大杉栄とその時代年表(429) 1902(明治35)年12月6日~31日 啄木、盛岡中学校の後輩で上京中の金子定一(のち陸軍少将)の厚意で、その友人紀藤方策の紹介状を持って金港堂に雑誌「文芸界」の編集主任佐々醒雪(政一)を訪問、「文芸界」の編集員として就職を希望するが面会できず失敗に終る。当時金子定一は神田錦町三丁目の力行会に宿り苦学して夜間中学校に通っていたが、啄木はこの年末から翌年正月にかけ力行会の金子の部屋に滞在。 より続く
1903(明治36)年
1月
朝鮮、駐日公使高永喜、戦時局外中立を求める韓帝密書を小村外相に手交
1月
1902年4月の満州還付に関する露清条約によりロシア軍は満州からの撤兵を始めたが、ロシア将軍エヴゲーニイ・アレクセーエフは撤兵に反対していた。この月(1903年1月)、アレクサンドル・ベゾブラーゾフがロシア全権大使として極東に到着、アレクセーエフはベゾブラーゾフの支持を得て撤兵を中断した。
1月
日本政府、日露協商基礎条項提示
1月
新俳優伊井蓉峰と小島文衛が、市村座で近松門左衛門「寿門松」、森鴎外「玉匣両浦島」、紅葉(モリエールの翻訳)「夏小袖」を上演。
森鴎外は、前年1月に結婚、3月小倉から上京、6月上田敏と雑誌「芸文」を創刊、9月アンデルセンの小説「即興詩人」の翻訳を春陽堂から出版。12月、弟の三木竹二の主宰する「歌舞伎」号外として詩劇「玉匣両浦島」を発表。
永井荷風(24)は、仲間の畠山古瓶が伊井蓉峰の弟子として初めて舞台に立つことになったため、巌谷小波宅によく集る生田葵山、谷活東、小栗風葉などと市村座に出かける。鴎外と親しい与謝野鉄幹は「明星」派の人たちと観劇。
このとき、荷風は、隣の桟敷に葉巻をくゆらしている口髭のある人が森鴎外先生だ、君を御紹介しようと、小栗風葉にに言われ、鴎外に紹介される。この時、森鴎外42歳、荷風25歳。
鴎外は微笑して、君の「地獄の花」は読みました、と言った。
荷風は、これを最上の光栄と感じ、喜びで胸が一杯になった。その晩は、一人で下谷からお茶の水の流れに沿って麹町の自宅まで歩いて帰った。
1月
広津柳浪は、この月に「薬のききめ」を「太陽」に、「何の罪」を「文芸界」に、3月「磯の烟」を「新小説」に、5月「妾」を「文芸倶楽部」に発表。しかし、問題作というべきものはなかった。
広津柳浪は、「今戸心中」の後、明治32~33年、「縺れ糸」、「骨ぬすみ」、「目黒小町」の三部作を書く。これは、鴎外が、「作者得意の戯曲的推移にして、読者の心を喜ばすに足るものあり」と評した佳作。その後の沈滞期のあと、明治35年10月、「新小説」に短篇小説「雨」を発表すると、これは写実的な作風においての傑作と言われた。
この時柳浪は、数え年42歳。妻寿美子は、結婚10年目の明治31年7月に亡くなり、この年(明治35年)には、長男の俊夫は数え年14歳、次男の和郎は12歳。この年柳浪は、5年間の独身生活ののち、高木武雅の長女潔子と再婚。
1月
有島武郎(25)、内村鑑三と新渡戸稲造に洋行の相談をする。8月渡米。
この月、有島は、新宿の西の郊外の柏木に内村鑑三を訪ね、留学の相談をする。内村は欧米の宗教界の腐敗に憤っており、これに反対する。
有島は内村の理窟に納得できず、次に、札幌農学校時代の師で、この時ちょうど海外旅行から帰って東京にいた新渡戸稲造を訪ね、改めて留学の相談をすると、新渡戸はそれに賛成し、アメリカへ行くならばペンシルヴァニア州のハーヴァフォード大学がよい、と忠告してくれる。
しかし、翌日、新渡戸から電話があり、後藤新平が皇太子に良友がなく、候補者を求めて来たので、有島を推薦した、洋行もさることながら、国家元首となる人の片腕となる積りはないか、と言う。有島は学習院初等科の11歳の頃、皇太子の遊び相手に選ばれて、毎土曜日に吹上御殿に伺候したことがあり、それが理由で推薦されたものらしい。
有島は数日考えさせて欲しいと新渡戸に伝えるが、その意思は全くなかった。父に知れれば拒むことはできなくなるので、父には黙って、2、3日後に新渡戸を訪ねてそれを断る。有島はその後も新渡戸家をしばしば訪ね、夫人(アメリカ人)について英語会話の教育を改めて受けている。
明治29年7月、18歳で学習院中等部を卒業、9月に札幌農学校入学。在学中、内村鑑三の影響を受けてクリスチャンになり札幌の独立教会に入る。また、農学校教授の新渡戸稲造に親しみその家庭に出入りする。生徒仲間では森本厚吉(あつよし)、森広、足助素一(あすけそいち)と親交。同じくクリスチャンであった森本とは出版の目当てもなく、敬虔なキリスト教徒で冒険的探検家であったリヴィングストンの伝記を書く。
明治34年7月、23歳で札幌農学校を卒業。卒業論文「鎌倉幕府初代の農政」。8月、「リヴィングストン伝」が新渡戸稲造の紹介により警醒社から出版。警醒社は、小崎弘道らが「六合(りくごう)雑誌」刊行に続いて興した出版社。
同年9月4日、有島の農学校時代の友人で、アメリカにいる森広と結婚する予定で、国木田独歩の妻であった佐々城信子が鎌倉丸で渡米し、有島は、横浜に彼女を見送り面倒を見る。ところが、佐々城信子は、船中で事務長武井勘三郎と関係し、シアトルに向かえた森を拒否して、その船で帰国。この顛末は、11月、スキャンダルとして新聞に報じられる。
佐々城信子は武井と同棲するが、その後も有島は、信子やその妹たちと交際している。
同年12月1日から、有島は在学中延期していた兵役につき、麻布の歩兵第三聯隊に1年志願兵として入隊、翌明治35年11月3日に兵営生活を終える。兵役を終えた後、彼はアメリカ留学の希望を父に申し出て許可を得た。
1月
野口米次郎(28)、この月、ロンドンで私家版「FROM THE EASTERN SEA ; BY YONE NOGUCHI」出版、好評。英米で再出版。日本でも10月に定価35銭の翻刻本が冨山房より出版される。
啄木の稿に、この詩集について「三十六年十二月二十四日夜徹宵の作」という「詩談一則・『東海より』を読みて」がある。野口の成功に刺戟を受ける。
愛知県海部郡津島町の生れ。少年時代から英語を学び、16歳で上京してからも、私立中学や慶応義塾で英語を習得。明治26年11月数え年19歳で慶応義塾を中途退学しアメリカに渡る。
初めサン・フランシスコで日本の木版画の行商をしたり、アメリカ人の家に下男として住み込んだりして生活資金を得、その近くのバロアルトでマンガンタホールという学校の学僕となる。そこで働いているうちに、ポーの詩集を読んで英詩への興味を抱きはじめた。明治28年、再びサンフランシスコに出て、そこの日本字新聞社の仕事を手伝って辛うじて生活した。翌明治29年、その近くのオークランドの丘の上に母親と二人で住んでいた自然詩人ホーキン・ミラーに近づき、その助手として同居した。
ミラーの山荘で、その原稿の整理を手伝っているうちに、ホイットマンとソーローを読むことを教えられた。また自分でシェレイとヴェルレーヌを好んで読み、それ等の影響を受け、かつミラーの指導を受けながら、彼自身も詩を書き出した。またその土地に若い詩人たちの友人も出来、その仲間の雑誌に作品を発表しはじめた。この頃、彼より1年遅れて日本から来た牧野義雄という若い画家志望の青年を知った。牧野はサン・フランシスコのホプキンス美術学校に4年間学んでから、ロンドンへ渡った。
明治30年、米次郎は処女詩集「Seen and Unseen」刊行、意外なほど好評を得る。以後、詩や散文を新聞雑誌に売ることが出来るようになる。
明治31年、徒歩でヨセミテの渓谷を旅行し、そのあとで第二詩集「The Voice of the Valley」を刊行。
明治32年、数え年25歳の時、シカゴに移り、そこの「イーヴ二ング・ポスト」の寄稿家として数カ月生活し、ニューヨークに移る。しかし、ニューヨークでは彼を詩人として、論客として認めるものがなく、生活に窮して料理店で皿洗いをして生活する。その後、ある金持の邸宅の給仕頭になり、相当の収入をえることになる。
明治35年、この給仕頭の生活に材を得て匿名で小説「The American Diary of a Japanese Girl」を出版し、それ等の収入によってその年11月イギリスに渡る。
ロンドンには、サン・フランシスコで知り合った画家の牧野義雄がいた。その頃、日本は日露戦争に備え、イギリスに軍艦の建造を依頼していたので、ロンドンには日本の海軍省の事務所があった。牧野は、そこで働きながら画を学んでいた。11月、米次郎はロンドンに着き、ブリキストンの牧野の借りている家を訪ねる。
米次郎は、詩集を出そうとして、ジョン・レーン書店を訪ねるが断られ、女性批評家レーディー・キャンベルを訪ね、詩人としてロンドンを驚かせるつもりだと、その抱負を語る。その女性は笑い出して、「詩人の足音ぐらいでロンドンが震動すると思うんですか」と言う。
結局、この年(1903(明治36)年)1月12日、乏しい自分の金で16頁の薄い詩集「From the Eastan Sea」を200部を出版し、そのうちの6余部をイギリスの文学者や新聞雑誌に送付した。
翌日(13日)、文学社交界の中心人物サザランド公爵夫人が、祝辞を述べた手紙に10シリングを封入して送って来た。詩人のローウェル・ハウスマンやアーサー・シモンズ、批評家レスリイ・スティーヴンや、小説家トマス・ハーディ等からも賞賛の手紙が届く。雑誌「アウトルック」はこの詩集を批評。続いて、社交界の人々や女優なども彼に手紙をよこし、米次郎は著名な若い詩人として遇されるようになる。彼はシモンズやイェーツやウィリアム・ロセッティ等と友人になる。ユニコン・プレスという出版社から、彼の詩集の増補版が牧野義雄の装帳で出ることになった。
この年12月23日、野口は、「From the Eastan Sea」が世に認められるまでの日記を『万朝報』に寄稿(「学鐙」の同年12月号に転載)。
詩集200部が出来上がった日の感動を、「千九百三年一月十二日。アトラスト、終に!」と書く。
50余部を新聞、雑誌、主な英国の文人などに送り、1ヶ月の間に讃辞に埋まり、僅か3部を残すばかりとなる。
「ホー、ホー、ホー! こは又何事ぞ、、雑誌アウトルック(Outlook)を見ずや。鳴呼余の文名終に成れり。何等の好ノーナスぞ。十六頁に対して殆んど二頁を費やして批評せり。何等の親切ぞ。余はバイロン卿の如く一朝にして有名なるものとなれりと思ふ」(1月17日)
女王からも献本への礼状が来た。「鳴呼成功! 成功なる哉。余は汝成功を千度も接吻するなり、サクセス!」
つづく
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