1902(明治35)年
9月15日
第一生命保険(互)設立。本社東京、専務取締役矢野恒太。1900年の保険業法による初の相互会社。
9月16日
文部省、女子学生の思想調査を開始。躾、情操教育強化。視学官を全国女学校に派遣。
9月16日
「日本」紙上の子規『病牀六尺』休載。5月11日以来のこと。
9月17日
子規最後の『病牀六尺』(127回、最終)
「子規が息を引き取る二日前、一九〇二年九月一七日付『病床六尺』は長崎の狂歌師の西芳菲からの手紙を書き写している。子規の病状を心配しながら、九月一二日付「自分はきのふ以来昼夜の別なく、五体すきなしといふ拷問を受けた」という記事へ応答してきた手紙だ。
○芳菲山人より来書。
拝啓昨今御病床六尺の記二三寸に過ず頗(すこぶ)る不穏に存候間御見舞申上候達磨(だるま)儀も盆頃より引籠り縄鉢巻にて筧(かけひ)の滝に荒行中御無音(ぶいん)致候
俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか
子規にとって生き抜くということは、新聞という活字メディアにおいて、読者との言葉による応答を続けることにほかならなかった。「俳病」という文字遣いに、生き抜くことに込められた子規の文学精神への投稿者の思いが表現されている。『病床六尺』は、見事に作者と読者の、言葉を仲立ちとした相互応答関係を実現していたのである。
これが最後の記事となった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
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「九月十七日、その百二十七が掲載された。それは、九月十二日以来『病牀六尺』の稿が短いことを詫びた、七十字あまりのやはり極端に短い一稿であった。
子規は自らを、身動きのとれぬ「達磨(だるま)」に擬して、「達磨儀も盆頃より引籠(ひきこも)り、縄鉢巻にて筧(かけひ)の滝に荒行中、御無音(ぶいん)致候」としるした文末に、「俳病の夢みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか」の一首を添えた。結果として、これが最終回となった。
九月十七日の子規は、朝から痰が切れない。一度粥を少量食したのちは、レモン水を口にしたばかりである。子規が母八重に、四国松山の大原家へ電報を打とうかといったのは、自らの終焉が遠くないと覚ったからであろう。
足の水腫はさらにすすむ。すでに閉尿しつつあって体内の水分が排出されないのである。腰部にあいた穴はカリエスのみによらない。ひどい褥瘡が体の内部におよんで空洞をつくっている。加えて、このところ低体温が著しい。
この日、正岡家では子規の誕生日を祝い、赤飯を炊いた。例年なら、十月中旬から下旬の旧暦九月十七日に祝うのだが、あえて新暦の同月同日にしたのは、翌月まではもたぬと見切ったからである。赤飯は陸家にも届けられたが、祝宴のない静かな誕生日であった。」(関川夏央、前掲書)
9月18日
朝から子規の容態がおかしくなる。
18日朝から19日午前12時50分頃の子規絶命までの経緯
「九月十八日は朝から容態がおかしかった。宮本医師を、陸家の電話を借りて呼んだ。異変を知った羯南がやってきた。午前十時すぎ碧梧桐がきた。
子規のようすを見た碧梧桐が律に、虚子は呼んだかと尋ねた。いえ、まだ、と答えた律の声に、子規が、「高浜も呼びにおやりや」と小さな声でいったので、十一時頃、碧梧桐が再び陸家の竃話を借りに行った。
戻った碧梧桐と律が介添えして、病床の子規の眼前に画板を掲げた。子規の手に、墨汁をふくませた筆を持たせた。辞世の句を書かせようとしたのである。
子規は、画板に貼った唐紙の中央に、
「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」
と書き、筆を投げた。
痰をとって四、五分後、最初の句の左側に、
「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
と書いて再び筆を捨てた。
さらに四、五分、苦しい気息を整えて、逆側に、
「をととひのへちまの水も取らざりき」
と書くと三たび筆を捨てた。落ちた筆の穂先が、敷布を少し染めた。この間、子規は終始無言であった。
へちまの水は旧暦の八月十五日にとるのをならいとする。それに従えなかったのが無念、といっている。
痰の切れる薬を持参した柳医師が、親戚に連絡せよというのとほぼ同時に、子規は昏睡に入った。到着した虚子と碧梧桐が相談のうえ、在京する親戚にはハガキで報ずることにし、急ぎしたためた。
夕方五時前、目覚めた子規が苦悶のようすを見せたのでモルヒネを与えたが効果はない。五時半頃、宮本医師が来訪して胸部に注射すると、子規は再び昏睡した。羯南の長女まきと加藤拓川夫人がきた。
六時すぎ、碧梧桐が去った。「ホトトギス」五巻十一号を校了にするためであった。この時期、俳書の刊行に力を注ぐ虚子にかわって、碧梧桐が雑誌実務を担っていた。七時すぎ、寒川鼠骨がきた。碧梧桐の姉静がきた。
八時前に子規は目覚め、コップ一杯の牛乳をゴムの管で吸った。この朝、陸家から届けられたおも湯を、わずか口にして以来であった。
「だれだれが来ておいでるのぞな」と子規が尋ねた。
「寒川さんに清さんにお節さん」と律がこたえた。
それが、子規の生前に発した最後の言葉となった。子規は、そのあとただちに昏睡に入った。
虚子が松山の大原恒徳に手紙を書いているとき、午前中に出されたハガキを夕方の配達で受けとった松山以来旧知の鷹見夫人がきた。虚子は大原家宛の手紙をあらかた書き終えていたが、八重と相談して、「シキヤマイオモシ」という電報を大原恒徳に打った。
夜も更け、見舞いの人々は鷹見夫人以外去った。眠る子規のために蚊帳を吊ったとき、気をつけてはいても蚊帳が子規の顔に触れた。それでも目覚める気配はない。
十一時をすぎた。八重と鷹見夫人が子規のかたわらに侍し、律と虚子は一応就床して半夜で交替することにした。
まだ眠気のこない虚子は庭に出てみた。満月をすぎたばかりの耿々(こうこう)たる月である。しばらくたたずみ、五、六度深呼吸をしたのち、病人の次の間に戻って眠った。
八重の、「のぽさん、のぽさん」と呼びかける声に虚子は起こされた。鷹見夫人も唱和するその声には切迫感がある。律も病間隣りの四畳半から起き出してきた。
時々うなっていた子規が、ふと静かになった。鷹見夫人と昔話をしていた八重が手をとってみると、冷たい。呼びかけにも反応しない。顔をやや左に向け、両手を腹にのせて熟睡しているかに見えるが、額は微温をとどめるのみであった。子規の息は、母親が目を離した隙に絶えていた。
旧暦ではまだ八月十七日、新暦では明治三十五年九月十九日になったばかりの午前十二時五十分頃であった。子規の生涯は満三十四年と十一カ月余りであった。
律は陸家に走った。家人を起こし、電話を借りて宮本医師に報じた。
虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。
「子規逝くや十七日の月明に」
虚子の口をついて出たのは、この一旬であった。」(関川夏央、前掲書)
つづく
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