1903(明治36)年
3月2日
フィリピン、米統治下で初めて国勢調査。
3月2日
レーニン、パリよりプレハーノフにトロツキー(23)を「イスクラ」の7人目の編集者に加える提案。
10日、マルトフ、ロンドンよりアクセリロートにレーニン提案に賛成する手紙。
結局、プレハーフの反対により挫折。編集部再編は大会まで持ち越すことになるが、トロツキーに審議権を与えて編集部会議に参加させる(プレハーノフはこれにも反対)。
「イスクラ」編集部構成:
①古参派:プレハーノフ、ザスーリッチ、アクセリロート。
②若手派:レーニン、マルトフ、ポトレソフ。
「イスクラ」の政治的指導者はレーニン(「硬派」)、主要論説家マルトフ(「軟派」)。両者の関係は冷ややか。レーニンは党綱領作成をめぐりプレハーノフと衝突。仲介者はレーニンにはマルトフ、プレハーノフにはザスーリッチがあたる。
■トロツキーの逮捕~流刑~国外脱出の経緯(トロツキー「わが生涯」より)
1898年1月28日、「南ロシア労働者同盟事件によりニコラエフで検挙(200人以上の大量検挙)。
ニコラエフ監獄(3週間)~ヘルソン監獄~オデッサ監獄と移り、
1899年末、東シベリア4年間流刑の判決
モスクワの中継監獄を経て、
1900年秋に流刑地に着く(レナ河を下ったウスチ・クートの村)
数ヶ月後、南のヴェルホレンスクに移り、再度ウスチ・クートに戻った頃から、イルクーツクの新聞「東方評論」に寄稿を始める
1902年の秋が近づく頃、脱走
シベリア鉄道を西に向かいサマラに到着。ここで「イスクラ」派に入って活動。暫らくしてレーニンが呼び寄せる。
オーストリア国境を越え、ウィーンではオーストリア社会民主党指導者ヴィクトル・アドラーの世話になり、チューリッヒ、パリ経由で、1902年10月、ロンドンに到着。
ロンドンでは、レーニン夫妻のアパートから数ブロック離れた、ザスリッチやマルトフと同じアパートに住む。トロツキーは、ここからブリュッセル、リエージュ、パリに派遣され活動を開始。
3月3日
漱石(36)、東京市本郷区千駄木57(第二高等学校教授斎藤阿具の持ち家)に転居。家財道具などの新調のため、五高の退職金を使い果たし、友人大塚保治(東大教授)から借金(100円か150円)する。大塚保治は借家の保証人にもなった。
「三月三日(火)、赤口。鄙節句。本郷区千駄木町五十七番地(現・文京区向丘二丁目二十番七号)に転居する。(鏡は病気中なので、菅虎雄と共に世帯道具など貰い整える。女中二人雇う。(日不詳))」
「裏庭は、垣根を隔てて郁文館中学校の校舎と校庭の境界に接している。校舎は、木造二階建でくすんだコバルトのペンキ塗りである。漱石の裏庭は、校庭の野球場の本塁に近く、バック・ネットは張られていたけれども、ボールは盛んに飛んで来る。この頃、郁文館中学校は独逸協会中学校とならんで野球が強く、練習も猛烈である。但し、漱石の家に飛び込んだのは、硬球ではなくて、放課後に使用された軟球であったらしい。校庭は冬になると、泥砂がひどくなり、野球はやれぬ。代って、凧揚げが盛んになる。これも漱石を悩ませたらしい。漱石の家の前に、大観音から第一高等学校の横に通じる大通りがある。この大通りと直角に山坂道を下りて行くと、左側に「大田ノ原」という笹っ原があり、さらに行くと「古池」がある。これは『吾輩は猫である』の冒頭に使われている。(木下秀一郎『わが写生風土記/漱石』医博画伯百匙老先生Ⅰ 昭和五十年六月二十五日 木下秀一郎叢書刊行会)家質二十五円。明治二十三年頃に建てられた家で、明治二十三年十月から明治二十五年一月末まで森鴎外が借りていた。最初は中島という実業家の息子中島㐮吉(明治三十年東京帝国大学医科大学卒。帝国大学の寄宿舎で同室であった)が卒業した時、将来、開業するために建てたもので、明治二十七年十一月、斎藤家で買い取った。斎藤阿具が仙台の第二高等学校の数段として転任するまで住み、そのあと菅原道敬・片山貞次郎らが住んだ。斎藤阿具は、明治三十六年一月に洋行したので、その後を漱石が借りることになる。敷金不要で、保証人は大塚保治である。漱石は友人から借金して家財道具を揃える。「嗽(ママ)石さんの來る前には三期の肺病患者が永らく寝てゐた。その人が死んだについて遣族が引拂つたので、後を嗽(ママ)石さんが承知の上で借りた。尤も肺病の家として可なり有名だったので、嗽(ママ)石さんの親綱や、隣りの伊勢宗といふ車宿の夫婦などが働いて、當時この界隈では見たこともない斬新の器械消毒に一ケ月かゝつた。」(飯場米雨「千駄木の或る家」『美の国』第二巻第六号 大正十五年六月一日 行楽社刊)-これは一応参考になる。消毒に一ゕ月かかったかどうかは分らぬ。但し、漱石のほうでは、結核患者が住んでいたことを承知で借りたものらしい。漱石は、松山で正岡子規と同居していたこともあり、結核を余り恐怖しなかったと思われる。現在、この家は愛知県犬山市内山一番地の博物館明治村に保有されている。昭和四十六年五月三日に「夏目漱石旧居跡」の碑が建てられる。題字は川端康成、碑文は「鎌倉漱石の会」で作成する。」(荒正人、前掲書)
「だが帰国して目にした家中の惨状は、働いて金を稼がなければならぬという決意を余儀なくさせた。しかし、勤務は四月からなので、その間の資金、生活費、転居費用、家具費用などは、熊本の退職金を当てにして、鏡子が妹の夫・鈴木禎次から借りた百円、大塚保治から借りた百円で賄った。転居したのは三月三日だが、四月になって偶然出会った長尾半平にも、ロンドンで借りた二十ポンド(二百円)を返さなければならなかったので、退職金はきれいになくなる計算である。彼は三月三十一日付けで五高を退職したが、退職金三百円が支払われたのは四月末である。もっとも、『道草』の記述が事実ならば、彼は長尾の分は友人(たぶん、菅)から借りて毎月十円、月賦で返したことになる。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
「金之助の一家が新居に引越したのは、三月三日である。手許には引越しの費用にあてるべき金がなかったので、大塚保治に頼んで百円ほど借用して移転料と世帯通其買入れの費用につかった。熊本から引揚げるとき一切合財売払って来たために、金之助と鏡子はすでに二人の娘を持ちながら、新世帯を構えるのと同じ状態に置かれていたのである。あいかわらず鏡子の風邪がはっきりしなかったので、引越しも世帯道具の買入れもほとんど金之助が自分でやった。
(略)
新居は八畳二間に六畳四間、それに二畳ほどの玄関の闇と女中部屋があり、湯殿と台所のほかに物置がついているという、標準的な東京山ノ手の中流住宅である。平家建て、西は生垣をへだてて郁文飾中学に面していた。南側の庭は垣をへだてて畑に接し、これも地所の内だったので、心得のある女中が茄子や胡瓜をつくったり、南京豆を植えたりした。この畑の東南の端には、いつも夫婦喧嘩ばかりしている車屋の家があった。門は東面し、北側には露路をへだてて二絃琴の師匠の家があった。金之助の書斎は玄関脇の庭にはり出した八畳で、幾分茶室がかった造作であり、この部屋だけは障子にガラスがはまっていた。
しかし彼は、この書斎でロンドンから持って来た書物の箱を開くと、洋書の山に埋まったまま、ろくに整理もせずに漫然と二週間ほどをすごした。彼は「手に触れるものを片端から取り上げては二三頁づつ読」んでいたのである。この有様を見かねて、管虎雄と覚しき友人がやって来て有無をいわせず本棚に洋書をさっさと並べて行った。夏目はやはり神経衷弱らしいという噂が、ふたたびひろがりはじめた。」(江藤淳『夏目漱石とその時代2』)
「明治二十三年十月から明治二十五年一月までは、鴎外森林太郎が弟たちと住んで、千朶山房と称した。鴎外にとっては下谷区根岸金杉町から上野花園町で営んだ最初の結婚が破れてのち、心機一転、坪内逍遥との没理想論争や評論に果敢に立ち向かった家であった。またドイツ三部作の一つ『文づかい』をここで書いている。・・・
もともと中島襄吉という医科大学の学生が卒業後、開業するためにと、父の吉利が建てた家であった。どういうわけか本人が使わず、明治二十七年頃、斎藤阿具がこの家を買った。・・・・
斎藤は二十七年の末から二年ほど住んだが、三十年、仙台の第二高等学校に就職し、そのあとに大蔵省勤めの菅原通敬が住んだ。・・・・・
五カ月の後、菅原は移転し、・・・・・
十一月、実際に入居したのは大蔵省の役人だった片山貞次郎。大学を首席で出た眉目秀麗の俊秀であって、望ましい借家人であった。片山の父恭平は函館の税務監督署長を務めたが、退職して息子と同居することもあって家を探していた。貞次郎の妻が片山広子、松村みね子の名でのちにシング、マクラウドなどアイルランド文学を日本に紹介した人として知られる。
二人の結婚は明治三十二年、この家で新婚の日々を送ったことになる。広子は上品で美しく、佐佐木信綱の『心の花』に拠って歌を詠み、ずっとあとのことになるが大正十三年、軽井沢での避暑中に芥川龍之介に思いを寄せられた。未亡人であった広子の側にも呼応する感情のあったことは彼女の随筆から知られる。
四年三カ月ほど片山家が住んだあと、三十五年二月からは経済学者矢作栄蔵が住んだ。のちに東京帝国大学教授となった農業経済の権威で、帝国農会会長を務めた人物だが、家主の斎藤阿具とは二つ違いで、しかも武蔵国の同郷であった。明治三十六年一月下旬、矢作は欧州留学を命じられる。偶然にも、というか奇しくも日蘭交流史が研究対象であった二高教授斎藤阿具も留学を命じられ、おなじ丹波丸で横浜から出航。
結局、駒込千駄木町五七番地の家には、矢作と入れ替わるように英国から帰国した夏目漱石の一家が住むことになる。もちろん漱石と斎藤阿具はおなじ文科大学生のころの旧知であって、漱石は何度か斎藤家にも遊びにいったことがあった。とはいえ借家する経緯については、すでに阿具が欧州に旅立ったあとの三月のことであり、阿具は父からの手紙で、夏日という人が千駄木の家に入ったと知らされただけであった。」(森まゆみ「千駄木の漱石」)
3月3日
尾崎紅葉(36)、帝大病院に入院。
14日、胃がんを告知される。
3月3日
「労働世界」を改題して「社会主義」刊行。月2回。
3月3日
米議会、新移民法を可決。移民削減と「好ましくない人間」の入国拒否。1900年迄に3,500万人以上の移民を受け入れ。来るものは拒まずの移民政策が大きく方向転換。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿