2025年4月16日水曜日

大杉栄とその時代年表(467) 1903(明治36)年11月29日~12月 「僕は、海老名弾正が僕等に教えたように、宗教が国境を超越するコスモポリタニズムであり、地上の一切の権威を無視するリベルタリアニズムだと信じていた。そして当時思想界で流行しだしたトルストイの宗教論は、ますます僕等にこの信念を抱かせた。そしてまた僕は、海老名弾正の『基督伝』やなんとかいう仏教の博士の『釈迦牟尼伝』の、キリスト教及び仏教の起原のところを読んで、やはりトルストイのいうように、原始宗教すなわち本当の宗教は貧富の懸隔から来る社会的不安から脱け出ようとする一種の共産主義運動だと思った。」(大杉栄「自叙伝」)  

 


大杉栄とその時代年表(466) 1903(明治36)年11月22日~26日 「わが全社会よ。まずかの凄惨の声を聞け。しかして、この問題に答うるところを一考せよ。一考してえずんば、ただちに社会主義にきたれ。社会主義の旗幟は、分明に汝の進路を指示するあらん」(幸徳秋水「凄惨の声」ー「平民新聞」第2号) より続く

1903(明治36)年

11月29日

石川三四郎、万朝報を退社し平民社入社。

11月29日

「平民新聞」第3号発行

幸徳秋水「平和の武器」

「普通選挙を要求すべし。工場法案を要求すべし。労働組合を要求すべし。小作人条例を要求すべし。要求は必ずきかるべし。もしきかれずんば、われは恐る。ついできたるもの、すなわち一般同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)、一般革命ならんことを。少数の階級、それ再思三思せよ。」


「露国軍隊の革命思想」

「陸軍大臣クロパトキンが昨年八月各州の軍団長に秘密通牒を発し、軍隊内における革命思想の伝播を杜絶すべき方法について意見を求めたが、その秘密通牒は端なくも『ロンドン・タイムズ』通信員の手に落ち、ついに世界の眼前に暴露された記事がある。そして各地の軍隊内における革命的檄文の配布、兵卒間における宜伝、革命党首領自身の煽動演説、近衛連隊内の革命団体組織等をのべ、「この秘密通牒に記された事実は陸軍大臣が取調べたる結果なれば、その正確には毫も疑いなかるべし」と附記している。」(荒畑著「平民社時代」)

田岡嶺雲「亡是公咄々語」


「第三号から田岡嶺雲の「亡是公咄々語」が連載され、これは千年後の新社会に生まれて過去の時世の非を諷するという形式で十九世紀の文明を批評したもので、連載十四回に及んでついに未完に終ったが漢文調のむずかしい論文であった。」(荒畑)


社説「平民の要求」


「第三号の社説「平民の要求」は大要次のごとく諭ずる。

今日、美衣美食の紳士貴女は貧民の保護、失業者の救済、慈善事業の奨励をいわざるはないが、彼等がわずかに数十人、数百人の餓を救うている半面、日々新たに数千、数万の困窮、飢餓、流離が発生している。多数の平民は彼等の保護、救済、慈善を懇請するものではなく、ただ職業を要求し生活の権利を要求するのである。千万人の職業なきは今の紳士貴女がその職業を独占しているからであり、千万人の衣食なきは今の紳士貴女がその衣食を壟断しているが故である。汝の黄金はこれ社会公共の産するところ、汝の珠玉はこれ平民全体の琢(みが)くところではないか。宜しく汝の独占を解き汝の壟断をやめて、これを社会公共の手に返し平民全体の有に帰すべきである。

独占を解き壟断をやむ、人みな職業を有し労働の結果に衣食す。徒手遊食するものなく、労働して生活し得ざる者なし。これこそ社会主義の主張であって、実に正義人道の命ずるところ、また社会国家を形成する唯一の目的ではないか。

「然らば即ち、いかにして彼等の独占壟断を除去するか。換言すれば、いかにして社会主義の理想を実行するを得るか。他なし今の独占者、壟断者たる紳士貴女をしてその特権を奉還せしむる、なお徳川氏の政権を奉還せるが如くならしめんのみ。……」(荒畑「平民社時代」)


「予は如何にして社会主義者となりし乎」連載始まる。

第3号~第13号、第19、44、45(明治37年9月18日)の15回にわたり78名の男性が、「直言」第2巻第12号の「婦人号」(明治38年4月23日)に4名の女性が、「予は如何にして社会主義者となりし乎」について手記を寄せている。

執筆者82名は、安部磯雄、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎、山口義三、小田頼三、吉田璣、野上啓之助、斎藤兼次郎、南助松、半田一郎、内山愚童、和田英吉、岡野辰之介、幸内久太郎、杉村縦横、牧野充安、竹内余所次郎、中里介山、鷲尾教導、大亦楠太郎、延岡為子、松岡文子など。この欄にしか名前が見られない無名の社会主義者もいる。

職業は、新聞記者・弁護士・牧師・住職・医者・教員・学生・労働者・農民など広範囲にわたるが、太田雅夫の調査によると、キリスト者が11名、仏教徒が8名もおり、宗教家から社会主義に入った人が多いことがわかる。

社会主義者にさせた原因で、一番多いのは「読書」の49で、総計152の約1/3を占める。二番目が「社会主義の講演・演説・講義」で21、三番目が「貧者・弱者への同情」で17、四番目が「社会の不合理への反抗」15、五番目が「貧乏」の10という順序。

どんな本や新聞から影響をうけたか。

最高は幸徳秋水の『社会主義神髄」の19で、秋水の著書では他に『二十世紀之怪物帝国主義』が3である。

堺利彦の雑誌『家庭雑誌』(明治36年4月発刊)の4と『家庭の新風味」(明治34)の2を加えると、社会主義協会・社会民主党時代の安部・片山中心時代から、平民社時代は、幸徳・堺へと、明治社会主義の中心が移ってきたことがわかる。

安部磯雄の場合は、『社会問題解釈法』(明治34年)の7と、『社会主義論』(明治36年)の3がある。

片山潜の場合は『我社会主義』(明治36年)は皆無で、『都市社会主義』(明治36年)が1あるのみ。

矢野文雄の『新社会』(明治35年)は7と高位を占めている。

11月29日

パリ、職業斡旋所が行っているとされる搾取に抗議デモ。労働者、憲兵と衝突。

11月30

駐韓公使林権助、皇帝に謁見。日韓協定の必要性説く。

12月末、外相李址鎔に、協議に応じるよう指示(皇室の安全、独立保持への日本の協力、事変時の領土の安全保障)。

11月30

閣議、開戦に際しての「対清韓方針」決定。清国には中立を維持させ、韓国は支配下(「攻守同盟若くは保護的協約を締結」)におく。


12月

大杉栄(18)、平民社を訪問

大杉がはじめて平民社の社会主義研究会に出た晩、堺利彦が「みんな、どうして社会主義にはいったかというようなことをお互いに話しよう」といい出して、それぞれの述懐があり、大杉もそのとき「軍人の家に育ち、軍人の学校に教えられて、軍人生活の虚偽と愚劣とを最も深く感じているところから、この社会主義運動のために一生捧げたい」という意味のことを語り、最後に堺の「吾々の思想は天下にひろがり今や大運動になろうとしている。吾々の理想する社会の来るのも遠くない」という激励をきいて「ほんとうにそんなような気がして、非常にいい気持になって下宿に帰った」。

やがて年が改まってから下宿を友達の登坂や田中が移っていた月島にかえ、学校の往きかえりに毎日のように平民社によって、〝帯封を書く手つだい″などするようになった。


「しかしこの旗上げ(注・平民社創設)には、どうしても一兵卒として参加したいと思った。幸徳の『社会主義神髄』はもう十分に僕の頭を熟しさせていた。雪のふる或る寒い晩、僕は始めて数寄屋橋の平民社を訪ねた。毎週、社で開かれていた社会主義研究会の例会の日だった。・・・(平民社例会の部庭に入ると、まだ開会前で、年とった者と若い者が宗教問題で議論)・・・年とった方はあぐらかいて、片肱を膝に立てて頭をなでながら、しきりに相手の青年をひやかしながら、無神論らしい口吻をもらしていた。青年の方はきちんと坐って、両手を膝において肩を怒らしながら、其赤になって途方もないようなオーソドックスの議論に、文字通り泡を飛ばしていた。-僕はその青年のロについて出る雄弁には驚いたが、しかしまた、その議論のあまりオーソドックスさにも驚いた。僕も彼とは同じクリスチャンだった。が、僕は全然奇蹟を信じないのに反して、彼は殆どそれをバイブルの文句通りに信じていた。僕は神は自分の中にあるものと信じていたのに反して、彼は万物の上にあってそれを支配するものと信じていた。僕はこんな男がどうして社会主義に来たんだろうとさえ思った。そして無神論者らしい年とった男の冷笑の方にむしろ同感した。この年とった男というのは久津見蕨村で、青年というのは山口孤剣だった。」(「自叙伝-母の追憶」)。


当時の平民社(社会主義運動)とキリスト教との関係

大杉は平民社について、「平民社の四人のうち石川三四郎以外の幸徳、堺、西川は大の宗教嫌いだ」ったと回想しているが、平民社を後援していた安部磯雄、木下尚江は熱心なクリスチャソで、そこに集まって来た青年の大半もクリスチャンであった。当時の思想界では概してキリスト教が一ぽん進歩思想だった。すくなくとも支配的な忠君愛国の思想に背く最も多くの分子を含んでいた。大杉はまた「幸徳や堺もかなり辛辣に宗教家を攻撃もした ー しかし、宗教は個人の私事だということで、同志の宗教には干渉しなかった」ともいっている。

大杉はこのことをめぐって当時の自分とその周囲のことを次のように語る。


「僕は、海老名弾正が僕等に教えたように、宗教が国境を超越するコスモポリタニズムであり、地上の一切の権威を無視するリベルタリアニズムだと信じていた。そして当時思想界で流行しだしたトルストイの宗教論は、ますます僕等にこの信念を抱かせた。そしてまた僕は、海老名弾正の『基督伝』やなんとかいう仏教の博士の『釈迦牟尼伝』の、キリスト教及び仏教の起原のところを読んで、やはりトルストイのいうように、原始宗教すなわち本当の宗教は貧富の懸隔から来る社会的不安から脱け出ようとする一種の共産主義運動だと思った。」(自叙伝)


つづく


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