1906(明治39)年
7月
-横浜正金銀行、中国の安東県に出張所設置。
7月
梅屋庄吉、エム(M)・パテー商会を創立。仏パテー作品を携えてシンガポールより帰国していた。
7月
シェークスピア、坪内逍遙訳、戯曲「ヱ゛ニスの商人」(「早稲田文学」)
7月
水野葉舟、窪田空穂「明暗」(「金曜社」)
7月
二葉亭四迷、エスペラント独習書「世界語」出版。8月ザメンホフ「世界語読本」出版。明治35年~、沿海州、満州、北京へと旅したとき、ウラジオストクでエスペランティストと出会い、意気に感じて約束を果たそうと、この年はエスペラント語著書の出版に熱中。
7月
武者小路実篤(21)、学習院高等科3年を卒業、成績がビリから4番。
9月、東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。大学の授業にあきたらず、小説・詩・対話・戯曲・感想など、形式にこだわらず創作をこころみる。この頃、メーテルリンク「智慧と運命」(ドイツ語訳)を読んだことや、ドイツの理想派の画家クリンゲル等の影響を受け、トルストイの禁欲的傾向から自己の解放を図る。
7月
この月、新聞「日本」から夏目家へ記者がやって来て、時々短文を「日本」に発表する気はないかと言った。「日本」は正岡子規が長年席を置いたところであり、夏目とは間接に緑のある新聞であった。夏目はそれにすぐ応じはしなかったが、それを機会に彼は、新聞から定期的に入る収入をあてにして学校の勤務を減らせるのではないか、と考えはじめた。またこの頃、「報知新聞」、「国民新聞」からも同様の依頼があり、「読売新聞」がそれに続いた。
7月
宋教仁の入院
明治39(1906)年7月、宋教仁は神経衰弱になり、早稲田の清国留学生部予科の課程を終えた直後、ひと月ほど田端の東京脳病院に入院する。
退院後、宋教仁は下宿を引き払い、『民報』編集部のある牛込区東五軒町19番地(現、新宿区東五軒町3番22号)に引っ越した。
宋教仁の孫文に対する反感は、国旗問題と金銭の紛争で頂点に達した。日記には、孫文のやり方を批判して「専制跋扈に近し」と記している。常にマイペースで物事を決めてしまう孫文のやり方が我慢ならなかったらしい。理論家で律儀な宋教仁とはまるで馬が合わなかった。
7月
森田草平、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。
生田弘治(長江)、哲学科を卒業。
安倍能成、第一高等学校を卒業。
7月
三重紡績、津島紡績を合併。
7月
富士製紙、北海紙料会社買収。
7月
イラン立憲革命。
数千人のテヘラン住民、テヘランの英公使館敷地内に避難して抗議バスト(一斉封鎖)。
イラン国王モザッファロッ・ディーン・シャー、大臣アイノッ・ドーラを解任し、国民議会(マジュリス)開設に合意(8月5日)。
10月7日、初議会を開き、自由憲法起草。
国王は12月30日、草案に署名し翌日死亡。
7月
メキシコ、フアン・サラビア,自由党綱領を著す。アリアガらに配慮し自由主義を基調としながら労働保護、土地改革、反帝民族主義なども盛り込む。17年憲法の精神となる。
7月1日
韓国統監府、京釜鉄道、京仁鉄道を買収し管理下に置く。
7月1日
谷中村村長職務管掌鈴木豊三、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併。
明治38年12月、谷中村村会が田中与四郎を村長に選出するにもかかわらず、県は郡官吏鈴木豊三を管掌村長に任命。39年3月、谷中村3小学校を廃校。4月、谷中村・藤岡村合併提案。村会はこれを否決するも、7月1日、合併強行。法制上の谷中村は消滅。
この月、田中正造、谷中村管掌村長鈴木豊三に対する官吏侮辱罪により栃木未決監に拘留される。宇都宮裁判所での一審有罪。
明治40年6月、東京控訴院、無罪。
7月1日
大阪砲兵工廠の職工500人、解雇に反対し、暴行。
7月2日
韓国、宮禁令改変。王宮警護を朝鮮官憲から日本官憲へ移譲。
6日、更に、宮禁令一部変更。朝鮮人の出入りは大韓政府の許可要。韓国宮廷を粛正。
7月2日
(漱石)
「七月二日 (月)、『ホトトギス』(第九巻第十号 明治三十九年七月一日発行) を読む。
七月三日 (火)、論文や採点終り、楽な気分になる。
七月四日 (水)、狩野亨吉宛手紙で、七月九日 (月) から十二日(木) まで大学予科入学者選抜試験の藍啓を依頼されたが、多忙と病気を理由に今年だけはやりたくないと云う。(実際にはどうなったか分らない)」(荒正人、前掲書)
7月2日付の漱石の高浜虚子宛手紙。
少々ひまになったから余計な事を書くと断り、昔はこんな事を考えた時期がある、として、
正しい人が汚名をきて罪に処せられる程非惨な事はあるまいと。今の考は全く別であります。どうかそんな人になって見たい。世界総体を相手にしてハリツケにでもなってハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい。
尤も僕は臆病だから、本当のハリツケは少々恐れ入る。絞罪位な所でいゝなら進んで願ひたい。
と、昔とは生きる価値観が違ってきたことの自白、生きる決意、その覚悟を述べる。
7月3日
(3日)「高浜虚子宛手紙に、「頭は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇體なものにて十分に三十秒位づゝ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と沸くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから澤山なものに候。此漫然たるものを一々引きのばして長いものに出来かす(ママ)時日と根気があれば日本一の大文豪に候。此うちにて物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千萬粒のうち一つ位が生育するものに候。然しとにかく妙な気分になり候。小生は之を称して人工的インスピレーションとなづけ候。」と書く。」(荒正人、前掲書)
7月17日付小宮豊隆宛手紙では、
「来月は講義をかゝなければならん。講義を作るのは死ぬよりいやだ、それを考へると大学は辞職仕りたい」。
大学の講義にたいする本音を述べている。
つづく

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