2025年3月5日水曜日

大杉栄とその時代年表(425) 1902(明治35)年10月1日~19日 虚子・碧梧桐連名で漱石に子規終焉の様子を知らせる手紙を書く 「其ニモ時々認メアリタル如ク草花菓物等ヲ写生スルコトヲ非常ノ慰籍卜致シ色ノ出シ具合丸ミノツケ具合ナド中中ウマイモノニ有之シガ其モ五六十日間ノ慰籍ニ過ギズシテ愈死期近ヅキテハ筆ヲ取ルコトハ勿論体ヲネジル事モ出来ズ僅ニ菓物帖草花帖一冊ヅゝヲ残シテ永眠致サレ候 尚可申上事申上度事ハ山ノヤウニ有之候へド一先擱筆致候 匆々頓首」

 

高浜虚子

大杉栄とその時代年表(424) 1902(明治35)年10月 トロツキーの脱走② 「私がチューリヒからパリ経由でロンドンに到着したのは、1902年の秋――たぶん10月――の早朝だった。」(トロツキー『わが生涯』) 「プレハーノフはすぐさまトロツキーを猜疑の目で見た。彼は、トロツキーを『イスクラ』編集部の若手派(レーニン、マルトフ、ポトレーソフ)の同調者、レーニンの追随者とみなしたのだ。」(クルプスカヤ『レーニンの思い出』) より続く

1902(明治35)年

10月1日

石川啄木(盛岡中学3年、16)、「明星」第3巻第5号に「白蘋(ハクヒン)の筆名」で初めて短歌1首が載る。「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」。鉄幹は、「白蘋」の筆名が寂しそうなので「啄木」とつけててやる。

10月1日

宮崎滔天、新体浪花節桃中軒を組織。雲右衛門ら神田錦輝館で興行。

10月2日

閣議、外相小村寿太郎要求の清国・韓国事業経営費(479万円)支出を決定。京釜・京義線敷設、日清銀行設立(300万円)などの経費。

この月の閣議で小村外相、中国における帝国主義活動の型を分析。①ロシア:名目上は会社の活動、実質は純然たる政府事業、②英米:民間資本による、③独仏:官民共同。日本は独仏型以上によりロシア型に近い方法が必要と指摘。

10月3日

虚子と碧梧桐連名でロンドンの漱石に、子規終焉の様子を知らせる手紙を書く。


「漱石はすでに「ホトトギス」の九月二十日発行分で子規の死を知っている、という前提で手紙は書かれていた。また子規辞世三句はその後の新聞に掲げられたので、それも承知だろうとしながらも、いちおうあらためてつたえた。・・・・・

子規の臨終の模様は、このように書かれた。


(九月十九日)午前一時頃、余り静かなりとて不図(ふと)手を握り見しに已(すで)にこと切れ居りしといふ有様にて、殆ど薬も間に合はず死去せし有様に候。到底は覚悟致居候ひしも、かく急な事にはとも存ぜざりし者多かりしに、実に何人も悲痛驚愕の外無之(ほかこれなく)候。(・・・)

先日浅井(忠)先生帰朝、一度御尋ね被下候て、大兄の御近状をも聞きたる様子に候。実は御帰朝の日を待ち焦れ居りしものならんと、何事も悲しみの種と相成申候。


筆者はおそらく碧梧桐であろう。

漱石がクラバム・コモンの下宿でこの手紙を読んだのは十一月下旬であった。」(関川夏央、前掲書)

"

「虚子は・・・・・子規の病勢について、


時ニヨリテ軽重アリシモ要スルニ、日ニ月ニ衰弱加ハリ愈身体ノ自由ヲ失ヒ終ニ九月十九日午前一時ヲ以テ永眠仕り候 誠ニ傷マシキ限リニテ兼テ期シタル事ナリシモ今更不覚ノ涙ニ暮レ申候


と悔みにつづいて、遺骸のこと、寺のこと、戒名のこと、葬儀のこと、遺族のことを述べ、漱石の数度の「倫敦消息」について、


大ニ子規子ヲ慰メ候ノミナラズ甚ダ「ホトゝギス」ノ光彩ヲ添へ深ク感佩仕候 其後打続キ御願申上度ハ山々ナレトモ御来書ノ主旨モアリ差ヒカへ居候 子規子既ニ逝ク此上ハ同氏慰籍(ママ)ノ口実モナクナリ候へド御閑暇ノ節一二ノ叙事文御恵送ノ栄ヲ得「ホトゝギス」読者ノ渇ヲ医セシメ度万望ノ至リニ御座候


と謝し、「ホトトギス」の原稿を鄭重に依頼している。また、子規についての回想を認めてくれるよう頼んでいる。虚子は漱石が渡航後の子規について書いている。漱石を送別したときの西洋料理の塩辛かったこと、子規が健啖家だったこと、「日ニ月ニ重り行ク病苦ニ対シ常ニヨク堪へ忍ピタルモノハ全ク善ク食フニアリシコト申上ル迄モ無之候」、しかし、


コノ食欲ハ漸次相滅ジ候ノミナラズ歯ハ次第ニ腐朽シ歯根ニハ膿ヲ持チ硬キモノハ固ヨリ柔カキモノニテモ歯ヲカミシメテ食フコト出来ズ前歯腐朽シテ無クナリタル為メ横臥シテ液体ヲ飲ムニモ困難ヲ感ゼラレ候 殊ニコノ二三ケ月ハ毎日数度ノ下痢ヲ為スニ係ラズ暑サノ為メ滋養物ヲ食フコト能ハズ漬物ニ茶漬ヲ以テ常食卜致サレ候


と、・・・・・子規の衰弱していく実態をリアルに写している。

(略)

・・・・・九月になると、「足部ニ終ニハ脚部全体ニ水ヲ持チ其為メ仰臥ノマゝ僅ニ寝カヘリ出来居タル体全ク右側ヲ下ニ釘付ケトナリ些ノ運動モ出来ヌコトト」なる。この苦悶十余日の後、終に病魔に戦い負け、


骨と皮(顔面ハ恐ロシキ迄ニ痩セ衰へ全ク骨卜皮ニナラレ候、其代り足部ハ子規君ノ所謂仁王ノ足ノ如ク大磐石ノ如キ感有之候)ノ遺骸ヲ残シテ英魂ハ遠ク九天ノ外ニ飛ビ去り候


漱石が子規と別れたころも、子規の衰弱はすでに情を制する力がなく、よく泣きよく怒っていたようだが、その後いよいよ甚だしく、情に激したときには、「涙常ニ頬ヲ伝ヒ」、また、「事々ニツケ家人ヲ叱責」すること後になっては、いよいよ甚だしくなり、虚子らこれを「慰ムルニ辞ナク常ニ困却」し、


コノ半年許リハ三四人ニテ当直ヲ極メ殆ド日毎ニ病牀ニ侍シテ浮世話シ等ニ多少ノ慰籍ヲ与フルコトト致候ヒシモ常ニ談話ノ種ニ欠乏シ閉口致候 門ヲクゞレバ誠ニ惨憺タル光景ニテ東台山梺此ノ病詩人ノ庵ニハ日ハ照ラサヌコトカトウラメシク思ヒシコトモ度々ニ有之候                (『子規全集』一九巻)


漱石も新聞「日本」で「病林六尺」は見たことと思うが、と虚子は言い、


其ニモ時々認メアリタル如ク草花菓物等ヲ写生スルコトヲ非常ノ慰籍卜致シ色ノ出シ具合丸ミノツケ具合ナド中中ウマイモノニ有之シガ其モ五六十日間ノ慰籍ニ過ギズシテ愈死期近ヅキテハ筆ヲ取ルコトハ勿論体ヲネジル事モ出来ズ僅ニ菓物帖草花帖一冊ヅゝヲ残シテ永眠致サレ候 尚可申上事申上度事ハ山ノヤウニ有之候へド一先擱筆致候 匆々頓首」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))

10月3日

セオドア・ルーズベルト米大統領、5月12日以来の無煙炭炭鉱スト調停。

10月6

横浜でペスト発生。

10月6

英・シャム共同宣言。シャムは、ケランタンとトレンガヌの外交権を掌握。

10月6

ローデシア、ブラワヨ-ソールズベリー間鉄道開通。

10月7

香港上海銀行、興業銀行より譲受し、日本の5分利公債5,000万円売り出す。

10月7

二葉亭四迷、ハルビンより北京に到着。外語の同窓生川島浪速の家に落着き、川島が監督する北京の警務学堂の提調(事務長)に就任。月給200円。

10月8

ロシア軍、4月8日の露清満州撤兵協約に従い満州第1期撤兵を実行。但し、遼河以西の部隊を奉天東部に移動させ、鴨緑江沿岸に配備(朝鮮国境の兵力増加)。第2期以降実行せず。

10月9

万朝報に連載中の「椿姫」、風俗壊乱のかどで掲載禁止。

10月9

陸軍懲治隊条例公布。兵庫県姫路に設置。

10月9

フランス、鉱山労働者の3分の2がストライキ。

10月10

アインシュタイン父親、ミラノで没。

10月13

無煙炭炭鉱スト(5月12日~)を行っていた鉱夫側、セオドア・ルーズベルト大統領の調停に同意。16日、大統領、調停委員会任命。21日終結。

10月15

露・清、正太鉄道借款成立。

10月16

埼玉県、利根川火打沼の決壊堤防を放置し、川辺・利島両村の買収を計画(遊水池化のため)。

両村民は、①堤防を自力修復する、②納税・兵役の義務拒絶、を宣言。

12月27日、臨時県会で木下周一知事は廃村計画を断念。翌明治36年3月の第2次鉱毒調査委員会の谷中村遊水地化計画に影響(村名は明記されないが)。

10月18

社会主義協会、万国社会党大会に人種的差別反対提案決議。

10月18

京都高等工芸学校授業開始式。

10月19

早稲田大学開校式。東京専門学校を早稲田大学と改称。


つづく


0 件のコメント:

コメントを投稿