2025年4月21日月曜日

大杉栄とその時代年表(472) 〈番外編 川上音二郎(1)〉 14歳で実家を出奔 流浪生活 政談演説 講談師 書生芝居というジャンルの旗頭として世間に名を知られる(27歳)

 


大杉栄とその時代年表(471) 1903(明治36)年12月21日~31日 アルゼンチン巡洋艦2隻の売買契約成立(30日)。ロンドン。「日進」「春日」。駐フランス海軍武官竹内平太郎大佐、駐ドイツ海軍武官鈴木貫太郎中佐に、「日進」「春日」の回航責任者としてイタリアに急行すべき旨が、指示される。


ロンドン留学から帰国後、夏目漱石は帝大と一高の英語講師になるが、帝大での漱石の講義の評判は出だしは最悪だった。だが、夏休み明けの講義(「マクベス」)は立錐の余地がないほどの学生が講堂に詰めかけた。

この年1903(明治36)年は、年初より川上音二郎がシェイクスピア劇を上演して、学生や知識層に大人気となった年であった。

そんな状況下でのロンドン帰りの夏目講師の「マクベス」評釈は、学生たちの間で大人気となった。

以下、〈番外編〉として、川上音二郎の生涯を駆け足で追ってみた。


〈番外編 川上音二郎(1)〉 


文久4年(1864年)1月1日(2月20日に元治に改元)、,筑前博多下対馬小路(現、福岡市博多区対馬小路)に女2人男5人兄弟の長男に生れた。父は専蔵、母はヒサ。家は代々福岡藩主黒田氏の御用商人で藍問屋を営んでいた。父専蔵は芝屑好きで、当時の河原崎権十郎を贔負にしていた(後年、音二郎が中村座で旗上げ公演をするのに権十郎の力をかりたといっているのもこの父との関係によるもの)。

小学校を終え、福岡中学校に入学。同級生に後の英国大使館参事官山座円次郎、読売新聞記者角敬一郎等がいた。

明治11年(14才)の時生母を失い、父が後妻を迎えたのが動機で音二郎は家を出て、大阪通いの汽船に忍び込む。途中船員に発見されるが、船長が音二郎を大阪まで連れて行った。

「それから無一文の苦労を重ねた末、東京へ出て芳町の桂庵千束屋に頼って職を求めたが得られず、芝増上寺でお供への仏飯を喰って捕へられ、それが縁で増上寺の小坊主になり、常に境内へ散歩に来る福沢諭吉に拾はれては慶応義塾の学僕になり、或ひは裁判所の給仕になりなぞしたが落着かず、洋傘直しの道具を買って、出鱈目の洋傘直しをやりながら大阪へ舞戻り、一度帰国した。この帰国は徴兵検査のためであったらしい」(柳永二郎『新派の六十年』)

その後、再び大阪へ出て、京都で巡査になったが、1883年(明治16年)頃から自由民権の思想に興味を持ち巡査をやめて、『立憲政党新聞』の名義人となった。この時、音二郎が出版条例違反で初めて検挙された。

1883(明治16)年7月、京都四条南の演劇場で民権自由数え歌を披露。

同年9月13日、内務省より集会条例第6条違反で川上音二郎の政治講演が1年間禁止された。

音二郎は、「四方八方到る所で過激な政談演説をやったものだから始めから終りまでに24回の処刑をうけた」(「名家真相録」(川上音二郎談)(『演芸画報』明治41年10月号))。


1884(明治17)年11月(秩父事件が起きた月)、神戸大黒屋で仏教演説会。中止解散命令をうける。

同じ頃、内務大臣田中不二麿から「爾今政治に関する講談論議を禁ず」という訓諭が出て、政談演説をやることができなくなった


仕方なく、1885(明治18年)年3月、講談師の鑑札を取得し、自由亭雪梅名乗る講談師となる。

「講釈師の仲間へ入って、寄席の高座へ上って『経国美談』や『仏蘭西革命史』なぞを口演して、暗に政治の諷刺をしてゐた」(同前)がこれも警官の臨検にあって、中止解散を命じられたことが度々であった。


1886(明治19)年1月には、六出居士と称し出獄第一声盗賊秘密大演説会を開く。

音二郎は、「是から先は口だけで調刺する事は出来ない。どうしても大仕掛にして音楽や道具の保護によって演らなければ駄目だと思ったが、音楽や道具を遣うとなって見れば、さしづめ役者になるより外に道がない。よろしい役者になって大に諷刺をやろう」(同前)と考えた。


1887(明治20)年2月、音二郎は「改良演劇」と銘打ち京都坂井座で初めて役者として舞台に立った。演目は里見八犬伝『華魁莟八総』と『南洋嫁島の月』で、この時演じた役の紛装が後にのオッペケペーの「後鉢巻に緋の陣羽織瀧縞の木綿の袴に日の丸の軍扇」という拵えのもとになった。


1888(明治21)年12月、中江兆民後援で岡山出身壮士角藤定憲と「大日本改良演劇会」旗上げ。大阪新町座。

また、落語家の桂文之助(後の二代目曽呂利新左衛門)に入門、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる)と名乗った。やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、1889年(明治22年)から1894・95年(明治27・28年)の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。 


1890(明治23)年6月、川上音二郎、京都で出演停止処分。

同年8月、川上音二郎、京都で伊勢崎町蔦座出演。好評。

10月、東京芝開盛座進出。

10月21日、川上音二郎(26)、横浜・蔦座の政談演説会で「田中子爵に九寸五分を呈す」を演説、中止命令。

1891(明治24)年2月5日、川上音二郎一座、堺の「卯の日座」で書生芝居の旗揚げ興行を行う(失敗)。

同年3月5日、川上音二郎(27)、横浜・伊勢崎町の蔦座で「経国美談」・「オッペケペ」を上演。6日上演差止め。

8日~15日、「板垣退助君岐阜遭難実記」を上演。

21日より小田原・桐座で「板垣退助君岐阜遭難実記」ほかを上演。25日、上演差止め。

27日~30日、「大井憲太郎氏国事犯顛末」などを上演。

4月2日より鶴座で「西郷隆盛誉勢力」ほかを上演。7日、見物の壮士と乱闘になり中止、翌日、警察に拘留。

5月18日、横須賀の立花座で、21日まで興行。

横浜の興行のあと、たまたま東京へ出て歌舞伎座の芝居を見て、その観客の上品さに打たれ、自分の観客もこういう人にしてみたいと思い、父との関係から権十郎を頼って団十郎に弟子入りを申込む。団十郎は弟子入りを承知したが、その前に音二郎の芝居を見たいという。そこで権十郎の仲介で中村座出演の話が決った。

6月20日、川上音二郎座長書生演劇。浅草中村座。「板垣君遭難実記」など。幕間オッペケペ。

この日、約束通り団十郎は一門をつれて見物、更に菊五郎も一門を引連れて中村座にやってきた。

「この噂がぱっと広まると書生芝居はどんな物だか分らないにも拘らず、吉原、洲崎、新ばし、柳ばし、よし町などの粋者連中(それしゃれんちう)が芝居よりは見に来る役者の素顔を見やうといふので、殊更に役者から附込みのある桟敷の傍へ場所を取ると云ふ有様になって、毎日々々意外の大入を占めて43日間売切れを掛けた程の景気」(同前)であった。

川上音二郎は、こうして書生芝居という新しいジャンルの旗頭として一躍世間に名を知られるようになった

中村座の観客の一人に日本橋芳町の浜田家の女将(当時奴という名で芸者に出ていた、後の貞奴の養母)がいた。

貞奴は、東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「濱田屋」の女将、可免吉の養女となる。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった

7月21日、川上音二郎、書生演劇憲法8ヶ条発表。歌舞伎排撃~社会教育・貧民救済。

また、この年(1891年(明治24年))、泉岳寺にある赤穂義士の墓が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付をした。同寺は「首洗いの井戸」を整備した。


つづく

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