大杉栄とその時代年表(473) 〈番外編 川上音二郎(2)〉 音二郎一回目の海外 音二郎・貞奴の結婚 戦争劇が大好評 歌舞伎座公演 川上座完成(失敗) 選挙惨敗(二回) 二回目の海外 女優貞奴の誕生 より続く
〈番外編 川上音二郎(3)〉
1900(明治33)年1月24日、ボストン市で英国の名優ヘンリー・アーヴィング(Sir Henry Irving, 1838-1905)一座の演ずる『ヴェニスの商人』を見た。これが音二郎とシェイクスピアの係わりの最初。
(明治33年1月24日)「この日、これより先き英国の男爵俳優アーヰング、其が小且女優(たておやまぢょいう)エレンテリーと共に、川上の興行して居った少こし先きの劇場に来たって興行して居って特に川上に招待状を越こして、馬車に同乗して小屋に乗り込んだ。此の日の狂言は彼のシェークスピアの『マァチャント、オブ、エニス』人肉質入裁判と仏国革命の名士ロベスピールの事蹟を仕込んだものとであった」(同上)。
このアーヴィングの『ヴェニスの商人』で音二郎が学んだものは舞台装置その他の写実主義であった。
「西洋の芝居、光線の作用を利用する事が自由自在であって、固より太陽の光線を劇場内に入れる事は小こしもない、… …張り物の奥の方から段々夜が白んで遂ひに暗黒なる舞台が一面夜明けになるなどいふ仕掛は実にうまいものである。… … 何しろ西洋の芝居の壮観といふものは非常なもので、馬車が駈け出すと、下からぽっぽと砂が出たり、馬が一時に何十頭出たり、人が何百人並んだり、その器械的の細密なことと、仕掛けの大業なるにはただただ一驚を喫するの外はない」(同上)と音二郎は語る。
アーヴィングについては,「毎年亜米利加へ遣って来て、ボストン、ワシントン、シカゴ、ニュヨルク、サンフランシスコ至る処の都会を打って廻るのみならずです、山の手にも行けば場末にも行く、加之ドシドシ田舎廻りを遣ってシコタマ金を儲けちゃ、故郷の英国に持って帰る。世界第一の名優だから安くは売らないそと言って意張っちゃいない。何処へでも稼ぎに行つて、70近い老人が舞台の上でピンピン働いて居る、其勇気と勤勉のほどは実に感心じゃありませんか」(『川上音二郎貞奴漫遊記』)とその徹底した職人ぶりに感心している。後に音二郎がロンドンに渡ったのはこのアーヴィングの紹介状によるものである。
1月24日のアーヴィングの公演を見た後、音二郎は川上一座の興行人のカムストックと云ふ米国人に「君もあの『マアチャント』のやうな種類の物が演じ得らるれば頗る金儲けが出来るのだが、迚(とて)も出来ないから仕方がない、及ばぬ望みだから言ふだけ無駄だ」と云われて発奮、「ナアニあの位の事なら雑作もない。寧ろ容易事(たやすいこと)」であると答え,「37分の猶予を与へて呉れればすぐ演って見せる」と云って、事実その通りにした。
「カムストックは只々呆然と仕て、ひどく驚歎仕て仕舞って是非共是を舞台で演じて貰ひたいと云ふ事に取極り、就ては興行前に明日各新聞社員を招待仕て見物させたいと成って、其翌日は各新聞社の記者を招いた」(「『マアチヤント・オブ・ヱニス』に就て」(『歌舞伎』)。
これが翌25日、ジャパニーズァイディア(日本振り)の『才六』として上演した『人肉質入裁判』である。もちろん貞奴等はセリフも「何をいってよいのか分らないので、けれどもまだ西洋人を相手だから何を言っても構はない、『スャチラカポコポコ』とでも『南無阿弥陀佛』でも声に力を入れて、卓子でも敲けばよいから」(『川上音二郎欧米漫遊記』)といわれて、強引に舞台に出されたのだが、意外にもこれが評判になった。日本人はまねが上手でしかも芸が細かいといわれ、音二郎がアーヴィングに優遇される理由の1つにもなったという。これが川上音二郎がシェイクスピァの作品の人物に扮した最初である。
この後、音二郎は2月にワシントン、3月にはニューヨークで俳優学校を見学。
次に、ロンドンでは日本通で知られるロンドンのアーサー・ディオシーの歓迎を受け、彼の友人の舞踏家ロイ・フラーや女優サラ・ベルナールに紹介される。
6月27日にはロンドンで時の皇太子、後のエドワード7世に招かれてバッキンガム宮殿で『児島高徳』などを上演した。
6月29目、パリに行き、フラーの支援を受けて パリ万博で公演し、米国興行に続いて人気を博した。
万博では、会期中にサラ・ベルナールが自身の名を冠したサラ・ベルナール劇場で『レグロン』を演じ、大好評となり、ロイ・フラーが自身の劇場で披露したサーペンタインダンスも好評を受けた。
海外ツアー中で、ロンドン公演を終えたばかりの川上音二郎一座はロイ・フラーによってパリに招かれ、貞奴はフラーの劇場に「マダム貞奴」として出演し大人気となった。
アメリカの旅行作家バートン・ホームズは、フランスの演劇批評家らがこぞって川上一座を称賛していること、ある高名な演劇評論家は「サラ・ベルナールがフランスの女優で、エレオノーラ・ドゥーゼがイタリアの女優なら、貞奴は世界の女優だ」とまで評したと伝え、その他の催し物がつまらなく見えてしまうほど日本の役者たちは1900年の万博で成功した、と書き綴っている。
7月4日、公演初日、一座は「芸者と武士」を公演(123日間、218回)。初日には、彫刻家ロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を彫りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで『道成寺』を踊った。
貞奴の影響で、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソは彼女の演技を絶賛し、11月にはフランス政府からオフィシエ・ダ・アカデミー勲章を下賜される。
1901(明治34)年1月1日、川上音二郎一行は、神奈川丸で神戸に帰着した。
2月27日、横浜・羽衣座で3月1日まで興行。
4月6日、前回の巡業中パリの興行師ロイ・フラーとの契約履行のために横浜を出航(10日神戸初)(音二郎3回目の海外)。
6月4日、川上音二郎、英着。ロンドン~パリ~ベルリン。
翌1902(明治35)年8月20日、帰朝。
欧米巡業中、大日本帝国の俳優として初めて勲章を授与される。フランス大統領エミール・ルーベより官邸のエリゼ宮殿にて、オフシェー・ド・アカデミー三等勲章(現・芸術文化勲章)を授与。オフシェー叙勲、外国人に贈られる最高章を授章した。
その翌年、1903(明治36)年2月、明治座で『オセロ』を上演した。この『オセロ』は当時の慣例に従った翻案上演であるが、本邦初演であり、音二郎がシェイクスピァと本格的に取組んだのは、この『オセロ』が最初であった。
『オセロ』を取り上げた理由について、音二郎は「悲劇でなければ芝居を見ても見たやうな感情を起さないし、ハンカチを絞らなければ芝居を見た心地がしない」という日本人に合う「悲劇出の主なるものと云ふと、沙翁の有名なる彼の四大悲劇の内でも『オセロ』が一番壮士劇に適すると思ったから、それを好材料として採った」と語っている。(『オセロ』を採った理由」(『歌舞 』34号)。しかし一説には「巴里で盛遠の腹切を出したのを佛蘭西人が見て日本人の『オセロ』だと評した処から思ひ付いて出したのだ」ともいう。(『歌舞伎』34号「雑報」欄)
音二郎はこの『オセロ』に「正劇」と銘を打った。正劇とは音二郎によれば「国々に拠って音楽の入って居るのも入らないのもあって、多少違ひますが、私の申すのは目下巴里に行はれてゐるドラマであるので、巴里に行はれるドラマをどういふものと申すと、スピイキ劇即ち詞(ことば)の芝居」のことである(同前)。つまり歌劇や歌舞伎とは別の現在一般に行われているセリフ劇と考えればよい。
音二郎は翻案台本の作成を江見水蔭に委嘱したが、水蔭は明治32年8月の『太陽』に発表された戸沢姑射訳の『オセロ』を参酌した(秋葉太郎著『日本新劇史』)。この時音二郎が水蔭に申し出た脚本料は1,000円であった。これは当時としては破天荒な額であったが、「座からは、沙翁の『オセロ』を其の儘演じて御覧に入れますといふ、英文の番附を外国人の客へ出し、尚座附の茶屋日野屋では、川上夫婦帰朝の祝意を文宇に現はした電燈を屋上に點じ、通弁を雇入れて、外国人の看客を一手に引受け」(木村錦花著『明治座物語』)たことと合せ考えると、この公演に対する音二郎の意気込みの大きさが推察できる。"
上演当時の番附には「セーキスピヤ四大悲劇ノ内、翻案オセロ六幕」となっているが、実際の舞台は当時の翻案の慣例に従って、舞台を台湾に取り、人物は当時の人物に変えていた。原作のオセロは陸軍中将兼台湾総督室鷲郎=川上音二郎、イヤゴーは陸軍中尉伊屋剛蔵=高田実、キャツシオは副官陸軍歩兵少佐勝芳雄=藤沢浅次郎、ロダリーゴーは銀行頭取息子櫓取孝=服部谷川、デズデモーナは室総督夫人鞆音=川上貞奴、エミリアは剛蔵妻おみや=守住月華、となっている。
上演は興行的には大成功で,『続々歌舞伎年代記』巻三六にも「川上帰朝して捲土重来の勢ひを以って爰に正劇と名乗って籏を上げぬ狂言は沙翁が四大悲劇の中なるオセロを江見水蔭子に嘱して日本の世界となさしめ一座も高田藤沢等を加へ大道具万端すべて西劇に倣ひ最も美観を極め近来稀有の出来栄にて長谷川の技倆を驚かしめたり」とある。貞奴はこれが日本における公式の初舞台であった。
音二郎はこの『オセロ』をもって、京都歌舞伎座、神戸大黒座、大阪浪花座などを巡演。
同年6月には同じ東京明治座で、再びシェイクスピァを取り上げた。しかし今度は番附には「セーキスピヤ原作土肥春曙翻訳マーチャントオヴェニス一幕」とあるが、実際には法廷の場の一場面を上演したに過ぎない。
音二郎はこの上演について「今回の興行には『ロベスピイヤ』か及至は『ハムレット」を演じて見たい考へでしたが、それを日本の脚色にするには余程手数の掛る事で、迚も急場の間に合ひませんし、一番目は高安月郊子の書かれた、史劇『江戸城の明渡し』七幕を演ずる事になりましたから、時間の都合もありかたがた『マアチャント、オブ、ヱニス』のうち、法廷の場だけを土肥春曙先生に訳して戴いて、二番目として場に登す事に成りました」と語っている(「『マアチヤント・オブ・ヱニス』に就て」(『歌舞伎』38号))。
音二郎は、明治33年1月24日及び25日のボストン市での経験を思い出していたであろう。訳者の土肥春曙は34年4月の音二郎の第3回外遊に舞台監督として同行し、後には文芸協会に入り、ハムレット役者として知られた俳優である。
この公演も興行的には成功した。「川上のシャイロックが、アーヴィングの型だといって、ナイフを靴の底で研(みが)く事や、絶望した身体を扉に附着けてグルリと引込む処などは可なり評判に成った」という(木村錦花著上掲書)。逍遙も貞奴のポーシャについて「ポーシャのせりふまわしは翻訳者直伝の由、ところどころよかった。とも角もあの長ぜりふを暗記してスラスラと述べたは感心です」と評している(「明治座のマーチヤント・オブ・ヴェニス」(『歌舞伎』38号)。
後に横浜喜楽座、大阪朝日座等で再演されたのも「初日の外は、六日間全部売切で、未曾有の盛況」(木村錦花著上掲書)であった初演の好評によるものであろう。
7月18日、川上音二郎(39)・貞奴(31)、横浜・喜楽座での一座公演で「ヴェニスの商人」「サッフォー」を上演
つづく

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