2025年12月23日火曜日

大杉栄とその時代年表(717) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳②〉 大正4(1915)年3月21~22日 「電車。雨中木屋町に帰る。淋しいから御多佳さんに遊びに来てくれと電話で頼む。飯を食わすために自分で料理の品を択んであつらえる。鴨のロース、鯛の子、生瓜花かつを、海老の汁、鯛のさしみ。御多佳さん河村の菓子をくれる。加賀の依頼。一草亭来。」

 

津田青楓

大杉栄とその時代年表(716) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳①〉 大正4(1915)年3月19~20日 「晩食に御多佳さんを呼んで四人で十一時迄話す。」 より続く

〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳②〉

大正4(1915)年

3月21日

二十一日(日)

八時起る。下女に一体何時に起ると聞けば大抵八時半か九時だという。夜はと聞けば二時頃と答う。驚くべし。東山霞んで見えず、春気瞹瞇、河原に合羽を干す。西川氏より電話可成早くとの注文。二人で出掛ける。去風洞という門札をくぐる。奥まりたる小路の行き当り、左に玄関。沓脱。水打ちて庭樹幽𨗉、寒きこと夥し、床に方祝の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華蔵世界。一草亭中人。御公卿様の手習机。茶席へ案内。数奇屋。草履。石を踏んで咫尺のうちに路を間違える。再び本道に就けばすぐ茶亭の前に行きつまる。どこから這入るのかと聞く。戸をあけて入る。方三尺ばかり。ニジリ上り。更紗の布団の上にあぐらをかき、壁による。つきあげ窓。それを明けると松見える。床に守信の梅、「梅の香の匂や水屋のうち迄も」という月並の俳句の賛あり。

 料理 鯉の名物 松清。鯉こく、鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならわず勝手に食う。箸の置き方、それを膳の中に落す音を聞いて主人が膳を引きにくるのだという話を聞く。最初に飯一膳、それから酒という順序。

 午後二時より京坂電車墨染より竹薮梅の花を大亀谷、兵隊かけ足で二三度四列位のもの行き過ぎる。太閤の千畳敷の跡、仏国寺、桃陽園、左右の梅花、の中に道白く見ゆ。上は平ら。家十戸。夜、買って来た罐詰、鶏、ハム、パン、チョコレート。ヴェルモットをのむ、ユバト豆腐、萱草の芽のひたしもの。にて飯を食う。細君曰く大抵のものは食えます。ゲンゲ、タンポポ、その他、夜炬燵を入れて寝る。自分の今の考、無我になるべき覚悟を話す。(漱石の日記)

 

3月21日、漱石は午前8時に起きて、青楓の実兄・西川一草亭の招きに応じて、富小路通御池にあった一草亭の父・一葉の隠居所・去風洞へ出かけ、書画骨董を見せてもらいう。そして、富小路通御池角にあった「松清」で懐石料理を食べる。鯉こく、鯉のあめ煮、鯛の刺身、鯛のうま煮、海老の汁、飯一膳、酒という内容でした。この店では、箸を膳の中に落す音を聞いて主人が膳を引きにくるのだという話を聞いている。

そして、京阪電車で青楓の自宅のある墨染駅に行く。二人は、大亀谷街道を歩いて、太閤の千畳敷の跡や仏国寺を見ながら青楓の家に着く。家は、桃陽園という丘陵にあり、人家のまばらな場所にある。

漱石はこの日、青楓の家に泊る。罐詰、鶏、ハム、パン、チョコレートなどを買い、ユバと豆腐、萱草の芽のひたしもので飯を食べ、ヴェルモットを飲む。漱石は、青楓夫妻に「自分の今の考え、無我になるべき覚悟を話す」と「日記」に書いている。

  

「・・・西川一草亭(一八七八~一九三八)、津田青楓(一八八〇~一九七八) の兄弟は、西川源兵衛(一葉) の子として、中京区(当時は上京区)麸屋町押小路通に生れた。一葉は表で生花商花源を営み、奥の部屋で去風流の六代目家元として華道を教えていた。長男の源治郎は幼時からいけばなを学び、一草亭と号し、大正二年(一九一三)父の死後、七代目家元を継いだ。彼は形式にとらわれないおおらかで自由な作風を示して「文人生」と呼ばれ、華道に新風を吹きこんだ。・・・」。(水川隆夫「漱石の京都」)

3月22日 

二十二日(月) 井戸に行って顔を洗う。字治川と巨椋池、を限前に見る。仏国寺へ行く。高泉の開山、聯には支那沙門高泉拝題とあり、普光明殿には曇華の落款あり。山門石段なし、横門だけ残る。咋日買って来たパンで食事、玉子、紅茶、ハム、桃花園主にあう。その計画を聴く。

 鳥鳴く。何ぞと聞けばチンチラデンキ皿持てこ汁のましょ。

 十時半山を下る、梅、竹薮、赤土、六地蔵、鐘楼赤、釣鐘青。そこを抜けて、六地裁から電車一区宇治に行く。黄檗にて下車。久し振で赤壁の山門と青い額と石段の松の様子を見る。彼岸中日で施餓鬼を執行。

 門前の普茶料理で昼食、腥物のなき支那料理。品数多くして食い切れず。雨降り出す。小僧傘を二本出す。貸すのかと訊けば停車場まで迭るという。字治まで行って帰りに黄檗の停車場へ置いて行く約束にて出る。雨を冒して宇治に向う。徒歩にて。途中難義なり。宇治橋につく。鳳凰堂より土堤へ出て河を横切る。興聖寺の奥の温泉へ行って、ここは何だときくと料理屋だという。温泉はときくとあるという。崖道伝いに亭の下から伝って行くと温泉と書いた戸あり、銭湯の如し、服を脱ぎ湯につかる。雨歇む。から傘を肩にして出ず。

 電車。雨中木屋町に帰る。淋しいから御多佳さんに遊びに来てくれと電話で頼む。飯を食わすために自分で料理の品を択んであつらえる。鴨のロース、鯛の子、生瓜花かつを、海老の汁、鯛のさしみ。御多佳さん河村の菓子をくれる。加賀の依頼。一草亭来。(漱石の日記)

3月22日、漱石は、朝、仏国寺に行き、青楓の家に帰って朝食。咋日買って来たパンで玉子、紅茶、ハムの食事です。朝食を食べていると、鳥が鳴く。「何ぞと聞けばチンチラデンキ皿持てこ、汁のましよ」とホオジロの声が聞こえたことを「日記」に記す。

これは『道草』の健三と比田の「健ちゃんはたしか京都へ行ったことがありますね。あすこに、ちんちらでんき皿持もてこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」という会話の中に取り入れらる。

漱石は、万福寺や宇治の景観が見たくなり、六地蔵(大善寺)に寄り、六地蔵駅で京阪電車に乗り、黄檗駅で下車する。万福寺に入り「久し振で赤壁の山門と青い額と石段と松の様子を見る。彼岸中日で施餓鬼を執行」と書く。

漱石らは、門前の普茶料理店「白雲庵」で精進料理を食べる。これは「普茶(ふちゃ)料理」のことで、江戸時代初期に、中国の高僧・隠元禅師により黄檗宗とともに渡来した、明風の精進料理。二汁六菜を基本に、中国料理のように卓袱台を囲み、大皿に盛られた料理を取り分けます。漱石は、「品数多くして食い切れず」と「日記」に書いている。

「白雲庵」は、もと万福寺の塔頭として創建され、門に掲げられた「白雲庵」の額は、隠元禅師の筆蹟で、酒樽でつくられた茶室「自悦堂」には、白雲庵の開祖である自悦禅師の木像が祀られている。(この「白雲庵」は、現在も営業されていて、歴史に彩られた「普茶料理」を楽しむことができる。)

漱石らは、平等院へ行って鳳凰堂を見ると宇治橋西詰までもどり、舟で対岸に渡って興聖寺へ行き、その奥にあった温泉につかった。そのあと、二人は宇治橋のたもとを経て黄檗駅まで歩き京阪電車の終点・五条駅で降り、人力車に乗って北大嘉まで帰る。

漱石は、淋しいからと多佳に来るように電話で頼み、自分で料理の品をあつらえ、鴨のロース、鯛の子、生瓜花かつを、海老の汁、鯛のさしみなどを用意した。多佳は、河村の菓子を持ってきた。

漱石は、多佳から大阪の実業家・加賀正太郎が会いたいと聞き、漱石は会うことを承諾。加賀正太郎は山崎の別荘の命名を漱石に依頼する。一草亭がやってきて、四人で話が盛り上がる。


つづく


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