2025年3月6日木曜日

大杉栄とその時代年表(426) 1902(明治35)年10月21日~11月1日 漱石に東京での就職見込みありとの報 「そこで自分が其頃は熊本から一高へ来て校長をしてゐたので菅君や山川君が夏目を一高へとれといふ。しかし熊本から洋行して帰つたらすぐに一高へ出ると言ふのではまづいので、大學の方で欲しいといふことも理由となって遂に一高へ来ることにきまった。/それですぐロンドンへ東京に地位が出来るといふことを報せる為電報を打つた。それに対するる返事だと思ふが長文の手紙を寄越した。その手紙は菅、大塚、山川、自分などに連名で宛てたもので、相當に理窟ぽいことも書いてあつたやうに覚えてゐる。」(狩野亨吉「漱石と私」(談話筆記))

 

狩野亨吉(1898年(明治31年)34歳で第一高等学校校校長)

大杉栄とその時代年表(425) 1902(明治35)年10月1日~19日 虚子・碧梧桐連名で漱石に子規終焉の様子を知らせる手紙を書く 「其ニモ時々認メアリタル如ク草花菓物等ヲ写生スルコトヲ非常ノ慰籍卜致シ色ノ出シ具合丸ミノツケ具合ナド中中ウマイモノニ有之シガ其モ五六十日間ノ慰籍ニ過ギズシテ愈死期近ヅキテハ筆ヲ取ルコトハ勿論体ヲネジル事モ出来ズ僅ニ菓物帖草花帖一冊ヅゝヲ残シテ永眠致サレ候 尚可申上事申上度事ハ山ノヤウニ有之候へド一先擱筆致候 匆々頓首」 より続く

1902(明治35)年

10月21日

嘉納治五郎(弘文学院校長)、湖南省派遣の「速成師範科」10名らの卒業式を前に講話。その内容は全校を巻き込む大論争に発展。(『魯迅 日本という異文化のなかで』(北岡正子著、関西大学出版部、2001年)による)


中国で最も急を要する教育は、普通教育と実業教育である、専門教育はその上に立つ。普通教育の目指すものは、国家の一員としての資格を備えた国民の養成である。大学教育は普通教育の普及をまって行うべきだが、専門教育の中で、師範教育と法学・医学の教育だけは、緊急に必要なものである。

また「法学を学ぶ者には道徳教育の必要がある」。

法学を学ぶには節度をもって「権利義務」を正しく学ぶ必要があり、そのためには道徳教育が大切だから、「中国の改革は急進的にではなく、平和的で漸進的に行うのが良い」と。


講話が終わると、湖南省出身聴講生で革命思想に傾倒していた楊度(ようたく)が立ち上がって質問した。

「清朝高官の眼中にあるのは己の爵禄の保全だけです。国民や国家のために働く心はない。このような者の心をいかにして動かすのでしょうか」

楊度は、「中国の救亡に役立つのは、いかなる教育か」と質問した。彼の主張によれば、百年来の欧州の近代化はフランス革命以来の急進的改革の成果であり、明治維新はその潮流の先端にある。この急進的改革、つまり革命こそが、中国数千年の弊害を除き、民意を発揚させ、国を滅亡から救う。だから、教育の使命とは、この精神を養うことにあるのではないか、と言うのである。

だが、嘉納は清国の体制維持を前提として「平和的進歩主義」(漸進的改革)を主張し、「民度の向上をはかることが中国の最優先課題であり、それが教育の役目なのだ」と応じた。

会合は4回つづき、ついに激昂した嘉納は傲然と言い放った。

中国の国体は、「支那人種」が「満州人種」の下に臣服することで成り立っており、この名分にはずれてはならぬのである。ゆえに、「支那人種」の教育は、「満州人種」に服従することをその要義とする・・・この(支那人種の)民族性は長い間にできあがってしまったものだ。

さらに「(漢民族の)奴隷的な根性は改善の見込みがなどとも断言した。

楊度はこう切り返した。

だからこそ西欧列強の高度な文明に迫られて「危急存亡」の秋にある中国は、このままでは滅亡する。同じ滅亡するなら革命を起こして「百亡の中に一存を求める」ことが急務だ

結局、議論は平行線をたどり、最終的に嘉納が譲歩した

弘文学院はこの年(1902)に開校し、1909(明治42)年に閉校するまでの8年間に入学した中国人留学生の総数は7,192人にのぼり、約半数の3,810人が卒業・修業している。弘文学院は、清末から民国初期にかけての中国近代史の中で、多くの指導的人材を養成した日本の教育機関であり、革命思想を醸成するためのいわば「揺りかご」のような存在だった。

10月23日

天津のアメリカ租界、イギリス租界に併合。

10月26日

摂津紡績(株)、株主総会で平野紡績(株)との合併承認。

10月26日

フィリピン独立教会の正式発足式。最高司教にグレゴリオ・アグリパイが就任。

10月27日

啄木(17)、「家事上の都合に依り」を理由に盛岡中学校に退学願を提出、この日の「回議件名痔」二六五号をもって退学が許可された。

10月28日

地租増徴継続案・海軍拡張案を閣議決定。

10月28日

大日本綿糸紡績同業連合会、大日本紡績連合会と改称。

10月29

摂津紡績野田分工場男女工230人、積立金の払い戻しを要求して騒乱。

10月30

啄木(17)、文学をもって身を立てるため故郷を出発上京。この日盛岡に下車して仁王の田村夫妻の許に宿る。午後下の橋写真館で友人の岡山儀七(残紅)と記念写真を撮影。夜伊東圭一郎を訪れ阿部修一郎、小野弘告、小沢恒一らと別宴。

翌31日、午前中堀合節子と別れを惜しみ、年後公園よの字橋側の高橋写詠で阿部修一郎らユニオン会の会員4人と記念写真。午後5時友人や堀合節子に送られて盛岡駅より上京。

東京生活は4ヶ月で破綻、渋民村に戻る。

10月31

清国、関税表改定。

11月

上海駐屯の日本軍、全部引き上げ。

11月

国木田独歩「酒中日記」(「文芸界」)

11月

島崎藤村『旧主人』

11月

矢野龍渓、この月、田川大吉郎や加藤時次郎や小栗貞雄らと「社会問題講究会」を結成。安部磯雄、幸徳秋水、片山潜、国木田独歩なども参加。

加藤時次郎は明治期の社会主義者のパトロンだった医師で、ドイツ留学後に加藤病院を開業して成功していた。加藤はドイツで社会主義思想に触れたのがきっかけで社会運動に関心をもち、龍渓の『新社会』を読んで感銘を受け、社会問題講究会の発足に参加した。加藤は結成時から理想団のメンバーで、堺はそのときに彼と知り合ったらしい。1858(安政5)牛生まれの加藤は堺より12歳年上だったが、出身が豊前国田川郡香春村(現・福岡県田川郡香春町)だったため、同じ豊前人として堺は加藤に親近感を抱いていた。

11月

トロツキー、初めて「イスクラ」に評論を執筆。「イスクラ」メンバーとしてパリに講演旅行に行き、ナターリア・セドーヴァと出会う。

11月

ロンドンの漱石

「十一月(不確かな推定)(日不詳)、狩野亨吉から東京の地位を得ることができるという電報来る。狩野亨吉・山川信次郎・大塚保治連名宛に、長文の手紙を出す。」


「「そこで自分が其頃は熊本から一高へ来て校長をしてゐたので菅君や山川君が夏目を一高へとれといふ。しかし熊本から洋行して帰つたらすぐに一高へ出ると言ふのではまづいので、大學の方で欲しいといふことも理由となって遂に一高へ来ることにきまった。/それですぐロンドンへ東京に地位が出来るといふことを報せる為電報を打つた。それに対するる返事だと思ふが長文の手紙を寄越した。その手紙は菅、大塚、山川、自分などに連名で宛てたもので、相當に理窟ぽいことも書いてあつたやうに覚えてゐる。」(狩野亨吉「漱石と私」(談話筆記))漱石が、第一高等学校へ就職が決定したのは、山川信次郎の辞任以後だと推定される。東京帝国大学に就職することは、どんな道筋で進められたか分らぬ。大塚保治が世話したと推定される。(荒正人、前掲書)


11月1日

山陽鉄道会社、下関駅構内に山陽ホテルを開業。

11月1日

税務監督局官制・税務署官制公布。

11月1日

鉄幹(29)・晶子(24)に長男光(ひかる)誕生。命名上田敏。

11月1日

啄木(16)、午前10時、上野駅着、その夜、中学の先輩細越夏村(かそん)の小日向台の下宿に泊。

2日、大館みつ方(小石川区小日向台町)に止宿。

4日、野村薫舟(胡堂)が、「君は、才に走りて真率の風を欠く、…着実の修養を要す。」と忠告。

5日、野村薫舟と神田付近の中学校で5年編入を照会するが、欠員無く徒労。

7日朝、鉄幹へ手紙。

11月1日

フランス・イタリア協商(秘密協定)締結。モロッコ・チュニジアをめぐるフランス・ドイツ独間の戦争の場合、イタリアは中立を守ることを約束。フランスはイタリアがトリポリなど北アフリカに進出する場合、好意的立場をとる。ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟形骸化。


つづく

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