大杉栄とその時代年表(472) 〈番外編 川上音二郎(1)〉 14歳で実家を出奔 流浪生活 政談演説 講談師 書生芝居というジャンルの旗頭として世間に名を知られる(27歳) より続く
〈番外編 川上音二郎(2)〉
1892(明治25)年4月、黒田清隆侯爵主催園遊会に招待される。
5月、川上音二郎一座公演「ダンナハイケナイワタシハテキズ」。
(士族反乱の一つ、神風連の乱で殺害された熊本鎮台司令官種田政明の愛妾小勝が負傷しながら、熊本電信局へ走り、東京の親元に送った電報。このエピソードは、短く簡潔かつ的確にまとめることが重要な電報文体の好例として「朝野新聞」紙上に紹介された。その後、仮名垣魯文が脚色したものが一般に広まり、電報の利用方法や有用性が広まるきっかけの一つになった。)
この月、金子堅太郎の案内で東京慈恵医大病院にて皇后を迎え「平野次郎」上演。
1893(明治26)年1月1日、鳥越座の初日をまえに突然神戸からフランスへ渡り、2か月ほどの短い間パリの演劇事情を視察した。政治の諷刺をする材料がなくなった際の用意に社会の諷刺をするため、西洋の喜劇を学んで来いという伊藤、土方、山県等の政治家達の勧めによるという。
1894(明治27)年、郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で、人気芸者の貞奴(本名:小山貞)と結婚。伊藤博文が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきたともいわれる。
1894(明治27)年2月7日、小田原の桐座で「意外」を興行。~12日。
1894年、日清戦争が始まると、いち早く戦争劇「壮絶快絶日清戦争」を仕立てた。続いて朝鮮半島に渡り、戦地の状況を実見し、それをもとに「川上音二郎戦地見聞日記」を上演。これらの戦争劇は大評判となった。
8月31日、浅草座で「壮絶快絶日清戦争」初日の幕を開け大評判。
9月、春木座で「日本大勝利」。
10月10日、川上音二郎(30)、横浜・港座で「日清戦争」を興行。~21日。以来しばしば港座で興行。
12月9日、川上音二郎一座、東京市主催旅順占領祝賀会に招かれ上野公園野外劇「戦地見聞記」上演
1895(明治28)年1月2日、横浜・港座で「川上音二郎戦地見聞日記」を上演。
5月1日、歌舞伎座の舞台で「威海衛陥落」を上演。歌舞伎の殿堂に素人あがりの役者が出るのは異例のことであり、劇通の人々を驚かせた(市川團十郎は、川上が歌舞伎座の桧舞台を踏んだことに激怒し、舞台を削り直させたと言われる)。
同年末、泉鏡花の小説を舞台化した「滝の白糸」を浅草座で上演。
1896(明治29)年6月14日、神田三崎町に川上座完成。この日、落成式。
総工費25000円、木造とレンガ作りの3階建て。工事は難航し、上棟式は建築許可から約2年後の1895年(明治28年)3月3日、落成式はこの日、1896年(明治29年)6月14日に行われ、鮫島員規海軍少将、奈良原繁沖縄県知事、西園寺公望、井上勝、金子堅太郎の代理人など3000人近くが招待された。
川上座の総坪数は212坪。収容定員は桟敷席が150人、平土間が572人、大入場354人。料金は桟敷席60銭、平土間など30銭、三階席10銭。茶屋の手数料は一等15銭、二等10銭。
劇場には多くの不備があった(冷暖房設備が無いため冬季は劇場内の冷え込みが厳しい。観客席に傾斜を設がなく、舞台が見づらくい、など)。
翌7月、川上座は開場、こけら落としは大入りだった。しかし劇場の経営は火の車であった。他の劇場よりも規模が小さく、収容人数が少なく、営業収益は伸び悩んだ。結果、総工費25,000円が川上の借金として残り、利子の支払いにも困窮するようになる。
早くも同年1896年12月7日には競売に付され、地主から地代も滞っているため劇場を取り壊すと提訴された。川上は翌年1897年(明治30年)に株式会社発起認可を得て、川上座は改良演劇株式会社の名称で劇場を株式会社組織に変え、債権者への返金を進めながら劇場経営を継続することを提案して示談が成立した。しかしその後も経営状態は思わしくなく、1898年(明治31年)に所有権を手放すことになった。
1898年(明治31年)3月15日、第5回臨時衆議院議員選挙。自由党98、進歩党91、国民協会26、山下倶楽部48、無所属37となる。実業家議員が結成した山下倶楽部も26議席を占める。青木正太郎(自由党)、中村克昌(新自由党)当選。川上音二郎立候補惨敗。この頃の米価は、松方デフレ下の2.5倍、日清戦争前の1.7倍⇒有権者の大半を占める農村地主は地租改正に興味を持たなくなる。
8月10日、第6回臨時衆議院議員選挙。衆議院300議席中、憲政党260、国民協会20、無所属20となる、川上音二郎立候補惨敗。青木正太郎再選、村野常右衛門初当選。ともに憲政党。
8月27日、川上音二郎、東京府より海外遊芸修業渡航免状受ける。
9月10日、妻・姪・愛犬とともに、僅か14フィートの短艇で「隅田川の下流築地河岸」から出発。台風に出あったり、数々の危険に見舞われながら翌32年1月2日淡路の洲本に着き、神戸へ行った。
神戸で音二郎は4ケ月の苦闘に起因する身体全体が腫れ上って皮膚から血が滲み出る奇病にかかり1ケ月間入院。
退院後は、音二郎は,ボート旅行の続行を断念、総勢19名が「明治32年4月30日正午オーオー会社汽船ゲーリック号に乗船」(『川上音二郎欧米漫遊記』)して米国へ旅立った。
ホノルル経由、5月21日、サンフランシスコ到着すると、港から,ホテルへの道々に貞奴の写真が貼ってある。貞奴が芝居は川上が演じるのだと興行主に伝えたが、「外国は女俳優でなければいけないのだ」と相手にしてくれない。
「其時日本びゐきの一銀行員が大変に力を入れて下すって『お前の名は何と云ふ』とのお尋ねでしたから『川上貞と申します』と云ふと『只さだでは面白くない。外に名はないか』との事でしたから『以前芸者に出て居ります時分に、奴と云って居りました』と云ふと,『奴、奴、貞、奴、ウム貞奴がよからう』と云って、それから貞奴と名乗る事になりましたので、私の名は米国で出来たので御座居ます」(「名家真相録」(川上貞奴談)(『演芸画報』明治41年10月号))。
この女優貞奴誕生から12月3日ボストンに到着するまでの一行は興行関係者の詐欺にあったり、劇場が予定通りに借りられなかったりして、食事や宿泊の場所にも事欠くほどの苦難に遭った。これらの想像も及ばぬ苦難を何とか乗り越えることができたのは音二郎の「おれも男だ一旦口へ出した事は必ず実行をして見せると云ふ意気」(「名家真相録」(川上音二郎談)(『演芸画報』明治41年10月号))によるものであった。
ニューヨークでは、アルフォンス・ドーデ原作の『サッフォー』を日本版に翻案した芝居も演じた。これは、近くの劇場でイギリスの女優オルガ・ネザソール(Olga Nethersole)が『サッフォー』を演じたところ、猥褻を理由にニューヨーク悪徳弾圧協会やニューヨーク母親クラブなどから非難を受け、逮捕されるという事件が起こったことを受け、この騒ぎを利用して話題を集めるために音二郎が急遽一晩で作り上げたもの(?)。ネザソール版と逆に純愛話に仕立てたところ、ネザソールを弾圧した人々から賞賛を受け、それまで3日かかったのと同じ数のチケットが1日で売れた。貞奴は貴婦人協会に招かれ、女優クラブの名誉会員に選ばれた。
シアトル公演で後々有名になった『芸者と武士』を川上が生み出し、エキゾチックな貞奴の美貌と写実的な演技が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得た。
つづく

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