということがわかっていたそうです。そんなわけで一高あたりにおられたお友達や、それからどうして知っていたのか妹の時子や鈴木なども知っていたのだそうですが、鈴木などはともかく噂であってみれば、ほんとうかもわからないが、またうそかもわからない。帰ってきてみればわかるのだから、その時になって臨機の処置をとったらいいのだから、今から話をして家のものを心配させるにもあたるまいとあって、だれも私には聞かせずにおいたものだそうです」
文章にある、「同じ英文学の研究であちらへ行っていられたある人」は土井晩翠のことで、鏡子は後年(昭和3年)土井非難の文章(「同じ英文学の研究者なところから、夏目が失脚すればその地位が自然自分のところに回ってくるというので、たいした症状もないのにこんな奸策を巡らしたのだ。彼奴は怪しからん奴だ」との漱石の怒り)を発表し、土井がそれに抗議・反論(弁明)するという事態になる。
土井晩翠『漱石さんのロンドンにおけるエピソード 夏目夫人にまゐらす』(青空文庫)
晩翠は、前年8月15日、ロンドンのヴィクトリア停車場で漱石の出迎えを受ける。その日の漱石日記には「土井氏より電報来る。土井氏を迎うるためVictoria Stationに至る。故郷より妻、妻の父、梅子より手紙来る。妻より冬の下着二着ハンケチ二牧、梅子よりハンケチ二牧送り来る」とある。
この年9月9日、漱石の下宿を再び訪れた晩翠は、漱石の様子がおかしいと気づき、下宿のミス・リールに尋ねると「部屋に閉じこもったなりで、真っ暗の中で、悲観して泣いている」という。心配した晩翠は、10日ほど漱石の下宿に滞在した。
□江藤淳の見解
「彼の異常を発見したのは、「同じ英文学の研究」のためにロンドンにいた「ある人」(夏日鏡子『漱石の思ひ出』)である。これは「漱石さんのロンドンにおけるエピソード」(『雨の降る日は天気が悪い』所収)によれば土井晩翠である。土井は金之助の様子がただごとでないのを見て、下宿の女主人ミス・リールに問いただし、「毎日々々幾日でも部屋に閉ぢこもつたなりで、まつ暗の中で、悲観して泣いてゐる」という状態がつづいていることを知った。彼は金之助の「驚くべき・・・様子」にショックを受け、十日余り側についていた結果彼が異常だという判断に確信を深めるにいたった。文部省あてにこのことを聞いた岡倉由三郎から「夏目狂セリ」という電報が発信されたのはその直後である。
この知らせはたちまち東京の大学社会にひろまり、さらにその周辺に浸透した。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
□小宮豊隆の見解
「野間真網によれば、漱石が病気だと言って文部省に地報を打ったのは、岡倉由三郎なのだそうである。野間はこれを漱石から直接に聞いたのだという。しかし後になって発見された、藤代素人に宛てた岡倉由三郎のこの時の手紙によると、岡倉も漱石発狂の旨を文部省に知らせたのは、誰だか分からないと言っている。あるいは土井晩翠と同宿の姉崎正治から井上哲次郎を経て、文部省に伝わったのではないかとも言っている。その言葉にも疑えば疑う余地がなくもないが、結局誰が知らせたかは、分からないとしておくより仕方がない。一時それは土井晩翠だといわれたこともあった。しかしこれについては晩翠自身が筆をとって、然らざる所以を弁じている。ーーもっともここに「0君」とあるのは、岡倉由三郎である。しかし漱石は神経衰弱にかかり、下らないことが気にかかって勉強がろくにできず、気分も鬱々として楽まなかったということは事実でも、岡倉由三郎だか誰だかが考えていたように、気が違っていたのではなかった。それを藤代素人が証言する。少くとも藤代素人が二日一夜行動をともにした限りにおいては、漱石は索人を普通に案内することもできれば、普通に言動することもできているのである。船室の申込みをして間際に断ったことも、スコットランドの旅行が長びいて、出発の支度ができなかったのだから、仕方がない。沢山買い込んだ本を、人任せにして、身一つで立つわけに行かないというのは、当り前である。「夏日ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」という文部省の電命にもかかわらず、その電報を取次いだ「0君」が、是非連れて帰れと熱心に忠告するにもかかわらず、自分の見たところでは決して心配はないとして、籐代素人が一人で立って行ったのも、適切な計らいであったと言っていい。」(小宮豊隆 夏目漱石 37神経衰弱)
□十川信介『夏目漱石』(岩波新書)の見解
「土井晩翠の来英
・・・・・次に彼が漱石と会った同年(*明治35年)九月上旬には、漱石は「猛烈の神経衰弱」に陥っていた。土井の「漱石さんのロンドンにおけるエピソード」(『中央公論』昭和三年二月)は、当時の漱石の状況を示すと同時に、『改造』(昭和三年一月)に鏡子が記した濡れ衣に正面から抗議したものであった。漱石の病状を文部省に打電したのは絶対に自分ではない、云々。
「夏目発狂す」
土井の鏡子宛抗議文の形を取る公開文によると、三十五年九月に久しぶりに訪問したとき、漱石の病状はたしかに深刻だった。だがそれを文部省に打電したのが自分だと思われていたことは、土井にとっては見過ごすことができない「汚名」だった。彼は鏡子の文を読んでただちに反論し、私費留学の自分は文部省と関係はない「私費生」であると記し、そのころの日程を明らかにしている。彼は二日間は通いで漱石の部屋へ行き、九月九日から十八日まで漱石と同居し、十月十一日にはフランスに渡ったのだという。
その一方で、土井には、ドイツに留学した芳賀矢一が帰国途中、ロンドンに寄り、夏目は「ろくに酒も飲まず、あまりまじめに勉強するから鬱屈して、そうなったんだろう、・・・文部省の当局に話さうか」と言った記憶がぼんやりとある。「多分芳賀先生が文部当局と相談なされ」たのではないか、と推測している。芳賀がロンドンから帰国の旅に出たのは七月四日、文部省から岡倉由三郎に「夏目、精神に異状あり、藤代同道帰国せしむべし」との電報が来たのは、それから三、四カ月ほど後のことだというから、直接文部省に留学報告をした芳賀が漱石に関して言及した可能性は十分にある。
ただし芳賀がロンドンで漱石に会ったのは七月初めなので、岡倉が「夏目君に極めて接近してゐた某氏」が「こは一大事と」、「大陸の旅先から」芳賀に「内信を発した」と言う某氏とは誰を指すのか不明である。そのころ漱石と親しくしていたのは池田菊苗しかいないからである。文部省からの電信に対して、岡倉は「心配無用なる旨」を報じた。江藤淳は「夏目狂セリ」と笹報を打ったのは岡倉だと断定しているが、小宮豊隆の説に漱石から直接聞いたとあることが根拠らしい。だが岡倉が打電したのは「心配無用」の電文である。漱石はそう思いこんでいたのだろうが、結局は小宮の言うように不明とするのが穏当だったのかもしれない。留学生の集団は複雑である。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
□藤代素人の証言
文部省から「夏日精神二異状アリ。藤代へ保護帰朝スべキ旨伝逹スべシ」という訓令を受け取り、漱石の帰国をサポートする目的でドイツからロンドンにやって来た藤代素人は『夏目君の片鱗』で次のように書いている。
「我々の留学は満二年の期限であった。その期の満つる一ヶ月程前に「夏目を保護して帰朝せらるべし」という電命が僕に伝えられた。これは君の精神に異状があるということが大袈裟に当局者の耳に響いたためである。それでなくても僕は無論同船して帰朝する積りで、その前に君と打合せをしておいた。所が倫敦へ着くなり郵船会社の支店へ行くと、事務員が「夏目さんは一度乗船を申込んで置きながらお断りになりました」とさも不平らしく訴える。「もし同船して帰るといったら船室の都合は附きますか」と開いたら、「それはどうにかなりましょう」という返答だ。そこで夏目君に端書を出したら翌朝僕の下宿へ来て呉れた。君より前に来て居たO君は、例の電報を取次いだ関係で、是非一所に連れて帰れ、荷物の始末は跡でどうにでも付ける。ああいう電報のあった以上もしものことがあったら君は申訳はあるまいと熱心に同行を主張する。とにかく同行を勧めて見ようと答えておいて、その日は夏目君とナショナル、ギァレリーを一所に見て、午餐をともにし、それから君の下宿に一泊した。君が帰朝を後らせることになったのは、蘇格蘭(スコットランド)へ旅行して、予定よりも長逗留をし、荷物が出来ないためだ。そこで荷造りは人に頼んで体だけ僕と一所に帰ったらどうかと再三勧めて見たが、どうしても応じない。なるほど君の部屋には留学生としてはよくもこんなに買集めたと思うほど書籍が多い。これを見捨てて他人に後始末を任せるということは僕にしても出来相もない。それに今日一日見た様子では別段心配する程のこともないらしい。この上無益な勧告を試みるでもないと僕は断念した。その翌日君にケンジントン博物館と図書館を案内して貰い、図書館のグリル・ルームで一片の焼肉でエールを飲んだ。
「モウ船までは送って行かないよ」という言葉を最後に別れた。」(藤代素人 夏目君の片鱗)
つづく
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