1904(明治37)年
7月25日
23日に行動開始した第2軍、この日、大石橋占領。
26日、営口占領。
7月25日
(漱石)
「七月二十五日(月)、橋口貢宛に、前日出した自筆水彩の繪葉書に誤って切手を貼らずに出したことを詫び、「十銭で名畫を得たり時鳥」と俳句を添えて葉書を出す。」(荒正人、前掲書)
7月26日
旅順攻囲軍、前進を開始
7月26日
島崎藤村(33歳)、函館に向かう途中、青森で鳴海要吉(22歳、小学校教員)とその友人秋田徳三(早稲田大学生、のちの雨雀)に会う(妻冬子の父秦慶治から自費出版資金を工面してもらうための函館行き)。
秋田徳三は、この年6月「黎明」という小さい詩集を出した。それを鳴海要吉が藤村に送ってやった。藤村は、自分は詩壇を隠退したので、その詩集を蒲原有明に見せるとの返事を出していた。
藤村はこの2青年に好感をもった。鳴海要吉と秋田徳三は藤村に土産として林檎を贈った。
翌日、藤村は汽船で無事函館に着いた。冬子の父秦慶治は、娘婿の島崎の出版計画のために400円の出資を承諾した。
7月30日、島崎藤村は函館で、小諸にいた時に受け取った田山花袋の葉書への返事を書き、合せて自分の近況と文壇の様子を報じた。
「・・・今回はすこしく長き作(『破戒』)にとりかヽり、来年の春、小諸を去る迄に完結すべき見込にて、日々精励執筆致居候。
「頃日、沿岸の航路殆と断絶、津軽海峡のみ僅かに滊船を通し居候。浦汐艦隊は先の日津軽海峡を通過して太平洋方面に出で、この二三日は房州附近に遊戈しつつありとの報あり。その目的は商船撃沈にありとか聞く。あるひは小生が当地に滞在中、この函館沖に於て海戦を観るの機あるやも知れず。小生は猶数日この地にとどまり、それより信州の山家へ帰るつもりに御座候。
「文界の事別に報ずべきなし。戦争に関する小説類は数多く出づる有様なれど、傑出せるものあるを聞かず。戦争劇とても亦同様の状態に御座候。但、新聞紙に於る科学的記述体の戦報、戦評等を争つて読むの今日の習慣は、今後の著述界に注目すべき事象と思はれ候。
「東京にては戸川君一寸出京せるあり、久し振にて快談仕候。猶馬場君、蒲原君、小山内君、三宅君等にも逢ひ申候。斎藤君の病死は御聞及の事と存候。馬場君の話によれば臨終の光景等悲惨なる生涯に候ひし。先は右まで、余は後便可申上候。折角御自重祈上候。
七月三十日 函館にて 春 樹
録弥兄」
戸川秋骨は、明治女学校の教師をしながら東京帝国大学の文科大学選科に学び、卒業後、山口高等学校教授をしていた。夏の休みに上京中、ちょうど上京した藤村に逢った。
藤村は、函館の秦家に一週間滞在して、8月3日に函館を出発。帰路は鳴海・秋田に逢わず、5日に小諸に帰着。帰ってすぐ、彼はこの旅の間に得た見聞と、前年華厳の滝で投身自殺した藤村操の事件とを結びつけた短篇小説「津軽海峡」を書き春陽堂の「新小説」に送った。それは12月号に掲載された。
7月27日
チベットのダライ・ラマ、ラサから青海に逃げる。
7月28日
旅順攻囲軍、安子嶺を占領
7月28日
(露暦7/15)内務大臣バチェスラフ・プレーヴェ、社会革命党員(戦闘団サゾーノフ)に暗殺。
後任ミルスキー公爵。「政府と全ロシア」の和解を訴え、宗教上の寛容、地方自治拡大、辺境政策転換、出版の自由拡大を主張。「ミルスキーの春」という束の間の雪解け。12月末迄。
7月28日
独、露・墺・ベルギー・スウェーデン・スイスと通商条約締結。
7月28日
コロンビア大統領にラファエル・ルイエス(54)就任。独裁政治始る。
7月30日
旅順攻囲軍、鳳凰山を占領
7月30日
平民社演説会。上州本庄町常盤座。石川「社会主義」、木下「社会党の運動」、幸徳「戦争と社会主義」。
同日、茨城県土浦町で演説会。西川光二郎「土地私有の弊害」、山口狐剣「社会主義の要領」。
7月30日
田中正造(64)、谷中村問題に専念するため谷中村に移り住む。寄宿先谷中村川鍋岩五郎方。同村字下宮に「悪弊一洗土地復活青年事務所」設置、買収反対派青年を結集して調査開始。
7月30日
仏下院、閣議の在バチカン仏大使館閉鎖決定(29日)を受けて、これを決議。バチカンと国交断絶。反宗教的傾向を強める政府と、教会との対立がエスカレートした結果。
7月31日
第2軍、栃木城を占領
7月31日
『平民新聞』第38号発行
この号に掲載された寄附者氏名。
北輝次郎(2円)、麻布の洋食店竜土軒(5円)、徳富蘆花(1円)、今村力三郎(5円)、松尾卯一太(3円)など。
名古屋での大杉栄(19)の通信掲載。
「去る十九日当地に在住せる同志相会して茶話会を開きましたから、その模様を通信します。初めは中原氏宅にて開会のはずなりしが、同氏病気のため急に会場を石巻篁氏宅に移しました。来会者はわずか十三名に過ぎなかったが、石巻氏からの御馳走なる清新な果物をかじりつつ『いかにして社会主義者となりしか、現今は社会主義のためにいかに働きつつあるか』等について愉しく談り合い、終りに当日徴収の会費は全部御社の遊説費に充て、なお御社の新聞書籍等を売ってその収入をもこれに加えんと決議しました。(名古屋、大杉生、矢木生)」。
つづく

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