2025年12月27日土曜日

大杉栄とその時代年表(721) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑥終〉 大正4(1915)年 「先生あんたはんは女子はんにおほれやしたことおすか」と尋ねたことがおした。 すると先生は一寸真面目な顔で、「僕だつてあるさ」とおっしゃってどしたわ。(磯田多佳)

 

茶屋「大友」があった祇園新橋、吉井勇歌碑の辺り(2016-04写す)

大杉栄とその時代年表(720) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑤〉 大正4(1915)年4月6日~5月16日 「これは黒人(くろうと)たる大友の女将の御多佳さんにいうのではありません。普通の素人としても御多佳さんに素人の友人なる私がいう事です。女将の料簡で野暮だとか不粋だとかいえばそれまでですが、私は折角つき合い出したあなたに対してそうした黒人向の軽薄なつき合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。」 より続く

〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑥終〉


『週刊朝日』(昭和10年12月8日号)に、「文豪夏目漱石二十年忌」という特集の座談会がある。出席者は西川一章亨、津田青楓、磯田多佳、梅垣きぬ(金之助)、塚本ひさ、夏目小一郎(直矩の長男、朝日新聞社社員)、大道鍋平朝臣(朝日新聞本社出版編集部長、漱石が京都旅行の折、大阪朝日新聞社社員として漱石を訪ねている)である。

梅垣きぬは、金之助という漱石の本名と同じ源氏名の芸者。芸者の野村きみ(通称お君さん)とともに大の漱石好きで、京都に来ていることを聞き及び、会いたいと多佳に仲介を頼み容れられる。

塚本ひさは、宿屋「北大嘉」の女将。「北大嘉」は、木犀町三条上ルの鴨川沿いにある、開店して間もない繍洒な宿屋であった。女将の塚本ひさは、西園寺公望の親類筋に当たる金持ちの妾だと噂される人だが、余り座敷にも顔を見せず、地味な身なりをしているとの評判であった。

この座談会で北野天神の件に関する多佳の発言。


大道 天神さまが大分たゝつてゐますね。

磯田 あんなんかなはんわ。あれは先生が天神様は二十五日といふことをお知りな

かつたからどすわ。


多佳が約束したのは24日ではなくて25日で、漱石の勘違いだと言っている。

そして、多佳の面白い発言。


「先生あんたはんは女子はんにおほれやしたことおすか」と尋ねたことがおした。

すると先生は一寸真面目な顔で、「僕だつてあるさ」とおっしゃってどしたわ。

磯田多佳、戸籍名たかは、明治12年(1879)36月21日生まれで、漱石より一まわり下。

父、磯田木間太は元舞鶴藩士で、明治維新後に京都に出て祇園新橋縄手辺りに住み、当時祇園から太棹(ふとざお)の芸者に出ていたともと結婚、多佳が生まれた。兄弟は、姉が料亭一力の女将おさだで、後に多佳が経営をする九雲堂(陶器店)を譲ることになる長兄もいる。

祇園新橋縄手東入ルにあった母ともが経営する「大友」(母の名から名づけられた)で母から芸を習い、若い頃からお座敷に出る。

文芸を好み、和歌は池辺義象、俳句は水落露右、書は李北海、絵は浅井忠、久保田米僊、岸竹堂らに学び、源氏物語も読む。知遇を得た文人墨客は、尾崎紅葉、高浜虚子、谷崎潤一郎、長田幹彦、巌谷小波、吉井男ら多数。

明治45年初夏、谷崎潤一郎は初めて「大友」で長田幹彦とともに多佳に会い、それ以来馴染みになっている。谷崎の言葉をかりると、


多佳女の文学のたしなみは、昔の遊女が和歌俳譜の道を心得てゐた、あの伝統を引くもので、祇園の梶とか百合とか云ふやうな女の跡を継ぐものであるから、文学好きと云つても純然たる旧派に属するのであって、京都の花街には古くからある型の一つなのである(『漱石とその時代』)


容姿容貌については、特に美人というでもなく、「それ者(しや)上りらしいなまめかしさ凄艶さもなく」色黒で器量もよくなかったが、眼がいかにも利発そうだったという。また洒落がたいそう上手で、洒落好きの漱石とも気があった。小柄な女であったらしい。

谷崎潤一郎が初めて会った時、潤一郎は数え年で26歳、多佳は34歳。この頃の「大友」は、床の下を白川が流れる舟板塀の家で伽羅をたいていたという。


多任は戦時中には南禅寺辺りに疎開していたが、終戦の少し前の昭和20年5月15日に死去した。享年66歳。

多佳が亡くなった時は谷崎潤一郎は岡山県津山市に疎開しており葬式には参加できなかったが、一周忌の案内は谷崎の元に届く。谷崎は戦後、神戸には戻らず、昭和21年3月に京都に住まいを見つけていた。


…今年の五月、「磯田おたかさんが亡くなられてけんに一周忌を迎えましたので生前親しく芸事を通じて交りし者が集りまして故人の為に追善の演芸会を催しましておもいでのありし日を忍びたいと存じます」、と云う松本さだ女の案内状を貰った時は、私は既に京都の住人になっていた。会は五月二十五日の午後一時から知恩院境内の源光院と云う寺で催され、出し物は大友の客筋であった旦那衆の人々が語る荻江節、清元、一中節、宮薗節等の外に、袖香炉、短夜、露の蝶、桶取、花の旅等の京舞があるとのことであった。…… 会場の源光院と云う寺もよかった。それは円山公園を北へ、知恩院の山門の方へ抜けて粟田口へつゞく廣い舗装道路がある、あの道の、山門の前を少し行って、雑草のあいだに僅かに通じている細い径をだらだらと西へ下った北側にあって、知恩院の塔頭ではあるが、今は某氏が知恩院から借りた形式で、私邸に使っているのであると云う。こゝの庫裡の二階には、嘗て上田敏がいたこともあり、又一郎氏も、今の南禅寺畔に家居する前、十年ばかりもこゝに住んでいたそうであるが、多佳女は此の寺院の庭の閑寂なのを愛して、しばしば此処へ来てひとり静かに三味線などを弾いていたものだそうで、故人に取っても因縁の深い場所なのであった。…


谷崎潤一郎『磯田多佳女のこと』(昭和22年9月、全国書房)


「大友のお多佳さんで通っていた祇園の多佳女が去年(昭和二十年)の五月に亡くなったことを知ったのは、同じ年の六月であったと思う。当時私は作州津山に疎開していたので、多佳女の嗣子又一郎氏から熱海西山の善居へ宛てて出された死亡通知が、漸くその時分に廻り廻って私の手もとに届いたのであったと記憶する。私は多佳女に又一郎氏と云う嗣子があったことをも、又一郎氏が実は多佳女の姪の子に当る人であることをも、それまで知らなかったのであるが、しかし故人には実子がなかった筈であるから、此の人は多分故人と血のつながりのある人で、養子に貰われたのであろうとは、ほゞその時に想像した次第であった。平時ならば葬式には間に合わなかったとしても直ぐ飛んで行くところであったが、当時はどうにもならなかったので、私は取りあえず南禅寺北之坊町に住む又一郎氏に宛てて、悔み状にいさゝかの香花料を添えて送った。すると折返して又一郎氏から丁寧な挨拶状が来たが、それによって私は、多佳女が亡くなったばかりでなく、あの吉井勇の歌で名高い新橋の大友の家、 ── 何十年来多佳女が住み馴れた、あの白川の水に臨んだ家までが、建物疎開のためにあとかたもなく毀ち去られた事実を知った。…」


谷崎が初めて京都を訪ねた明治45年、谷崎は新進作家として名前が出ていたが、磯田多佳も2年前には雑誌に載ってた。 谷崎潤一郎『磯田多佳女のこと』より


明治四十三年七月一日発行の「新小説」に、「代表的婦人」と云う欄があって、豊竹呂昇、富田屋八千代、上村松園、伊賀おとら、鳩山春子、日向きむ子、江木栄子、福田英子、平塚明子、榊原蕉園、花月しづ、立花屋橘之助等々各方面の婦人の略歴と談話筆記とを載せている中に多佳女のも見えるが、それに依ると、

女史は明治十二年新橋縄手東大妓楼大友に生る、姉は現に有名なる祇園一力楼の女将おさだにして、幼きより読書の趣味深く、長じて校書の班に列するに及び故紅葉子小波山 人故米倦画伯などの知遇を得て益々文垂の趣味を解するに至り、一時文学蛮枝の名高か りしが、幾程もなく廃籍して陶器店九雲堂を開き、今はそを実兄に托して身を閑散に置き、専ら文垂の趣味にあくがれ居れり、歌は池辺義象氏に俳句は水落露石氏に画は故浅井忠氏に学び、歳三十二、現住は新橋縄手東。


本項、おわり

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