2025年3月2日日曜日

大杉栄とその時代年表(422) 1902(明治35)年10月 漱石のスコットランド旅行 「彼のピトロクリー滞在は十月下旬より一週間程度と思われるが、ロンドンの煤煙と雑踏を逃れ、その自然に接した清々しさは、帰国後の小品「昔」(『永日小品』所収)に満ちている。彼が小高い丘にあるディクソンの邸で四方を眺めたとき、一本のバラが塀に添って咲き残っていた。彼は邸の外に出て、主人と一緒に谷川まで下りて見たが、「崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散ってゐた」。鏡子は帰宅した漱石の荷物に、何かの花片が交じっていたことを記憶している。おそらくそれは、この絶景と晴ればれした気持ちの記念として彼が拾って蔵(しま)ったバラの花に違いない。」(十川信介『夏目漱石』)

 

スコットランドで漱石の泊った宿

大杉栄とその時代年表(421) 1902(明治35)年9月23日~10月 大杉栄(17)、本郷会堂で海老名弾正から洗礼を受ける。「とにかく僕は先生(本郷会堂の海老名弾正)の雄弁にすっかり魅せられてしまった。まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髭をしごいてはその手を高くさしあげて、『神は……』と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼって泣くと、やはり一緒になって泣いた。」(大杉栄「死灰の中から」) より続く

1902(明治35)年

10月

漱石、スコットランド(ハイランドの中心部にあるピトロクリイ)を旅行。


「十月初旬、 Scotland (スコットランド)に旅行する。 Pitlochry (ピトロホリ Edinburgh (エディンバラ)の西北百キロ)の John Henry Dixon の Dundarach 屋敷に滞在する。 Scotland から London の岡倉由三郎宛手紙に、病気にかこつけて、過去の一切から解放され、気楽に毎日を送っている。十一月七日(金)の日本郵船を予約したため宿の主人からは二、三週間滞在を延長するように勧められたけれども、何時までもいることはできぬ、ロンドンに帰ってお目にかかりたいと伝える。」


「十月末から十一月初めの間(月日不詳)、 Pitlochry (ピトロホリ)から London に帰る。」(荒正人、前掲書)


「坂元雪鳥の「修善寺日記」(明治四十三年八月二十三日)に、「・・・・・蘇格土蘭土(スコットランド)を旅行した時山路で馬車で通つてるとね、道端の木にチヨイチヨイと飛んで遊んでた〔栗鼠〕可愛いもんだね、彼處邊(あそこいらへん)の様な田舎は日本にはないね、實に気持ちが宜いんだよ、一寸田舎町に出ると、夫が又實に綺麗でね、神楽坂なんかよりズツと整つてるし道は宜いしね」また、漱石の塩原行きの日記(大正一年八月十七日)に「いゝ路なり蘇格土蘭土を思ひ出す」とある。これは、 Pitlochry から Pass of Killiecrankie (キリクランー)の古戦場に向う時の体験であったと思われる。泊っていた場所はよくは分らぬが、 Pitlochry の近くの高地にある屋敷ではなかったかと思われる。北に聳える Ben Vrackie (ベン・ヴラッキー山 八百三十メートル強)から西南四キロ弱の地点にある Craigower (クレーガワー山 三百九十五メートル強)の麓を Lake Faskally (ファスカリー湖)に沿って、西北に六キロほど行った所に、 Pass of Killiecrankie の古戦場がある。一六八九年七月二十七日糊、 Dandee (ダンディー)伯爵の率いるジャコバイト党と William Ⅲ (ウィリアム三世)側の Hugh Macay (ヒユー・マッケー)将軍が戦い、前著は後者を山道に追いつめ、多数の死傷者と溺死者を出す。他方、 Dandee 伯爵は戦死する。 - 漱石は Pass of Killiecrankie の古戦場を訪れて、こんな歴史に興味を寄せていたかもしれぬ。『イギリスの園藝』〔談話〕の「花」に「スコットランド邊へ行くと、大概な百姓屋にでも培養されて居る」とあるのは、菊のことである。」(荒正人、前掲書)

Pitlochry と Dundarach 屋敷


「 King's Cross Station (キングス・クロス停車場)から午前十時に出発する急行列車 Scotman に乗ったものと推定される。これは、 Edinburgh (エディンバラ)までである。 Pitlochryまでは、普通列車が通じていたと推定される。 Sidlaw Hills (シッドロー丘陵)の西端に近い Perth (パース)から北上し、鉄道の分岐点 Stanley (スタンレー)から西北に進んだものと推定される。 Pitlochry の西には、 Lake Faskally (ファスカリー湖)があり、湖水地方の一角である。美しい風景に囲まれた避暑地として名高い。漱石は Pitlochry を「ピトロクリ」と書いている。現地でも、「ピトロクリ」と発音するらしい。(角野喜六)一応、発音辞典に従い「ピトロホリ」とする。」


「現在は、 Dundarach Hotel になる。当時は、 John Henry Dixon という貿易商の建てた日本趣味の建物であった。 John Henry Dixon は、東洋貿易で成功し、一八九八年に Pitlochry に移り住む。日木趣味の人で、庭師四人・大工二人・料理人一人・友人一人の八人の日本人と共に住む。屋敷の一角には、日本庭園があった。これらの日本人は、一九二四年帰国する。 Dundarach Hotel となったのは、一九三五年である。」(荒正人、前掲書)


「スコットランド旅行

彼がスコットランドへ旅行したのは自転車稽古に励んだ後、十月初句と思われる。彼はロンドンの暮らしが嫌になり、美しい自然に憧れていた。彼を招待した英国人は、平川祐弘「漱石を抱いてくれた英国人」(番町書房『作家の世界 夏目漱石』所収)や、角野喜六『漱石のロンドン』(荒竹出版)、稲垣瑞穂『漱石とイギリスの旅』(吾妻書房)などによって、明らかにされた。それらによると、漱石が滞在したのはこの地の名士で、弁護士のJ・H・ディクソンなる親日家である。彼はイングランド出身だが、この地を愛し、さまざまな慈善事業やボーイスカウトなどの役員を務めていた。彼はピトロクリーの風物を愛し、一九〇二年からピトロクリーのダンダーラック(樫の木の要塞の意)の邸に住み、日本庭園の大改装を行った。彼は最初の世界旅行(一八九九-一九〇二)で日本に長期滞在し、日本庭園や絵画に魅せられたという。漱石が招かれたのは、まさに現地人がディクソンの指示で改装を終えたころだった。ロンドンで「日本協会」が結成されたのは明治二十五年一月、二十七年には名誉会員、通信会員を含めて四百六十二名に達しでいたという(『時事新報』明治二十七年二月十六日)。もちろんディクソンは会員であり、自分が実見した日本庭園を構想したのである。彼は「日本の有力な美術家数人とも親交があった」というから、その一人は岡倉の兄、天心で、弟にそのことを伝えたとも考えられるし、『永日小品』の「過去の臭ひ」のK(長尾半平、前出)が「蘇格蘭(スコットランド)から帰って来た」という書き出しが事実だとすれば、長尾がスコットランドの良さを漱石に吹きこんでいたとも言える。その両要素が重なり合って、日本の言語、文学、歴史、稗史(はいし)、美術工芸及び古今の風俗を研究する日本協会が、条件に適する漱石をピトロクリーのディクソンの許に送ったのではないか。もちろん、これはまだ一つの臆説にすぎない。

彼のピトロクリー滞在は十月下旬より一週間程度と思われるが、ロンドンの煤煙と雑踏を逃れ、その自然に接した清々しさは、帰国後の小品「昔」(『永日小品』所収)に満ちている。彼が小高い丘にあるディクソンの邸で四方を眺めたとき、一本のバラが塀に添って咲き残っていた。彼は邸の外に出て、主人と一緒に谷川まで下りて見たが、「崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散ってゐた」。鏡子は帰宅した漱石の荷物に、何かの花片が交じっていたことを記憶している。おそらくそれは、この絶景と晴ればれした気持ちの記念として彼が拾って蔵(しま)ったバラの花に違いない。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


蘇国(スコットランド)に招待を受けて逗留せるは宏壮なる屋敷なり。ある日主人と果園を散歩して、樹間の径路悉く苔蒸せるを看て、よき具合に時代が着きて結構なりと覚めたるに、主人は近きうちに園丁に申し付けてこの苔を悉く掻き払う積なりと答えたるを記憶す」(漱石『文学論』)


 ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしている。十月の日は静かな谷の空気を空の半途で包んで、じかには地にも落ちて来ぬ。といって、山向うへ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落ちついて、じっと動かずに靄んでいる。その間に野と林の色がしだいに変って来る。酸いものがいつの間にか甘くなるように、谷全体に時代がつく。ピトロクリの谷は、この時百年の昔むかし、二百年の昔にかえって、やすやすと寂びてしまう。人は世に熟れた顔を揃えて、山の背を渡る雲を見る。その雲は或時は白くなり、ある時は灰色になる。折々は薄い底から山の地を透せて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。

 自分の家はこの雲とこの谷を眺めるに都合好く、小さな丘の上に立っている。南から一面に家の壁へ日があたる。幾年十月の日が射したものか、どこもかしこも鼠色に枯れている西の端に、一本の薔薇が這いかかって、冷たい壁と、暖かい日の間に挟まった花をいくつか着けた。大きな弁は卵色に豊かな波を打って、萼(がく)から翻えるように口を開あけたまま、ひそりとところどころに静まり返っている。香いは薄い日光に吸われて、二間の空気の裡に消えて行く。自分はその二間の中に立って、上を見た。薔薇は高く這い上って行く。鼠色の壁は薔薇の蔓の届かぬ限りを尽くして真直に聳えている。屋根が尽きた所にはまだ塔がある。日はそのまた上の靄の奥から落ちて来る。
 足元は丘がピトロクリの谷へ落ち込んで、眼の届く遥かの下が、平たく色で埋まっている。その向う側の山へ上ぼる所は層々と樺の黄葉が段々に重なり合って、濃淡の坂が幾階となく出来ている。明らかで寂びた調子が谷一面に反射して来る真中を、黒い筋が横に蜿(うね)って動いている。泥炭を含んだ渓水は、染粉を溶いたように古びた色になる。この山奥に来て始めて、こんな流を見た。
 うしろから主人が来た。主人の髯は十月の日に照らされて七分がた白くなりかけた。形装なりも尋常ではない。腰にキルトというものを着けている。俥の膝掛のように粗い縞の織物である。それを行灯袴(あんどんばかま)に、膝頭まで裁って、竪(たて)に襞(ひだ)を置いたから、膝脛(ふくらはぎ)は太い毛糸の靴足袋で隠すばかりである。歩くたびにキルトの襞が揺れて、膝と股の間がちらちら出る。肉の色に恥を置かぬ昔の袴である。
 主人は毛皮で作った、小さい木魚ほどの蟇口(がまぐち)を前にぶら下げている。夜煖炉の傍へ椅子を寄せて、音のする赤い石炭を眺めながら、この木魚の中から、パイプを出す、煙草を出す。そうしてぷかりぷかりと夜長を吹かす。木魚の名をスポーランという。
 主人といっしょに崖を下りて、小暗い路に這入った。スコッチ・ファーと云う常磐木の葉が、刻み昆布に雲が這いかかって、払っても落ちないように見える。その黒い幹をちょろちょろと栗鼠(りす)が長く太った尾を揺って、駆け上った。と思うと古く厚みのついた苔の上をまた一匹、眸から疾(と)く駆け抜けたものがある。苔は膨れたまま動かない。栗鼠の尾は蒼黒い地を払子(ほっす)のごとくに擦って暗がりに入った。
 主人は横をふり向いて、ピトロクリの明るい谷を指さした。黒い河は依然としてその真中を流れている。あの河を一里半北へ溯るとキリクランキーの峡間があるといった。
 高地人ハイランダースと低地人ローランダースとキリクランキーの峡間で戦った時、屍が岩の間に挟まって、岩を打つ水を塞いた。高地人と低地人の血を飲んだ河の流れは色を変えて三日の間ピトロクリの谷を通った。
 自分は明日早朝キリクランキーの古戦場を訪とおうと決心した。崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散っていた。」(漱石『永日小品』「昔」)



つづく


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