『吾輩ハ猫デアル 上編』ジャケット下絵 装丁橋口五葉(1905年)
〈子規没後の子規山脈①〉
□漱石、虚子と碧梧桐
「・・・・・明治三十七年秋、留学帰りで一高と東京帝大文科大学で教える漱石に、虚子は「ホトトギス」に載せる散文を頼んだ。漱石は自らのノイローゼ治療の一環として引受けた。できあがった原稿を虚子が子規庵定例の「山会」で朗読すると、座は明るい笑いに満ちた。漱石に続稿を促したのも、『猫伝』とあった題名を、冒頭の一文からとって『吾輩は猫である』とするよう勧めたのも虚子であった。
明治三十八年一月号に始ったこの小説には月ごとに読者がつき、「ホトトギス」の売行は向上した。漱石の「発見」といい、題名の選択といい、虚子には編集者としての眼力が備わっていた。のんびりしているように見えて出版業を成功させる手腕を併せ持つ虚子と漱石は、昔からウマの合う間柄であった。
翌明治三十九年の「ホトトギス」は、さらに小説づいた。一月、左千夫の可憐な『野菊之墓』、四月は漱石『坊っちゃん』二百二十枚を巻末付録に一挙掲載、五月には漱石が推薦した鈴木三重苦の小説第一作『千鳥』を載せた。
漱石が教職を辞して東京朝日新聞の社員作家となった明治四十年、これも漱石が推した野上八重子(弥生子)の第一作『緑』が、明治四十一年には長塚節初の小説『芋掘り』が「ホトトギス」に載った。虚子自身もこの年、最初の小説集『鶏頭』を漱石の序文つきで刊行し、徳富蘇峰の「国民新聞」に『俳諧師』を連載した。虚子は蘇峰に招聘され、明治四十一年秋には国民新聞社の文芸部長となった。
だが、漱石が東京朝日にしか書かなくなると「ホトトギス」の部数は急減した。虚子は明治四十三年九月に国民新聞社を退社、明治四十四年秋からは「ホトトギス」を本来の句誌に戻して、その頽勢挽回に全勢力を傾けることにした。だがそれは、少年時代以来「よく親しみよく争」った碧梧桐との、決定的な別れにつながった。
やがて大正年間に入ると碧梧桐はこんな句をつくるようになる。
曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ 碧梧桐
菊がだるいと言つた堪へられないと言つた
菜の花を活けた机をおしやつて子供を抱きとる
季題は残るものの、完全な自由律の方向へと進む碧梧桐と虚子は、ついに相容れない。」(関川夏央、前掲書)
□子規を語る漱石
「漱石は子規没後、子規にふれたものとして「無題」(明治三十六年)、『吾輩は猫である』中篇自序(明治三十九年)、「京に着ける夕」(明治四十年)、「正岡子規」(明治四十一年)、「子規の畫」(明治四十四年) の五篇を残している。」(日下徳一『子規断章』)
□漱石の後悔、漱石の弔辞
『吾輩は猫である』中篇自序(夏目漱石)(青空文庫)
「「猫」の稿を継(つ)ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚数に筆を擱(お)いて、上下二冊の単行本にしようと思って居た。所が何かの都合で頁ページが少し延びたので書肆しょしは上中下にしたいと申出た。其辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善よかろうと同意して、先(ま)ず是丈(これだけ)を中篇として発行する事にした。
そこで序をかくときに不図(ふと)思い出した事がある。余が倫敦(ロンドン)に居るとき、忘友子規の病を慰める為め、当時彼地(かのち)の模様をかいて遙々(はるばる)と二三回長い消息をした。無聊(ぶりょう)に苦んで居た子規は余の書翰(しょかん)を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は余程(よほど)の重体で、手紙の文句も頗すこぶる悲酸(ひさん)であったから、情誼(じょうぎ)上何か認(したた)めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んで居る身分ではなし、そう面白い種をあさってあるく様な閑日月もなかったから、つい其儘(そのまま)にして居るうちに子規は死んで仕舞しまった。
筺底(きょうてい)から出して見ると、其手紙にはこうある。
(略、子規の手紙の全文引用)
此手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥(たしか)である。余は此手紙を見る度(たび)に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉えとある文句は露佯(つゆいつわ)りのない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えと云う余の返事には少々の遁辞(とんじ)が這入(はい)って居る。憐(あわ)れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐(かい)もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。
子規はにくい男である。嘗(かつ)て墨汁一滴か何かの中に、独乙(ドイツ)では姉崎や、藤代が独乙語で演説をして大喝采(だいかっさい)を博しているのに漱石は倫敦(ロンドン)の片田舎(かたいな)かの下宿に燻(くすぶ)って、婆さんからいじめられていると云う様な事をかいた。こんな事をかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉え抔(など)と云われると気の毒で堪たまらない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞しまった。
子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云うか知らぬ。或(あるい)は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免(ごめん)だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になった事が左程(さほど)の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗(あん)に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好(かっこう)かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬(むく)いたと云うから、余も亦また「猫」を碣頭(けっとう)に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴そうと思う。
子規は死ぬ時に糸瓜(へちま)の句を咏(よ)んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に
長けれど何の糸瓜とさがりけり
という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併(あわせ)て地下に捧げる。
どつしりと尻を据(す)えたる南瓜(かぼちゃ)かな
と云う句も其頃作ったようだ。同じく瓜と云う字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄(あいだがら)だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈(はず)だ。そこで序(ついで)ながら此句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据(す)えるべき尻がないので落付をとる機械に窮しているだろう。余は未(いま)だに尻を持って居る。どうせ持っているものだから、先(ま)ずどっしりと、おろして、そう人の思わく通り急には動かない積(つも)りである。然し子規は又例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為め一言断って置く。
明治三十九年十月」
「四年後の弔辞
つまり、作家として立ち始めたこの時、漱石は子規の生々しい懇願の手紙を公開することで、自分を罰していた。あの世にいる子規に、遅まきながら返信をした、とも言える。
(略)
ロンドンでくすぶっているという子規の悪口を自分への叱咤激励と心得て、子規は嫌がるかもしれないが、『吾輩は猫である』を子規への手紙代わりに、その心の慰めにしよう、と言う。「季子は剣を墓にかけて」とは、『史記』呉太伯世家を出典とし、『十八史略』や『蒙求』にも載る中国の故事で、徐の王様が生前、季子の名刀を欲しがったが、あいにく季子は役目の旅の途中で、これを渡さず、帰りに立ち寄ると、徐王は死んでおり、それでも墓に名刀をかけて献上したという話である。・・・・・『吾輩は猫である』は、季子の剣にも匹敵する宝だという自信をのぞかせている。さらに、漱石はこう続ける。
子規は死ぬ時に糸瓜の句を詠んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に
長けれど何の糸瓜とさがりけり
という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。
・・・・・明治二十九年作の「長けれど」の句の「何の糸瓜」とは、「何の糸瓜の皮」という江戸弁の決まり文句で、「糸瓜のようにつまならいもの程に少しも」という意味である。確かに「糸瓜」は、いかにも愚かな恰好をしているが、見ようによれば、大きくてふてぶてしい。
その糸瓜『吾輩は猫である』にも縁があるというのは、主人公で漱石自身を当て込んだ苦沙弥先生らを、「糸瓜」のような太平の逸民と猫に言わせてみたり(第二話)、苦沙弥の元教え子の寒月を「糸瓜が戸惑いをしたやうな顔」と評したりしている(第四話)ことを踏まているのだろう。要するに、子規の絶筆の滑稽も、『吾輩は猫である』のそれも、縁つづきだと言いたいのである。ずいぶん砕けた文章だが、『吾輩は猫である』は、子規との滑稽を含んだ交際の中から生まれたものだ、と言いたいらしい。俺が作家になっちまったのは、お前のせいだといった口調である。漱石はこうふざけて書くことが、自分の死を糸瓜に託して亡くなっていった子規への、何よりの供養だと思っていたに相違ない。
爽やかな笑いが繋ぐ友情
作家として立ち始めた漱石は最後に、こう結んでいる。その意中には子規を思い出すことで次へ進もうというものがあったようだ。
どっしりと尻を据えたる南瓜(かぼちゃ)かな
と云う句も其頃作ったやうだ。同じく瓜と云ふ字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。・・・・・
南瓜も愚なる形状という点では糸瓜と同様で、案の定「瓜」の字が通じているとにこじつけて、ついでに南瓜の句も基に手向けることにしたと戯れた後、自分はしばらく「南瓜」になって尻を落ち着けて、人の思惑通りには生きないつもりだ、などと宣言している。」(『ミネルヴァ評伝選正岡子規』)
つづく
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