2025年12月31日水曜日

大杉栄とその時代年表(725) 1907(明治40)年4月12日~15日 「著者(荒畑)の見る所では、第一に日刊新聞の経営は人も金も不足だった。外国通信の欠如はもとより記者の取材費も不足しているから、『平民新聞』の記事に独自の特色が発揮できなかった。」

 

日刊「平民新聞」を創刊した平民社(1907年1月)

大杉栄とその時代年表(724) 1907(明治40)年4月5日~11日 有島武郎(30)神戸着、帰国。神戸港には父の有島武が来ていた。 武は、この年、数え年66歳、母幸子は54歳であった。武郎は長男で、その下に愛子、壬生馬、志摩子、隆三、英夫、行郎の7人の子供があった。 より続く

1907(明治40)年

4月12日

漱石、京都より東京に戻る。

「四月十二日(金)、午前九時新橋停車場着。十二時頃自宅に帰る。白仁三郎(坂元雪鳥)宛手紙に、「今回の事はもと大阪鳥居氏の発意に出で夫より東京にて大兄の奔走にて三分二以上成就致候事と信じ居候御禮の為めまかり出で可きの處そこは例の通りの無精にて手紙を以て代理と致し候」と感謝の意を伝える。(出発した夜留守宅に泥棒入る。)帰京以後、四月二十日(土)数日前までの間、大村西崖訪ねて来て、東京美術学校(現・東京芸術大学)で、文学会開会式に、講演を依頼される。再三辞退したが、出席して顔さえ見せておればよいというので承諾する。朝日新聞社の社員だから、講演の内容を紙上に発表するという条件をつける。(速記を大村西崖に依頼する)

四月十三日(土)以後五月中申(推定)、津田亀治郎(青楓)、小宮豊隆に連れられて来る。野上豊一郎も来る。

四月十四日(日)、佐瀬武雄(蘭舟) (第一高等学校寄宿舎)宛手紙に、『十六橋』(原稿)の感想を伝える。

(狩野亨吉、上京中に麻疹になったが、この時は全快している。)

四月上旬または中旬(推定)、高浜虚子、早稲田大学に出講する意図があるかと聞くので、現在はその意志はない。但し、将来どこかの大学と関係をもつ必要が生じたならば、早稲田大学にすることを約束すると云う。(高浜虚子『漱石氏と私』)」(荒正人、前掲書)

4月12日

スイス、増大する国際緊張を理由に民兵からなる自衛軍を常設。

4月12日

ポルトガル、政府と議会が対立。ジュアン・フランコ、議会を解散し独裁制確立。

4月13日

山口孤剣、日刊『平民新聞』59号(3月27日)の「父母を蹴れ」で家族主義道徳を非難したため、禁固3ヵ月。編修発行人石川三四郎は禁固6ヶ月、同紙発行禁止の判決。

4月13日

北海道炭鉱汽船会社、輪西製鉄所を設立。

4月14日

板垣絹子・山脇房子らの発起により婦人博覧会開催。芝公演東京勧工場。~7月31日。

4月14日

日刊「平民新聞」、廃刊(75号)。3ヶ月間。

しかし、財政難のために堺、幸徳の2人が社務を離れた結果、『平民新聞』紙上もはや幸徳秋水水の名文が見られなくなり、そしてまたそれが新聞の販路を拡大させない悪循環をもたらした。

著者(荒畑)の見る所では、第一に日刊新聞の経営は人も金も不足だった。外国通信の欠如はもとより記者の取材費も不足しているから、『平民新聞』の記事に独自の特色が発揮できなかった。

この間、足尾銅山坑夫の暴発の他、長崎の三菱造船所、大阪の大日本精糖、岩手県の鴇鉱山、三池の鐘ヶ淵紡績、石川県遊泉寺炭坑、兵庫県生野銀山、北海道夕張炭鉱、同旭川野戦砲兵連隊、同幌内炭鉱、東京府下王子製薬、神奈川県浦賀船渠、福島県姥沢鉱山をはじめ、いずれも数百名をかぞえるストライキが全国の殆んどあらゆる会社や工場に起こっている。

『平民新聞』は、ストライキの報道には大いに努めたが、その報道は通信種(だね)に頼るか、精々で現地の同志や読者の報告に侯たざるを得ず、旅費や通信費に事欠くため本紙の記者が直接現地に出張取材することはできなかった。

いかに社会主義の新聞だからといって、日刊となれば週刊『平民新聞』のように良く言えは純粋、悪く言えば単純な調子ではすまされない。ところが、平民記者は堺のいわゆる「一廉の文章家」であってもジャーナリストとしては素人だったから、酷評かも知れないが「武士の商売」みたいな所が無いでもなかった。そうかと思うとまた、社会面には世の常の俗流新聞並に「妖婦下田歌子」と題して個人の私生活をあばいたり、或は「目白の花柳郷」と題する女子大学の内情暴露を連載している。その一方、一両の社説欄には幸徳秋水の文章がほとんど現われず、載っているのはいつもおおむね山川均、赤羽巌穴、山口孤剣等の執筆にかかる論文であって、それも社会党の方針が一定していないために勢い内容に不統一をまぬがれず、紙面全体の上に『週刊平民』に見られたような統一と調和とが欠けたことは疑えない。

正直に言って、『日刊平民』は資金面においても編集陣においても準備不足であった。

(荒畑寒村『続平民社時代』より)


4月14日 14 ・武者小路実篤(22)、志賀直哉・正親町公和・木下利玄と十四日会をつくり、毎月創作を批評しあう。また、輸入の美術雑誌・複製画や展覧会をともに見て、美術への関心も深める。8月、外務省に勤めた兄公共と相談、その励ましを受けて、大学を中退。 

4月14日 14 ・ナボディ・ヨジェフのオペラ『コッシュート』、ハンガリーのブダペストで初演。反墺デモの口火。

4月15日

清・日、新奉吉長鉄道借款成立。

4月15日

日露両軍、租借地及鉄道附属地を除き満州より撤兵。

4月15日

曽我廼家箱三(中島楽翁)と鶴屋団治(初代渋谷天外)、京都朝日座で松竹直属の喜劇団結成。のちの楽天会。

4月15日

(漱石)

「四月十五日(月)、菅虎雄宛手紙に、内丸最一郎に会い、縁談について話したが、複雑な事情があり、即答できぬとのことだから、手を引くと伝える。

四月中旬から六月三日(月)以前、池辺吉太郎(三山)から倶楽部(推定) (麹町区有楽町一丁目五番地)に招待される。大阪朝日新聞社から鳥居赫雄(素川)が上京したので、それを機会に、東京朝日新聞社の主な社員十数名集る。そのなかに、二葉亭四迷もいる。この時初めて二葉亭四迷と会う。(『長谷川君と余』)」(荒正人、前掲書)

4月15日

ロンドンに第5回植民地会議開催。~5月14日。


つづく

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