1905(明治38)年
8月20日
週刊『直言』第29号発行
堺利彦「平民社の改革」:
「二君(幸徳と西川)の不在中、石川君と共に財政、編集、事務の責に任じ、諸方面から多少の不平を聞いている。そこで自分の力量の不足、信任の欠乏を認めて暫く責任の地を去りたい」という。
次号(8月27日発行の第30号)で幸徳は堺を慰留。
大杉栄(20)「社会主義と愛国心」(『直言』連載全4回第29号~第32号)。
パリの『社会党評論』の提起した問題に関する欧洲社会党の領袖の議論を掲載、第二インターナショナルの思想的不一致、崩壊を社会革命観と国家的観念との矛盾を暴露。
①「社会主義と愛国心 英国社会民主党首領ケルチ」(8月20日)
②「社会主義と愛国心 独逸社会党首領ベーベル氏」(8月27日)
③「社会主義と愛国心 伊太利社会党首領エンリコ・フリエ氏」(9月3日)
④「社会主義と愛国心 仏国社会党員ギユスタヴ・エルヴエ氏」(9月10日)"
「国際的連合と愛国心とは果して両立すべきか否か、また社会主義者は現在の防衛戦争に参加すべきか否か」
英国社会民主同盟領袖クェルチの論。
「今や欧洲社会党の間に、万国社会党の死活に関する重大問題が起っている。即ち万国社会党の連合運動はいかなる程度において、愛国心と両立し得るか。社会主義者は現体制の下における防衛戦争に、参加すべき義務を有するか、ということである。
フランス社会党の首領ヴァイヤン氏は、国民をして目下の極東戦争に参加するを拒ましめ、本国ブルジョアジーに対する反抗によって社会革命を開始せしむるために尽力すべしと主張する。エルヴェ氏は更に一歩をすすめて、もしフランスがドイツの侵略をうけるとも国民をして侵入軍に抵抗することなからしめ、国内の一層憎むべき敵に対してその勢力を集注せんことを勧告すると説いている。
然るに、ドイツ社会党の首領べーベル氏はこれに反して、社会民主党は他党と同じくドイツ帝国の寸土をも防衛せんとすると議会で宜言した。フランスでもグロール、リシャル氏等の一派は、エルヴェ氏の意見に強固なる反対を表明している。
吾人社会主義者は、人民の国民的自由を禁遏(きんあつ)しその独立を奪わんとする侵略戦争には断乎として反対する。英国社会党がボーア戦争に反対したのは、ボーア人が自らその国政を処理する権利を有すると信じたからである。吾人が国外におけるイギリス帝国主義の発動に反対する理由は、即ちまた吾人が外国侵入軍に対する抵抗を正当とする理由にはかならない。
一般的原則としては、国家の自由、独立、領土を防衛するは人民の権利にして義務でもあるが、この原則の当否は外国侵入軍の性質によって決定されなければならぬ。階級闘争の重要性は他のあらゆる闘争を超越する。故に、もし他国の労働者階級が政権を握り、英国に侵入してわが国の革命運動を援助するとしたら、これを歓迎し、これに抵抗しないことは固より吾人の義務である。
それ故、国家の自由独立のため、および人民の権利擁護のためには、社会主義者もまた国防軍を助ける義務があるが、しかし侵略戦争には断然反対し、そして国内の権力階級を敵として人民の自由のために侵入する外国軍は、歓迎しなければならぬ。とはいえ、かくのごとき問題はある一国において社会革命が充分の勢力を得るに至らざる限り、この種の侵入軍は決して組織されることはないであろう。
社会主義者はトルストイの無抵抗主義を取らざる限り、その戦うべき力を有せんがために民兵主義を主張しなければならぬ。近世の国家が仲裁裁判を以て国際的紛争を解決しようとしても、なおその背後には兵力がなければならぬ。今の社会は力の上に立っている、力によらないでこれを顚覆し得るか否かは今後の見ものである。現状の下で吾人のなし得るところは、常備軍を廃して民兵制度に代ゆることと、国際裁判所を設け直接投票によって和戦を決すること、之れである。」
8月20日
大阪毎日新聞社主催の10マイル競泳大会、大阪湾で開催。
8月21日
ルーズベルト大統領、ロシア皇帝に親電。
皇帝は樺太割譲に反対、決裂止む無しの意見。外相ラムスドルフから皇帝意見を伝えられたウィッテは、樺太は日本により占領中でロシアに奪回の力はない。これを楯にした決裂は国際世論が受入れないと返電。
8月21日
ポーランド、ゼネスト開始。ロシアのドゥーマ設置宣言書でポーランド人の権利無視に反発。翌日、非常事態宣言。
8月22日
清国に戸部造幣総廠設置。
8月22日
夜、ルーズベルト大統領、金子堅太郎に対し賠償金要求放棄の勧告。
8月23日
ポーツマス、日露会談。
小村全権、改めて樺太南部割譲・12億賠償金要求。
8月24日
軍用船金城丸、大分県姫島沖で英汽船バラロング号と衝突して沈没。帰還兵155人死亡。
8月25日
桜井静(47)、大連開発をめぐり軍部と対立、ピストル自殺。
8月25日
山路愛山・斯波貞吉・中村太八郎ら、国家社会党結成。
翌年、東京市街鉄道電車賃値上げ反対運動で市民大会を主催。その後、立ち消える。
8月25日
戸水事件。
東京帝国大学教授戸水寛人(対露強硬論7博士の1人、「バイカル博士」)、対露強硬論を主張して「文官分限令」により休職処分。
9月下旬~、東京・京都帝国大学教授ら、大学の自治を掲げ、抗議運動。法科大学機関誌「国家学会雑誌」(編集主任美濃部達吉)10月号は全巻で各教授の政府攻撃文(美濃部は「権力ノ濫用ヨリ生ズベキ弊害」掲載)。河上肇は発表中の「社会主義評論」でこの事件に言及、「学者言論の自由」を主張し教授会を支持。
翌年1月29日戸水は復職。文相久保田護は辞職。
8月25日
廟議、ルーズベルト米大統領の勧告により報奨金減額を決定。6億円と俘虜収容費1億5千万。
8月25日
(漱石)
「八月二十五日(金)、雨。夜、外出中に、寺田寅彦来て、その後、森川町で会い、一緒に戻る。九時頃まで話す。
八月二十七日(日)、曇後晴後雨。午前、寺田寅彦来て後から来た野村伝四と共に、鈴本亭(下谷区広小路町二番地、現・台東区広小路(上野一、二、三、四丁目に画した通り))の落語に誘う。鈴本草は満員で入場できぬ。浅草公園に行く。日曜日で、久し振りのお天気なので、人出多い。馬車で新橋停車場へ行き、停車場前広場の有楽軒二階で夕食をする。外濠線で帰る途中、雷雨になる。落雷で停電し、お茶の水橋で下車する。雨宿りの後、歩いて帰る。午後は、土井林吉(晩翠)らと快楽園に集る予定であったが、取り止める。」(荒正人、前掲書)
「東京電車で、漱石が乗車したのは循環線(赤坂見付・虎の門・土橋・数寄屋橋・神田橋・駿河台下・御茶の水・飯田橋・市が谷見付・四っ谷見付を通る)と推定される。」(荒正人、前掲書)
8月26日
ポーツマス、第9回日露会談。
午後3時、秘密会議。ロシア皇帝が賠償金支払いを承諾せず決裂寸前。28日午後に再度会議を開く。
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿