2025年1月24日金曜日

鎌倉 宝戒寺のウメ、ツバキ 大巧寺の寒咲アヤメ、ツバキ(モロヒト) 妙本寺の紅梅 2025-01-24

 1月24日(金)晴れ

鎌倉、宝戒寺の梅。まだまだの状況。

一本だけ、昨年まではなかったような気がする薄ピンクの梅。八分咲きくらいかな。

他には、通路から離れた位置にあと一本咲いている程度。


▼ツバキもポツリポツリと咲いている程度




▼大巧寺の寒咲アヤメ
ウメは通路から離れたところに少し咲いている程度。
通路沿いのウメはあと一息で開花する寸前のがチラホラ

▼ツバキ(師人モロヒト)

▼妙本寺の梅
一本の紅梅にチラホラ咲き程度
白梅はまだまだ


渦中のフジも自民議員の親族ゴロゴロ…有事の“お守り”? テレビ局に「政治家の身内ばかり」の歪んだ思惑(日刊ゲンダイ)

さいたま市在住のクルド人の小6女子児童、在留資格を失ったことを受け公立小学校から除籍 教育委員会が謝罪(TBS) / さいたま市教委、クルド人女児の小学校通学を阻む 在留資格の喪失を知り「除籍」…政府方針と異なる対応(東京)

 

大杉栄とその時代年表(385) 1902(明治35)年1月1日~10日 大杉栄(17)上京、東京学院中学校五年級受験科に入る 「一時間の間、膝にちゃんと手をおいて不動の姿勢のまま瞬き一つせず、先生の顔をにらめている幼年学校と較べれば、まるで違った世界だった。僕はただ僕自身にだけ責任を持てばよかったのだ。そして僕はこの自由を楽しみながら、僕自身への責任である勉強にだけただ夢中になっていた。」(自叙伝)

 

矢野文雄『新社会』

大杉栄とその時代年表(384) 1902(明治35)年 〈日本最初の中国留学生のための日本語学校弘文学院創立と中国人留学生〉(2) 日本留学ブーム 中国人留学生の容貌:黄興、魯迅 前田家の崩壊(漱石『草枕』の舞台) より続く

1902(明治35)年

1月

シベリア鉄道全面開通。ウラジオストク~ハバロフスク間が開通(1891.5~)。

1月

松本英子(毎日新聞記者)「鉱毒地の惨状」出版。

1月

利島・川辺両村に遊水池反対運動起こる。

1月

1月 ロンドンの漱石


「一月(推定)、この頃から『文學論』をまとめ始める。この頃、「自分の立場を正當にするために、『趣味の差違』と云ふ題目の下にあらゆる類例を集めにかゝつた。」と評論『観賞の統一と獨立』(明治四十三年七月二十一日『東京朝日新聞』)に記す。」(荒正人、前掲書)

1月

矢野文雄『新社会』

1月

大原祥一『社会問題」

1月

煙山専太郎『近世無政府主義』

1月

イタリアの地中海鉄道の従業員、労働組合承認を要求してスト突入(~2月)。ゼネストの危機に発展。6月に和解成立。

1月

大学アメリカン・フットボールの覇者を決定するローズ・ボウル、初めて開催。

1月

米、労働局設立。

1月1日

白井松次郎・大谷竹次郎兄弟によって、京都新京極に明治座が開場。この年松竹(資)設立。

1月1日

子規、新年に際し松山の親戚には短冊賀詞を認めたが、一般には正月刊行の「ホトトギス」第五巻四号誌上に、「新年目出度候。病中につき一々御答礼不致候。正岡常規」とのみ印刷文で掲げた。

1月1日

1月1日、6日 ロンドンの漱石


「一月一日(水)、元日。午後、渡辺和太郎(太良)の新居、 Crystal Palace (クリスタル・パレス、水晶宮)に近い Sydenham (シデナム)の下宿の二階で開かれた太良坊運座に出席する。「山賊の顔のみ明かき榾(*ほた)火かな」と詠む。選句をする。

(『朝日新聞』では振り仮名付きの活字を使用する。)

一月六日(月)、鏡に頼んでおいた押絵二枚、ハンケチ一枚届いたので、遅れたが、クリスマスの贈物として、下宿の主婦に贈る。」(荒正人、前掲書)


*「山賊の顔のみ明かき榾(ほた)火かな」(『ホトトギス』第5巻第7号4月20日発行に掲載)


1月2日

与謝野鉄幹・晶子、関西に下る。晶子は実家に泊まり、鉄幹は大阪の文学同好者新年大会に出席。

13日、婚姻届

この月、支払いのトラブルからか、伊藤文友館と発売委託を解約、「明星」は「第二明星」となり、発行所は新詩社に変わる。

1月2日

深夜、大杉栄(17)、東京に向かうべく新発田を出発。行きのため、この日の夕方、北越線の新潟駅に着く。

3日頃、上京

文学をやりたいとの願いは反対されたが、外国語学校でフランス語を学ぶということで上京を許される。牛込区矢来町の四畳半の部屋に下宿。受験準備のため、神田区猿楽町の予備校・東京学院中学校五年級受験科に入る。夜は、牛込区箪笥町の安藤忠義(陸軍大学仏語教授)らの仏語学校に通う。

「僕は東京に着く早々、何もかも忘れて昼夜ただ夢中になって勉強していた。が、何よりも僕は、僕にとってのこの最初の自由な生活を楽しんだ。直ぐ向いには監督であり保証人である大尉がいるのだが、これはごくお人好の老人で、一度でも僕の室をのぞきに来るでもなし、訓戒らしいことを云うのでもなし、また僕の生活について何一つ聞いてみるというのでもなかった。僕は全く自由に、ただ僕の考えだけで思うままに行動すればよかった。

東京学院にはいったのも、またフランス語学校にはいったのも、僕は自分一人できめた。そして大尉や父には、ただ報告しただけだった。僕が自分の生活や行動を自分一人だけで勝手にきめたのは、これが始めてであり、そしてその後もずっとこの習慣に従って行った。というよりもむしろ、だんだんそれを増長させて行った。

僕は幼年学校で、まだほんの子供の時の、学校の先生からも遁れ、父や母の日からも遁れて、終日練兵場で遊び暮らした新発田の自由な空気を思った。その自由がいま完全に得られたのだ。」(自叙伝-新生活二)

「東京学院の先生は、生徒が覚えようと覚えまいとそんなことにはちっともかまわずに、ただその教えることだけを教えて行けばいいという風だった。出席しようとしまいと、教授時間中にはいって行こうと出て行こうと、居眠りしていようと話していようと、そんなことは先生には何んの関係もなかった。一時間の間、膝にちゃんと手をおいて不動の姿勢のまま瞬き一つせず、先生の顔をにらめている幼年学校と較べれば、まるで違った世界だった。僕はただ僕自身にだけ責任を持てばよかったのだ。そして僕はこの自由を楽しみながら、僕自身への責任である勉強にだけただ夢中になっていた。(同前)


1月4日

マルタ、新税と、イタリア語から英語への公用語変更に対して抗議運動。

1月5日

伊藤元老、ロンドン出発。

1月7日

西太后と光緒帝ら、西安から北京宮殿到着。保定~北京150kmは列車22両で移動。

1月7日

住井すゑ、誕生。

1月10日

廈門対岸のコロンス(鼓浪嶼)に共同租界設置。


つづく

映像:判事も「仰天」、トランプ氏の出生地主義廃止に米連邦地裁が差し止め命令 「明らかに違憲」(ロイター) / トランプ氏による出生地主義の制限は「違憲」 大統領令を差し止め(朝日); 米国で生まれた子どもにほぼ無条件で米国籍を与える「出生地主義」を大幅に制限するトランプ大統領の大統領令をめぐり、ワシントン州の連邦地裁は23日、「違憲」だとして差し止めを命じた。 / トランプ氏、米国籍の「出生地主義」大幅制限の大統領令 即座に提訴(朝日)      

着払いで健康食品送り付け、保険申込み…百条委員会・丸尾まき議員が明かす壮絶な“嫌がらせ被害”(女性自身) / 東国原英夫氏、SNSで事実と異なる投稿で「ゴゴスマ」出演見合わせ(スポーツ報知) / 「奥さんは立花氏の脅しに怯えて錯乱状態だった」亡くなった元兵庫県議・竹内英明氏が最後にこぼした「しんどいわ」の真相とは(文春オンライン) / 竹内さん「もういいですわ。しんどいから何もしませんわ」 『(警察から)「動画撮れ」と言われた、撮るのが怖いです』とLINE / 兵庫 百条委の竹内英明元県議死亡“SNSで拡散の逮捕予定は事実無根”県警本部長 N党 立花氏が謝罪(NHK) / 「立花を野放しにしてきた兵庫県警と支持するネット民と、どう見ても利用規約違反なのに発信の場を与え続けてきたプラットフォーム事業者すべてが重い責任を負うべき。少なくともこの自死は防げた。」(津田大介) / 立花孝志氏「逮捕が怖くて命絶った」と投稿も兵庫県警は完全否定 竹内元兵庫県議の死亡 ; 兵庫県警の捜査関係者は、産経新聞の取材に対し「竹内氏に対して任意の事情聴取もしていないし、逮捕の予定もなかった」と、立花氏の発言を否定した。(産経) / 「竹内議員は百条委員会で数々の疑惑が指摘されていた事も事実。警察から事情聴取もされていたと聞く」と根拠のないデマ(死者への名誉棄損)を撒きちらす東国原 ← さすがにこのデマ拡散を削除したみたい。      

 

 

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2025年1月23日木曜日

【トランプ2.0】「少数の金持ちによる少数の金持ちのための政治」の時代がやってきた(ニューズウィーク日本版) / 【ビッグテックに新「フレネミー時代」が到来】 トランプ政権2.0の始まりは、米巨大IT企業に新たな「フレネミー(友人を装う敵)時代」の幕開けを告げています。【WSJ発】 / バーニー・サンダース 「オルガルヒ~寡頭政治..... トランプ就任式ではアメリカで最も裕福な三人が彼の背後に鎮座してるのだから、億万長者階級が政府を支配していることは一目瞭然。.....」 / トランプ政権は90年代のロシアのようだと(小泉悠)       

【社説】トランプ大統領、暗号資産長者に(WSJ); 「$TRUMP」の20%が暗号資産交換業者を介して取引可能だ。残りの80%(22日夜の時点で時価総額314億ドル相当)はトランプ一族が経営するトランプ・オーガニゼーションの関連企業が保有しており、3年間の移転制限期間が適用されている / トランプ氏のミームコイン発行、暗号資産業界に動揺 懸命に築いた業界の信頼性が損なわれることを懸念する声も ; トランプ氏の最も熱烈な支持者たちでさえ、仮想通貨「$TRUMP」販売開始から48時間足らずで「$MELANIA」が発行されると我慢の限界に達した。— ウォール・ストリート・ジャーナル日本版(有料記事)

「MAGAおばあちゃん」(1月6日の為に服役)は、トランプの恩赦を拒否。「私は法律を犯しました。私は被害者ではありません。もし私が恩赦を受けたら、その日私がしたことは正しかったというメッセージになります。その日私は間違っていました」 / トランプ米大統領が、2021年1月6日の米議会議事堂襲撃事件で起訴された支持者ら約1600人に恩赦を与えたことは、暴徒と戦った警察官や一部の議員から批判を受けた。(ロイター) / トランプ氏、支持率47%で2期目開始 議事堂襲撃の恩赦は不評=調査(ロイター) / 記者:警察官への暴行は決して許されないと思いませんか? トランプ:もちろん 記者: 議会襲撃犯は警察官を襲いました。なぜあなたは彼らを恩赦するんですか? トランプ:ああ、わからない( Well, I don't know)   

 

【コラム】トランプ政権の政策、インフレや景気減速を招く-ダドリー — TBS CROSS DIG with Bloomberg

米沿岸警備隊司令官を解任 トランプ政権、多様性重視理由に | 2025/1/22 - 共同通信 ; トランプ米政権は21日、沿岸警備隊のリンダ・フェーガン司令官を解任した。理由の一つで多様性・公平性・包括性(DEI)を「過度に重視した」とした。

大杉栄とその時代年表(384) 1902(明治35)年 〈日本最初の中国留学生のための日本語学校弘文学院創立と中国人留学生〉(2) 日本留学ブーム 中国人留学生の容貌:黄興、魯迅 前田家の崩壊(漱石『草枕』の舞台)   

 

黄興

大杉栄とその時代年表(383) 1902(明治35)年 軍備拡張・植民地経営・殖産興業を軸とする「戦後経営」による財政膨張。増税。 日本最初の中国留学生のための日本語学校・弘文学院創立 清国留学生会館設立 中国共産党創設メンバ13人中、日本留学生4人 より続く

1902(明治35)年

この年

〈日本最初の中国留学生のための日本語学校弘文学院創立と中国人留学生〉(2)

日本留学ブーム

弘文学院が開校したこの年(明治35年、1902年)、日本には清国人留学生が合計500名(600名とも)いた。翌年には千人、1904年(明治37年)には1,300名になった。1905五(明治38)年に日本が日露戦争に勝利したことと、同年に清国で科挙制度が廃止されたことから、日本留学ブームに一気に火が付き、同年は約8千名、翌1906六(明治39)年には約1万2千名に急増した。立身出世に不可欠な資格であった「科挙」試験がなくなったことで、今後は海外留学を立身出世の資格とみなし、「洋科挙」と呼ぶ者もいたほど。

留学生の動向としては、まず東京にできた日本語学校に入学して半年から一年間ほど日本語を学び、その後、早稲田、法政、慶應などの東京を中心とした私学を目指すのが一般的だった。東京や九州、京都、東北、北海道などの帝国大学へ入学するには、まず難関の高等学校に入学しなければならず、合格者はごく限られていた。その点、私学には短期育成の「清国留学生部」や「専門部」が特設され、1、2年だけ学んで帰ろうという学生の受け皿になった。私学の「本科」へ正式入学するには勉強に専念しなければならず、進学したのは全留学生総数の半分にも満たない。その他、軍事教育を専門に行う振武学校や成城学校もあり、軍事教練と基礎教育を受けた後、試験を受けて陸軍士官学校へ進学するのだが、難関の試験に合格する者はほんのひと握り。


中国人留学生の容貌1:黄興

辛亥革命では十度の熾烈な戦いの最前線で指揮を執り、同志たちの信頼はすこぶる篤かった。辛亥革命が成功して中華民国臨時政府が樹立すると、請われて陸軍総長に就任した。

黄興は湖南省出身、1874年に名門の家に生まれ、名を軫、号を克強という。19歳で科挙の試験に合格して「秀才」の称号を得て、湖広総督の張之洞の設立した両湖書院で学び、外国人教師のティモシー・リチャードの西洋近代史の講義を受けて、革命の志を立てたという。

1902(明治35)年。28歳のときに、湖北省派遣の官費留学生10名のうちの一人として来日し、清国留学生のための日本語学校、弘文学院速成師範科の第一期生になった。

但し、黄興の留学は「一時避難」の意味合いが強かった。清国では1900年の義和団事変で清朝政府が惨敗し、欧米列国に対する巨額の賠償金を抱え込んで、国力は衰退の一途を辿っていた。古色蒼然とした清朝政府に業を煮やした開明派の官僚や知識人は政治改革を模索し、激した青年たちは政府転覆を図って全国各地で暴動を企てた。

黄興の出身地・湖南省でも、秀才で有名な唐才常が清朝政府から独立することを主張して「自立軍」を組織し、武装蜂起を企てたが失敗し、唐才常は処刑された。唐才常に呼応して蜂起しようとした黄興は機を逸し、再起を図って準備する間、しばらく日本で新知識でも得ようと来日したのである。

しかし、弘文学院は設立したばかりで、教育方針も経営方法も手探りの状態だった。清国留学生たちは日本の風俗習慣に戸惑い、授業のカリキュラムや寄宿舎生活にも不満を募らせた。学校側と折衝したものの話し合いはつかず、ついに怒った学生たちは授業をボイコットして宿舎から立ち退くという「退学事件」が起こったりもした。

そもそも黄興は、日本語の勉強どころではなく、日本で知り合った宋教仁ら、同郷の留学生たちを集めて再起を誓い合い、1903年に帰国すると、湖南省で「華興会」を結成して長沙蜂起を画策した。しかし決起直前に情報が洩れて、失敗。黄興は再び日本へ亡命する羽目になった。

中国人留学生の容貌2:魯迅

魯迅(本名周樹人)は、1881年、浙江省紹興府(現、紹興市)で生まれた。3人兄弟の長男で、実家は地元の名士として知られる高級官僚の家系だったが、祖父の代に没落し、父も病没して家産が傾いた。そのため魯迅は少年時代から家長としての自覚に目覚めたようだ。

日本へ来たのは1902(明治35)年3月、21歳のときに官費留学生として同期生5人とともに来日し、弘文学院に入学した。魯迅はここで日本語以外に数学や英語、物理、化学など、清国にはない近代科目を2年間学んだ後に、仙台の医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)へ推薦入学した。そこで出会った生物学の指導教官だった藤野教授をモデルにした小説『藤野先生』は有名。

しかし、僅か1年半で仙台の医学専門学校を退学してしまう。その理由について、魯迅は『藤野先生』の中で、授業の合間に日露戦争の戦況を知らせる幻燈を見たとき、ロシア兵が清国人スパイを処刑する場面があり、物見高い清国の人々が薄ら笑いを浮かべて見物していたことに衝撃を受けて、近代医学で身体だけ治療しても、精神面から教育しなければ、決して中国人は救済できないと知ったと、書いている。これは後付けの理屈らしく、後にしばしば医学を捨てた理由を尋ねられ、簡潔に説明したかったというのが本音のようだ。刺激の少ない仙台の生活に寂しさが募り、活気のある東京へ戻りたかったのではないか。

彼はもともと文芸に強い関心があり、来日当初から留学生たちの発行する雑誌に寄稿したり翻訳したりしていた。当時の東京が新興メディア都市として急成長していく中で、情報にあふれた大都会は刺激的で、最新の文芸に触れる機会も多かったのである。


この年

前田家の崩壊(漱石『草枕』の舞台)

前田家の財産を巡る争いは明治26~27年頃に始まる。

当主前田案山子の引退後、前田家はどうするのか?。案山子が隠居して家督を譲れば、前田家の財産はすべて長男下学のものになる。下学はその常識を主張した。

一方、長女の卓は、他の兄弟姉妹にも分け与えるべきだと主張した。家の財産は長兄だけが継ぐという、従来の家制度への反撥だけでなく、それ以上に妹弟を助けたい、助けなければならないという長女的体質の主張だった。

(前田案山子の末の娘は宮崎滔天の妻)

滔天が妻槌宛ての手紙で、「下学兄の話を聞けばこれにも中々尤もの処あり。また、於卓姉方の方に尤もの処あり」と書くように、どちらの理屈も通っていた。


前田家の崩壊への過程では、一時的にではあれ、財産をめぐって、親子兄弟が骨肉の争いを繰り広げた。裁判沙汰にまでなっての決着だった。裁判は長男下学と当主案山子の間で行われたが、きっかけをつくったのは長女の卓である。

卓らの父前田案山子は、維新後、小天の村民のために地租問題で奔走し、そのことから自由民権運動や国会開設運動へと向かい、第一回衆議院選挙で選ばれて国会議員となった。そしてその議員生活は一期で終え、地租問題の全面解決を見とどけて、明治26年(1893年)に政治活動から身を引く。その間、膨大な活動費用を蕩尽したであろうことは、容易に想像がつく。

そして、火災、明治34年12月24日

11月、案山子は下学に家督を譲り、完全に隠居していた。その時、財産分けについて、何らかの妥協があったようだ。しかし本邸は焼失し、財産は大きく目減りした。そこで話がこじれたのだろう。

この本邸焼失をきっかけに、財産分与問題は裁判に持ち込まれる。名家のお家騒動に、熊本の法曹界の気鋭が関わったとされる。けれどもなかなか決着がつかず、最終的には県知事が乗り出して、十分割案で収まった。十分の六を下学と清人の遺族が受け継ぎ、残り十分の四を、卓、槌、行蔵、九二四郎、寛之助、利鎌の六人が平等に分けて分家とした。そして漱石も訪ねた本邸、『草枕』に「蜜柑山に建つ立派な白壁の家」と書かれた家は、二度と再建されなかった。

このお家騒動について、二つの記録がある。一つは下学の長男学太郎が書き残した記録で、もう一つは、案山子の甥前田金儀の「明治三十五年 雑録」だ。学太郎は当然下学の立場に立っており、金儀の場合は案山子らにぴたりと寄り添っている。

学太郎の記録は、死の床の枕の下から発見された「遺稿」である。B5割のノートに、その生涯で心に残った事々を書き留めたもので、その中に「(十六)お家騒動」の題で2ページ余りが書き記されている。学太郎は、清人の入院以来、父親の名代として東京から小天に来ており、いわばこの騒動の当事者の一人だった。本邸焼失後も、焼け跡の蔵の二階に寝泊まりしながら、騒動の行方を見守ることになった。

「此の不祥事は自分の脳裏に深く刻み込まれ忘れ得ざるところなるも、記して何ら益するものに非ざれば略す」と、苦渋のほどを雷いている。書きたいことは山ほどあったが、今さら始まらないと、頻末だけを簡単に記した。

「本宅全焼に先立ち、父が家督相続をしたにつけお家騒動が起こった」という書き出しで始まるその文章は、その発端と経過と結論を簡潔に、生々しく伝える内容だ。まず発端については、「予て快からず思っていた父母〔下学夫妻〕に、お卓伯母さん達のこと故、兄弟達を疎外するに違いないと、〔略〕お祖父さん〔案山子〕を口説き落とし、お卓伯母さん達兄弟が隠居取り消しの訴訟を起こしたのが始まり」という。つまり、学太郎の両親と卓ら妹弟はかねて仲が悪かったこと、そして、家督を譲ったことで自分たちが疎外されると思い込んだ卓らが、案山子を説得し、その相続を取り消す訴訟を起こしたというのだ。その争いは、小作人も巻き込んで三年余り続いた。「祖父方は小作米を差し押さえ、行蔵九二四郎の両伯父は、夜中大刀を腰にして小作人住宅の周囲を徘徊して威圧する狂態を演じた」という。"

一方、前田金儀の「雑録」は、明治35年正月明けからの、裁判の流れを追った日記で、案山子側と下学側の要求ややりとりを詳しく書いている。

金儀に田尻東平、田尻準次、田尻於菟来馬ら親戚と、行蔵、九二四郎が、一団となって案山子のもとにかけつけた。彼らは小天と熊本を何度も往復し、宿に泊まって、毎日のように下学と交渉したり、弁護士との打ち合わせを行い、裁判所に書類を提出した。卓もときおり連絡に熊本まで出かけた。こうした行動はすべて案山子の指示で行われ、「案山子様」という呼び名が何度も出てくる。そのさまはまさに陣を張り、戦をするといったおもむきで、裁判所に書類を提出したことを、「本日いよいよ開戦の矢を放てり」などと、いきましい。

しかしその一方でこの記録には、矢を放つことになった苦衷を案山子が和歌に詠んだり、母キヨが号泣したという記述もある。その争いは、下学の家長としてのプライドと常識に対し、妹弟は長男の付属物ではないとする卓の主張から始まった。その主張に案山子も弟や妹たちも、周囲の親戚も賛同した。卓の激しい気性が引き起こしたのである。

そして最終的には、「裁判長検事の調停で」、「不動産を父が五分五厘祖父が四分五厘に分割する条件で成立」したと、学太郎は書く。当時の不動産は、「政治運動に失われて半減したといわれながらも未だ四十町歩ほどあった」という。その宅地、田、畑、山林などの一つ一つを五・五と四・五で分け、さらに不動産以外の書画骨董などの財産をふくめての最終的な分割が、下学六、案山子らが四ということになった。学太郎によれば、卓たちの側が書画骨董を多く取ったとされる。それにしても学太郎が嘆くのは、そこまで両者の間がこじれたことであり、この3年間の訴訟沙汰で、さらに財産をなくしたということだ。「双方三年間に費やしたる莫大の費用は逆に没落の悲運を招いた。行きがかりとはいえ是ほどの愚挙を祖父も父もどうして気づかなかったろう」と。

「愚挙」ではあっても、なさねばならなかった。それが前田家一族の姿なのだろう。卓だけでなく、下学も他の妹弟も、そうした愚直とも言える熱い血を案山子から受け継いだのだ。その気性には、家産を守るために、妥協し我慢するなどという言葉はない。たとえ家産をなくしても、自分が正しいと思うことにしたがって疾走せずにはいられないのである。


けれども、彼らがこの争いをいつまでも引きずらなかったことに救われる。なぜなら、それからほんの数年後、卓が中国同盟会の民報社で働くようになると、下学もその協力者の一人として再び登場する。男まきりだが、さっぱりした気性の持ち主だった卓は、「兄さん協力してよ」と、屈託なく声をかけたのだろう。晩年の卓、槌、九二四郎らが、下学の家と盛んに行き来していたことは、前田裕子さんの証言で明らかである。佑子さんの父学太郎と卓は、姉弟のように遠慮のない口をきき合ったという。表面的にはそこになんのわだかまりも見られなかった。屈託があったにしでも学太郎は、老いた卓を暖かく迎えたのだ。

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)より


マスク氏、AI投資計画を疑問視 トランプ氏発表、ソフトバンクG出資(時事); 実業家のマスク氏は、トランプ米大統領が発表したソフトバンクグループ(SBG)などによる人工知能(AI)関連投資計画について、「彼らは金を持っていない」と資金確保を疑問視する見解を示しました。 マスク氏はトランプ氏の「側近」となっており、同氏の発表に公然と疑問を呈するのは異例。   

 

パリ協定再離脱、米石油・ガス業界は反対 トランプ政権と異例の不協和音(ロイター)

 

「人々の尊厳を尊重し、誠実さ、謙虚さ、そして優しさを呼びかけるメッセージが共感を呼んでいるなら、それはありがたいこと。ただ、一部の人々から激しい非難を引き起こしていることには悲しみを感じます。」 / 今朝、トランプ大統領はワシントン国立大聖堂の礼拝に列席したが、聖公会のマリアン・E・バッディ主教から直接、昨日彼が署名したビザ無し移民強制退去やLGBT否定について「彼らは犯罪者ではありません」「納税している労働者です」「子どもたちは怯えています」と「慈悲」を求められた。(町山智浩) / トランプ氏、移民らへの慈悲訴えた司教に謝罪要求 「陰険」と非難(AFPBB)      


〈ツイート全文〉

 トランプの就任礼拝にて、トランプが最大のダーゲットとしているトランスジェンダーと滞在資格を持たない移民について、司教が勇気ある説教。

「民主党、共和党、無所属の家庭には、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーの子供たちがいます。命の危険を感じる人もいます」

「農場で収穫をし、オフィスビルを清掃し、養鶏場や食肉加工工場で働き、レストランで私たちが食べた後に皿洗いをし、病院で夜勤をする人々は、市民権を持っていないかもしれないし、適切な書類を持っていないかもしれません」

「移民の大半は犯罪者ではありません。彼らは税金を納め、良き隣人です。私たちの教会やモスク、シナゴーグの誠実なメンバーでもあります」



2025年1月22日水曜日

トランプ氏、闇サイト「シルクロード」の創設者に恩赦 13年に逮捕で終身 ; トランプ米大統領は21日、ダークウェブ上の電子商取引サイト「シルクロード」の創設者、ロス・ウルブリヒト受刑者に恩赦を与えたと発表しました。(CNN)

大杉栄とその時代年表(383) 1902(明治35)年 軍備拡張・植民地経営・殖産興業を軸とする「戦後経営」による財政膨張。増税。 日本最初の中国留学生のための日本語学校・弘文学院創立 清国留学生会館設立 中国共産党創設メンバ13人中、日本留学生4人  

 

嘉納治五郎

大杉栄とその時代年表(382) 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ2(おわり) より続く

1902(明治35)年

この年

軍備拡張・植民地経営・殖産興業を軸とする「戦後経営」による財政膨張。増税。

この年の一般会計歳出は2億9千万円。1895(明治28)年度は8500万円、96年度は1億7千万円と増加を続ける。

この間、海軍が、第1期拡張(第9議会)・第2期拡張(第10議会)と拡張予算が成立し、拡張以前の経常費500万円がこの年は4倍以上に膨脹。

陸軍は、第2次伊藤博文内閣のとき兵力2倍増強が決定され、第1期拡張・第2期拡張予算が、第9・10両議会で承認され、経常費はこの年度には拡張以前の3倍に膨脹。

財源は、清国の償金や公債発行で一部支弁するが、増税に依拠。

第9議会(第2次伊藤内閣)で酒造税・営業税・登録税・葉煙草専売等の増徴(2500万円純増)、第13議会(第2次山県有朋内閣)で地租増徴・地価修正・酒造税・醤油税・郵便料値上げ等による増徴(3500万円純増)、第15議会(第4次伊藤政友会内閣)で酒造税・麦酒税・砂糖消費税等の増徴(300万円純増)という増税が、藩閥と既成政党の連携によっで進められる。


この年の頃

油絵の普及

「・・・・・上野の画材屋「払雲堂」主人、浅尾丁策は、先代金四郎の思い出をつぎのように記している。


当時金四郎を何かにつけて可愛がってくれた太田六痴と言う書家があった。(中略)「オイ金さん、(中略)近頃日本の絵描きが西洋の油絵を真似てかくのがだいぶ流行ってきたようだ。ところが油絵と言うやつは、聞くところによると、絵の具はとてもネバネパしていて今までの日本筆ではどうにも具合がわるく困っているらしい。そこでダ、君は何でも工夫するのが好きな性質だから、どうだい、一番油絵筆をやってみないか」といった。

(浅尾丁策『谷中人物叢話 金四郎三代記』芸術新聞社・一九八六)


明治三十五年ごろの話で、金四郎はそれから豚の毛をもとめて鎌倉ハムの工場をおとずれた。・・・・・」(宇佐美承『池袋モンパルナス』)

〈日本最初の中国留学生のための日本語学校弘文学院創立と中国人留学生〉

弘文学院の開校

前年(明治34年、1901年)、新たに警務学堂から26名の留学生が送られることになり、嘉納治五郎(京高等師範学校長)が場所を探した結果、牛込区西五軒町三十四番地(現、新宿区西五軒町十二、十三番)の大邸宅を借りることができた。総面積は約3千坪。敷地内には樹木が生い茂り、敷石を配した日本庭園があった。その中に122坪の木造平屋建ての校舎1棟と大小さまざまな12棟の建物が点在していた。開校期日に間に合わせるため、急きょ神田在住の富豪の山崎武兵衛が所有する大邸宅を丸ごと借り受けた。

名前は、嘉納がかつて開講していた私塾「弘文館」(明治15年3月頃の開校)からとって、「弘文学院」とした。準備が整うと、嘉納は外務大臣小村寿太郎(当時)と相談の後、正規の教育機関として東京府へ認可申請を行い、この年、正式認可が下りるのと同時に、弘文学院を開校した。

弘文学院の第一期生には、鉱務鉄路学堂の卒業生5人とともに入学した魯迅がいる。湖南師範学校の教員だった黄興も在籍し、弘文学院で宋教仁、陳天華ら湖南出身者数名と知り合い、帰国後に革命結社「華興会」を組織することを相談した。『新青年』を発行して新文化運動を提唱し、五四運動の火付け役となった陳独秀も、短期間だが同校にいた時期がある。また、1921年の中国共産党第1回全国代表大会の参加者のひとり、李漢俊の兄である李書城も、同校に学んだ。李書城は後に孫文・国民政府の高級軍人になった人だが、毛沢東も参加した中国共産党第1回全国代表大会の開催地は、李書城の上海の邸宅である。その他にも多くの留学生が中国革命に携わっている。横浜華僑の文学者で後に僧侶になった蘇曼殊の従兄・蘇維翰も一期生である。

清国留学生会館

清国留学生会館は、1902(明治35)年、駐日清国公使の肝いりで設立された。住所は、駿河台鈴木町十八番地(現、神田駿河台二丁目三番地)。間口5間(約9m)、奥行き10間(約18m)ほどの小さな二階建ての木造家屋で、間取りは、一階に売店兼事務室、ラウンジ、会議室があり、二階のいくつかの小部屋では日本語の補習などを行っていた。留学生たちはラウンジで中国語の新聞を読んだり、雑談に興じたり、同郷者同士の会合を開いたりと、便利に使っていた。

魯迅は、小説『藤野先生』のなかで、清国留学生会館について書いている。


「中国留学生会館の門衛室ではちょっとした本が手に入ったので、ときどき顔を出してみるだけのことはあった。午前中なら、奥のいくつかの洋間で休むこともできた。だが、夕方になると、あるひと間の床がきまってドスンドスンと鳴り出し、そのうえ部屋中にもうもうたる埃が立ちこめるのである。消息通に尋ねてみると、「なあに、ダンスの練習をやっているんですよ」とのことだった。」


留学生の中には、東京で流行っていたダンスホールへ入り浸ったり、日本人女性との恋愛に熱中して本国送還になる者もいて、そうした処分は清国留学生会館の掲示板に張り出された。

1903(明治36)年、東京で、清国政府から派遣された駐日学生監督の姚煜(よういく)が、女子留学生にセクハラを働いたことが発覚した。

留学生たちはみな怒り、なかでも弘文学院に在籍していた陳独秀や張継ら、5人の革命派の者たちは公使館へ押しかけて、ナイフをチラつかせて姚煜を脅した。姚煜は跪いて命乞いをしたが、5人は彼の辮髪を切り落とし、意気揚々と引き上げ、清国留学生会館のラウンジの壁に「これは姚煜の辮髪である」という張り紙を付けて吊りさげた。

プライドの象徴であった辮髪を失った学生監督は、五人を「不良学生」として日本政府に強制送還の処分を要請し、自分も人知れず本国へ帰還してしまった。当時の清国では、性犯罪者が逮捕されると「斬髪の刑」に処せられたため、辮髪のない姿で街中を歩くと、それを見た人々から嘲り笑われるのが常であった。姚煜も恥ずかしくて東京にいられなかったのだろう。

中国共産党創設メンバと日本留学生

1921(大正10)年に第1回全国代表大会を開いて中国共産党を立ち上げたメンバーは13人(平均年齢27.8歳)いたが、全員が大学卒か在学中の男性であり、日本留学生が4人いた。

日本留学組の四人は、①東京の第一高等学校に在学中の李達、②法政大学を卒業直前の董必武、③鹿児島の第七高等学校を卒業して京都大学へ進学が決まっていた周佛海、④東京大学土木工学科卒業の李漢俊である。

残りの9人は、⑤⓺北京大学在学中の張国燾と劉仁静、⑦北京大学卒業の陳公博、⑧9済南の高校生の王尽美と鄧恩明、⑩毛沢東、⑪何叔衡、⑫包恵僧、⑬陳潭秋の4人は各地の高等師範学校の卒業生。

日本留学について言えば、この13人から「おやじ」と慕われたリーダーの陳独秀は、日本へ5回も短期留学して斬新な思想を吸収したし、「兄貴分」でサブ・リーダーの役目を果たした李大釗は、早稲田大学を卒業後、北京大学教授に就任して間がなかった。

要するに、中国共産党の創設時のメンバーは日本と縁が深く、直接間接を問わず、当時世界で流行していた社会主義思想を、日本から惜しみなく吸収していたのである。

日本留学組の中で異彩を放つのは湖北省出身の李漢俊で、彼は20世紀初頭には珍しい「帰国子女」であった。1902(明治35)年、李漢俊が実兄の李書城の留学に従って来日したときは14歳だった。全寮制の暁星学校に入学して6年間を過ごし、名古屋の第八高等学校を経て、1915(大正4)年に東京帝国大学土木工学科へ進学した。

つづく

トランプ大統領は、先週末に立ち上げた暗号通貨シットコインで稼いだ利益(少なくとも200億ドル)について質問されたが、トランプは隣に立っていたテクノロジー業界の億万長者数名を指して「この人たちにとっては大した金額ではない」と答えた。(町山智浩)   

 

2025年1月21日火曜日

トランプ政権がホワイトハウスの公式サイトから、女性が産む産まないを決める権利のページを削除。 / トランプ、ホワイトハウス公式サイトのスペイン語バージョンを削除。 / トランプ、難民申請アプリ「CBP One」を大統領就任と同時に廃止。すでに設定されていた面接もキャンセル。

就任式のキタンジ・ブラウン・ジャクソン最高裁判事。遠目にレースの襟飾りに見えたのはこれだった。人種の多様性をないものとするトランプへの自己表明。 / トランプが「メキシコ湾をアメリカ湾に改名する」と言ったときにヒラリー・クリントンが思わず笑った瞬間。 / トランプ大統領就任式で米国で最も裕福な3人が彼の後ろに座ると億万長者階級が今や私たちの政府を支配していることを誰もが理解します。我々は反撃しなければなりません。(バーニー・サンダース) / 米議会の公聴会であれだけ「中国のスパイ」みたいにいじめられたTikTok CEOのChew氏が、国家情報長官に指名されているキャバードと並んでトランプの宣誓式に出ている。    

 

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「レナード・ペルティエが釈放される」(ジョー・バイデンが収監中の先住民活動家レナード・ペルティエの終身刑を減刑)

 


レナード・ペルティエ (英語:Leonard Peltier、1944年9月12日-)は、アメリカインディアンの民族運動家、人権活動家。1976年以来終身状態で収監中の政治犯。アムネスティ・インターナショナルはペルティエについて「ただちに無条件で釈放すべきである」と声明を行なっている。

Wikipediaより)



大杉栄とその時代年表(382) 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ2(おわり)

 

1907年(明治40年)強制破壊後も谷中残留民は仮小屋を作り、戦いを続けた

大杉栄とその時代年表(381) 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ1 「田中翁が絶叫して『鉱毒地に憲法なし』と言ふ、吾人は其の決して詭弁に非さるを信ずるなり」 より続く

〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ2(おわり)


明治34年12月10日の田中の直訴は、木下にとっては意外で心外な事件だった。

木下は、国王を政治の圏外に置くという「立憲国共通の原則」に照らして、「帝王に向て直訴するは、量れ一面に於て帝王の直接干渉を誘導する所以」であると考えており、田中の行為を「立憲政治の為めに恐るべき一大非事」、「立憲時代の一大怪事」とみなし、田中の思想のなかに「専制時代の尊王心」、「旧式の尊王心」を認めて厳しく批判している(「社会悔悟の色」明治35年1月)。

木下は、その後も田中の直訴に対してだけは、強い嫌悪を隠さなかった。権力や権威からの個人の独立自由を生涯重んじた木下にとっては、実は文明や立憲政治の論理以前の問題として、天皇に訴えるという行為そのものが受け容れられなかった。

木下は、のちに立憲主義の思想を放棄してからも、田中の生涯を辿るさいに政党脱退、議員辞職には触れながら直訴を無視したり、直訴を「立憲時代に在りては寧ろ旧式なる軌道外の行動」と評したり、「直訴は翁の窒息だ」と断言している。晩年には、「翁の直訴と聞いて、僕は覚へず言語に尽くせぬ不快を感じた。寧ろ侮辱を感じた」「僕は翁の直訴には終始賛成することが出来なかった」とまで述べている。

木下は、田中の直訴の結果として生じた世論の強い反響のなかで、ほぼ1日おきに鉱毒地救済演説会に登壇し、12月27日の学生大挙鉱毒地視察を引率し、翌明治35年初頭の学生の路傍演説を支援し、1月6日~8日、18日、26日にも鉱毒地を訪問し、2月6日~15日は関西遊説というように、鉱毒問題解決のために東奔西走している。

1月6日~8日の鉱毒地訪問には田中が案内役を務めたが、「田中正造が、きっと敵打ちしてあげますぞッ」という被害民の前での田中の叫びとともに、越名沼辺の旅宿で就寝前に田中が洩らした「政治をやって居る間に、肝腎の人民が亡んでしまった」という独語が木下の心に強く焼きつけられた


明治35年6月、田中は前々年の川俣事件第一審における大欠伸が官吏侮辱罪に問われて40日間入獄するが、入獄の日に木下は、田中の休養と健康の恢復とを祈っている(「田中正造翁の入獄を送る」6月16日)。その獄中で新約聖書をはじめて読んだことが田中の生涯の決定的な転機となったというのが、大正昭和期の木下が終始示した見解である。

田中は、翌明治36年2月から「非戦論」ないし「世界海陸軍備全廃論」を唱えるようになるが、のちに木下はしばしばそのことに言及している。

また田中は、明治36年10月10日神田青年会館での学生歓迎会において、傍聴した木下の理解によれば「訣別演説」をしたが、そのなかで「日本一たび亡びて、聖人日本に出づ」日本の亡国および聖人の出現を予言したようであり、その予言を後年の木下は特別に重視することになる。

さらにその頃から田中は、「政治の為めに二十年、損をした」という極端な政治否定を意味する歎声をしばしば洩らすようになったという。

明治35年後半以後の田中は、第二次鉱毒調査委員会の渡良瀬川遊水池設置計画によって運動が分断され衰退するなかで、次第に孤立していった。そして日露戦争による熱狂には背を向けて、明治37年7月30日、遊水池にされる谷中村に移り住み、谷中村滅亡を阻むための困難な活動に没頭した。

一方木下は、明治35年夏の前橋での衆議院議員選挙に立候補し落選したのちも社会主義運動に奔走し、やがて日露戦争の切迫とともに非戦論を唱道して、明治37~38年の日露戦争中は平民社に依拠して非戦と社会主義との大義を叫びつづけた。後年木下は当時の自分を「若き義人」(「余が思想の一大転化と静坐の実験」明治44年11月)と呼んでいるが、その「義人」の心中では、基督の愛の思想に対する信仰が深まるとともに、社会主義が前提する文明の進歩の観念や政治運動の方法に対する疑問、神権主義の思想に束縛された日本国民の特質に対する疑問、そして自分自身の生き方に対する疑問が徐々にふくらんでいた

この時期二人の関係は次第に間遠くなったようである。

まだ明治36年には木下は、鉱毒地の子女を養育していた慈愛館の運営に関して9月8日に田中に返信を認めているし、12月6日には佐野町の下野禁酒会の演説会に田中と同行している。

しかし明治37~38年になると、二人の交渉の記録は絶無となる。その2年間木下は、鉱毒問題についても、毎日新聞社長島田三郎に宛てて「僕は足下に従て足尾鉱毒事件を絶叫したりしことを歓喜するもの也、足尾鉱毒事件ばかり資本家政治の趨勢と害毒とを日本国民に教授せる実例無ければ也」(「島田先生に呈す」明治38年2月)と社会主義の見地から過去形の発言をした以外には一切言及していない。

明治38年9月、日露戦争の終結とともに平民社が解散し、木下ら基督教社会主義者が唯物論社会主義者と分離して新紀元社を結成した。これは、木下の社会主義運動の再出発となるとともに、田中との関係再開の端緒となった(昭和4・5・31嶋田宛)。

明治39年半初め木下は、古河鉱業の副社長原敬を内務大臣とする西園寺内閣の成立を見て鉱毒問題の「埋葬」を予感し、「野に叫ぶ一巨人」田中正造に思いをはせて、「皆ンな、気を付けろよ、泥棒が這入ったぞ、泥棒が這入ったぞ」という田中の叫びを当代社会の一大警鐘としている(「鳴呼、義人の声」明治39年2月)。

4月22日、田中は新紀元社講演会に登壇して栃木県吏による谷中村堤防破壊の切迫を訴えた。久々に田中の雄弁に接した木下は、その風貌が「聖者」のように輝くのを見て、「一種の神感」に打たれている。木下は、谷中村と田中とを救おうとして、4月27日には田中とともに佐野町で演説し、翌日は谷中村を見張ったが、結局30日に谷中村堤防は破壊された。翌日木下は、「暴悪赦すへからす」とだけ書いた葉書を田中へ送っている。

当時の木下にとって谷中村問題は、日露戦後の新時代にあっては「資本家階級の利益」が政権を左右し「資本家政治」が猛威を奮うという木下の現実認識を確証するものだった。


木下は、5月22日に田中とともに古河町で演説したのち、『新紀元』誌上で、政府が法律を悪用して谷中村を圧迫する事実を例示して、「資本家政治の機関に対して、公利公益を託することの危険」を訴え、「若し斯の如くんば法律の存在は、法律の皆無なるよりも更に危険なり」と叫んでいる(「現政府暴悪の一例」明治39年6月)。

そして7月1日、ついに谷中村が藤岡町に合併されて行政上消滅したことのうちに「道義も法律も一切を蹂躙したる資本家政治、黄金万能力の勝利」を見てとるとともに、「鳴呼、鉱毒問題は亡びたり、然れ共資本家政治の大弾劾者、人道の大戦闘士田中正造は、依然銀髯を揮って其声を絶たざる也」と述べて、そのような現実と戦う田中の姿をいよいよ大きく浮かび上がらせていった(「是れ何の黙示」明治39年8月)。

さらに木下は、再び官吏侮辱罪容疑で拘引された田中を7月6日栃木町に見舞い、翌日谷中村を訪問しているし、7月19日には300円の大金を田中に寄付し、翌日田中を泊めており、8月22日にも田中とともに古河町で演説をしている。そして9月9日佐野町の演説会では田中の演説にただ拍手喝采するだけの聴衆を痛罵し、翌日田中の案内で小中村の生家を訪問している。

時系列的には前後するが、明治39年5月6日に木下の母くみが没したことを契機に、それまで矛盾分裂を深めていた木下の思想に大変動が生じた。

現実世界を愛の世界へと根本的に改革するために、正義に訴えて多数の人々を組織して権力を獲得する政治革命の道を追求していた木下は、その可能性とそれ以上にその意味とに対する疑問から、ついにその道を否定し、個々の人間が本来の霊能を発揮して直ちに人類同胞の愛の世界を実現する「人生革命」の道をもっぱら追求することに転じた。そこには、日本国民が神権主義の思想に深く束縛されていることについての新しい認識が作用していただけでなく、明治30年代の木下を行為へと駆りたてていた超越的な神観念がついに消滅した結果、木下自身が自己の権力欲に直面して内的に挫折したことが作用していた。このときから木下は、「義人」の生き方を棄てて「聖者」への道を歩みはじめた。そしてそのとき木下は、強い自己否定の衝動に駆られて、過去の自分を事実以上に否定的にいわば「山師」として理解したということもできる。そこで木下は、一切の罪過を臓悔して過去の生活から脱却することを決意して、谷中村から帰京した翌日の7月9日にそのことを石川三四郎に告白し、7月10日にその告白をはじめて記した(「告白をもて序に代ふ」)。そして7月末日に毎日新聞社を退職し、小中村訪問翌日の9月11日に幸徳秋水ら社会主義者と訣別し、10月9日に新紀元社を解散して、10月31日には伊香保の山中にこもってしまった「人の世が政治的に救はれ得るものと思って居たことの浅劣を、今更ら漸塊に耐へない」とは、伊香保山中最初の著作『懺悔』(明治39年12月)の一節である。

そのように思想を変化させた木下にとって、田中正造は極めて大きな存在として現れていた。

小中村訪問記「義人の村」のなかで木下は、8年間の新聞記者生活を振り返って「革命の真個の生命を僕に教訓して呉れたものは実に足尾鉱毒問題である」と述べたうえで、「僕は今ま新聞の泡沫事業から脱して、始めて稍々永遠なる人生革命の意義を沈思し、其の前途の微光を認むることが出来たように感ずるのであるが、翻って田中翁を見る時に、僕は実に其の驚くべき発展、其の聖化に満腹の畏敬の情を捧げない訳にはならぬのである」と告白しており、真個の革命とされる「人生革命」の模範として田中を位置づけている。

そしてそこには田中の生涯についての木下独特の理解の一端がはじめて示されており、8年前の田中は「一個政治家の翁」であり「権謀術数の好策士」だったが、間もなく政党を脱し議会を捨て「不羈独立自由自在なる一個の平民」となって「国家の暴悪の弾劾」に着手した、つまり「翁は六十を越してから始めて勇健なる奮闘の新生涯に入った」、そして今や「詩語」を発し「活きたる宗教」を蔵する田中はまさに「一個の予言者」であるとされている。田中が「政治家」をやめて「予言者」としての「新生涯」に入ったというその理解は、木下が政治革命を否定して「人生革命」を追求するようになったそのときはじめて抱かれたものだった。


おわり


2025年1月20日月曜日

自宅近くの梅、どんどん開花中 2025-01-20

 1月20日(月)朝のうち雨、のち晴れ

今日は大寒。でも全国的に3月並みの陽気。

自宅近くの梅、どんどん開花中。

他にも経験的に見て早咲きの梅があるのだが、そこはまだ固い蕾。

インスタグラムでも、ここまで開花している梅をアップしている方はいない様子。特異な例なのだろうか?







大杉栄とその時代年表(381) 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ1 「田中翁が絶叫して『鉱毒地に憲法なし』と言ふ、吾人は其の決して詭弁に非さるを信ずるなり」

1901年の木下(中央)。向かって右隣は片山潜、左隣は幸徳秋水で、左端は安部磯雄。

大杉栄とその時代年表(380) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ4(おわり) より続く

 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ1


「木下尚江(一八六九-一九三七年)は、明治三十年代にいわば基督教社会主義者としてめざましい社会的活動を展開したが、明治四十年代にはその生き方を大きく変え、大正昭和期にはおおむね沈黙を守って深い宗教的思索に沈潜した。その間田中正造とは明治三十三年に相知り、社会主義運動を離れた明治三十九年以後深く親しみ、大正二年の臨終を看取っている。そして大正昭和期にわずかに発表した著作では、ほとんどもっぱら田中正造について語っている。その木下尚江にとって田中正造はどのような意味をもっていたのかをこれから考えたい。そのばあい木下の田中正造理解は、木下自身の思想が変化するとともに推移しているので、木下の思想の軌跡を明らかにしなければ、木下尚江にとっての田中正造の意味も考えられないだろう。そこでこの稿では、木下の思想の軌跡に注目しながら、彼の田中正造理解の推移を辿っていく。」

「木下が田中の生涯について独特の理解を示したことはよく知られている。その理解によれば、田中の生涯は明治三十四年の直訴によって二分され、明治四十年の谷中村強制破壊によってさらに区分される。そして直訴までの田中は「義人」ないし層「政治家」であり、その後の田中は「予言者」、とくに谷中村破壊後は「聖者」であるとみなされる。」

「さて、これから木下の田中正造理解の推移を追跡していくに当って、いくつかの田中の言葉に予め注意しておきたい。それらは主に政治観をめぐるものであり、木下が田中を理解するうえで鍵としたものである。」


「田中が生涯叫つづけた「憲法擁護」の発言。自由民権運動によってともかく憲法を獲得した田中は、生涯にわたって憲法を尊重しつづけたが、一時期の木下は、およそ法律を単なる外面的強制としてしか理解しなかったという対照がある。」

「明治三十五年の田中の「政治をやって居る間に、肝腎の人民が亡んでしまった」という独語。」

「明治三十六年以後の田中の「政治の工めに二十年、損をした」という歎声。」

「社会を導かないで「独り聖人となる」ことを批判した明治四十二年の田中の聖人論。」

「隠者として「山に入りて仙となる」ことを批判した明治四十三年の田中の仙人論。これらは明治四十年代の木下の政治観や生き方に対する批判であり.木下の受けとめ方にはやはり変化が見られる。」

「明治四十年以後の田中の「悪人と云ふものは無い」という性善説的な述懐。」

「大正二年の田中の,「悪魔を退くる力なきは其身も悪魔なればなりー茲に於て懺悔洗礼を要す」という日記絶筆。」

「明治三十三年の田中の「亡国に至るを知らざれば是れ即ち亡国」という亡国演説。」

「明治三十六年以後の田中の「世界海陸軍全廃」の提唱。」

「明治三十六年の田中の「日本一たび亡びて、聖人日本に出づ」という亡国-聖人出現の予言。」

「大正二年の臨終の日の田中の「是れからの、日本の乱れ」という憂慮。」


「これらは日本の現実についての見方と関係している。第八の言葉は、日本の亡国に対する無知を警告したものであり、議会における田中の言葉のうちで木下が最も重んじたものである。第九の言葉は、木下の生涯にわたる非戦論の思想とも重なるものであり、軍国日本の現実との鋭い緊張を孕んでいた。第十の言葉は、聖人の出現とその前の日本の亡国とを予言したものであり、大正昭和期の木下は、日本の滅亡を予感して救済者の出現を念願するようになるとともに、この言葉に思いを凝らすようになる。第十一の言葉は、やはり日本の亡国を予言したものであるが、臨終直前の田中の苦悩の表情と結びついて痛切な響きをもっていた。」

 

一 義人と義人


「この節では、明治三十年代、実際には明治三十三年から明治三十九年までの時期の田中正造と木下尚江との関係について論じる。この時期の田中正造は、足尾銅山の鉱業停止を求める大運動を指導し、憲政本党脱退、衆議院議員辞職ののち直訴を敢行したが、その後運動の衰退分裂のなかで孤立していき、谷中村に入ってその滅亡を阻むために奮闘した。木下尚江は、毎日新聞記者として政治問題や社会問題と取り組み、やがて社会主義と非戦論との運動を繰り拡げるが、ついに社会主義運動を離脱した。この時期の二人は、どもに正義に訴えて社会の現実を変えようとする「義人」だったということができる。しかし二人が訴えた正義は、一方が伝統的な村共同体の人間関係に由来する政治家の徳義であり、他方が文明の進歩を前提とする近代的な社会主義の大義だったというように、正反対のものであり、そこに二人の行き違いも生じた。」


明治20年頃、木下は栃木県会議長としての田中正造の名前を知っていた。足尾鉱毒問題についても、明治20年代に松本にいたときからその名を聞いていたが、その内容は知らなかったという。

従って、上京して毎日新聞記者となった翌年の明治33年2月、川俣事件の直後の15日~17日、渡良瀬川沿岸を調査し、20、21日に足尾銅山を視察したことが、鉱毒問題との関係の始まりだった。

木下が東京を離れていた間、田中は15日に憲政本党脱退を宣言し、17日には亡国演説をしている。

木下は、鉱毒問題の解釈を命じられたとき、まず田中に会うことも考えたが、それを止めて直接現地に向かった。当時木下は、田中が「其の罵詈悪言の余りに猛烈な為めに、予は却て鉱毒問題其物に対して、窃に疑惑を抱かぬでも無かった」という。


『毎日新聞』に発表された木下の視察報告では、木下がこの鉱毒問題に取り組んだのは、それが未解決のままでは「工業国たるべき日本」の「国運の障碍」になると考えたからだった。従って、「足尾鉱毒問題」(2月26日~3月16日)の結論は、「余は最初より我国今日の学問と技術とは、優に鉱毒予防の策を全ふして余りあることを信ずるなり」と述べて、田中らが叫んでいた「鉱業停止」の主張を斥け、ただその主張を余儀なくさせた「政府の冷淡」を攻撃している。

当時の木下は、社会の進化、文明の進歩を確信しており、経済を実業と考え、生産社会の発達をめざして農業よりも商工鉱業を擁護し、政治を聖業とみなし、憲法政治の確立を求めて専制的な藩閥政府を攻撃し、学問技術の進歩に絶大の信頼を置いていた。

それに対して田中は、憲法政治を追求していたものの、工鉱業や学問技術の発達に対して、従って文明に対して強い疑いを抱いていた。


3月、鉱毒除害工事の成績不良を事実によって示した木下の連載記事に対して礼を言うために田中が毎日新聞社を訪ねてきた。これが二人の初対面。しかし当初田中と木下との交渉は必ずしも親密なものではなかった。後年木下は、「予自身も翁に対して数々不快の念を抱いた者だ」として、毎日新聞社の卓上で意見が衝突したときの田中の猛烈な立腹ぶりを描いている。また、木下宅を夜分しばしば訪問するようになった田中についての「翁が見えると、必ず長かった」と、ある種迷惑な気持ちの表現をとっている。

その後木下は、明治33年に鉱毒問題について3、4度短い記事を執筆しただけで、もっぱら廃娼問題と星亨告発とに全力を傾注した。


しかし、翌明治34年4月22日、社会民主党創立を企てていた最中に渡良瀬川沿岸を再訪し、「日進月歩」の世にあって「時々刻々滅亡」していく鉱毒地の惨状を改めて認識し、それを顧みない政府に言及して「『政治』とは果して此の如きものか」という疑いを記している。田中については、「激怒熱罵の横道に走せて為めに静穏に事実を説明するの技能を欠ける翁」と表現をなお用いているが、「田中翁が絶叫して『鉱毒地に憲法なし』と言ふ、吾人は其の決して詭弁に非さるを信ずるなり」と述べて共感を示している(「希望と絶望」4月25日~30日)」。

「木下は、鉱毒地の深刻な惨状と田中の猛烈な奮闘とを見て、文明社会や立憲政治の現実にはわずかに疑問を抱きながらも、自分が拠って立つ文明主義立憲主義の思想をますます確信していた。」


明治34年秋から木下は、東京での川俣事件控訴審によって鉱毒問題に関する世論が喚起されるとともに、日本基督教婦人矯風会に働きかけて、11月16日に潮田千勢子らを鉱毒地に案内し、同月29日には足尾鉱毒窮民救助演説会を開催して鉱毒地婦人救済会を組織した。

そして『毎日新聞』紙上では、人為の結果としての鉱毒問題が「明治政府の罪悪史」であるだけでなく「明治社会の一罪悪史」であり、「社会と国家と共に其罪責を免れざるなり」という視点を示すようになった(「慈善と罪悪」11月13日、「最も恐るべき者」11月18日)。

そのように「政治的な責任のみでなく道徳的さらには宗教的な罪悪を問題にし、それを社会に突きつける独特の論理は、その後いよいよ鋭くなり、しかも木下自身にも向けられていくようになる。」

明治34年は、5月に社会民主党結成および禁止、6月に木下が告発した星亨の横死、11月29日の演説会の報を受けた古河市兵衛夫人の入水自殺、12月10日の田中の直訴など、木下の心に傷跡を残すこ事件があった年である。


つづく



2025年1月19日日曜日

大杉栄とその時代年表(380) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ4(おわり)

 

松本英子

大杉栄とその時代年表(379) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ3 より続く

足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ4(おわり)

6.鉱毒地救済婦人会の政治運動への旋回

1902年1月17日、『毎日新聞』に、鉱毒地救済婦人会の名で、「与古河市兵衛」「貴衆両院議員諸君に檄す」を掲載、公開質問状を突きつけた。これは、鉱毒問題が女性運動によって全国的な政治運動の色彩をより濃くしていく布石となった。

「単なる女性による一夫一婦制や廃娼運動といった家族制度や女性問題に特化した運動ではなく、矯風会が鉱毒地救済婦人会を通して、政治問題に以前よりもっと接近し、運動として全国の人々に影響力をもつ実体あるものに旋回した瞬間だった。」(山田)

檄文中に「……起てよ我同胞姉妹君等にして若鉱毒の如何に激甚なるを知らず被害地の如何に惨状なるかを視ざる人あらば一度足を被害地に容れて其荒漠たる原野と変ぜしその名状すべからざる人民の惨状を実視せよ……」とある。

「一度足を被害地に容れよという現場主義は社会福祉(慈善事業、社会事業)の起点である。現場から立ち上げた社会問題を認識し、政治運動とつらなり一般の人に訴え社会を変えていくという、現代的解釈をすれば社会事業、社会改良への道筋を示すものだった。」(山田)

潮田と松本英子は、この檄文により京橋警察署から召喚を受け、さらに、政府系の男性ジャーナリストからの誹謗中傷を受けた。

松本は動揺し、1902(明治35)年渡米、結婚、その後帰国することはなかった。また、1903年7月、潮田の病没により活動は小規模化していった36)。


「富国強兵、殖産興業の体制のなかで足尾銅山を経営する古河は政治勢力と縁戚をむすびながらさらに巨大化し、基幹産業として成長、操業を停止することはなかった。足尾鉱毒問題は治水問題にすりかえられていき,次第に矯風会の女性たちも遠のいていった。」(山田)

7.小括 

鉱毒問題における鉱毒地救済婦人会の果たした役割は大きく、それは矯風会メンバー、とりわけ潮田、矢島なくして成り立たなかった。

鉱毒問題における女性運動団体矯風会の意義についてまとめると、、、。

① 矯風会は、鉱毒地救済婦人会によって家制度や醜業婦の問題から一歩踏み出し、男性中心の社会運動と連帯した。

② 鉱毒地救済のいわば被災地支援として慈愛館と授産事業を展開したことは、単なる社会運動ではなく、慈善事業(福祉的実践)をともなう運動であった。

③ 鉱毒地の地域的貧困を東京と比較しながら、東京とは異なる地方の貧困問題、鉱毒問題(公害問題)として捉えていた。

④ 地域的貧困が女性の身売りを生み出していること、すなわち、貧困が性の搾取を生み出すことを認識し、解決の方策を講じようとした。

彼女らの社会改良の目は、貧困が女性を「醜業婦」へと向かわせ、それを是認し前提とする男性支配の社会システムへの批判へとつながっていた。打開のためには一夫一婦制の確立と廃娼、加えて、女性の経済的自立によって男性支配の社会システムを変化させることが必要であるという意識にめざめていたことを物語っている。

矯風会メンバー全員がこのジェンダーの視点をもっていたとはいえない。しかし、主要メンバーたち、とくに潮田 、矢島たちは、女性の地位向上は経済的自立によってもたらされ、それが性の自立をもたらし、平等な夫婦、男女関係を形成するものであることを深く理解していた。

彼女らは、問題の根本は鉱毒によってもたらされた地域的な貧困問題であり、その貧しさが女性を「転落」させていくことも強く認識していた。鉱毒地救済は地域的貧困の解決、女性の貧困化防止、地位向上に鮮烈につらなる運動であった。


1902年6月25日発行の『婦人新報』(p.12)掲載された「慈愛館委員会報告」に次のような記述がある。「鉱毒被害地救済委員等が被害地巡回の際、その地方に15 歳以上の娘らはすでにその両親等のために売られて一人もいなくなっていて、残っているのは少女のみだったが彼らもまた(15歳になれば)同様の運命に遭遇すべき恐れがあるので慈愛館に托した」とある。

「地域的被災による生活破壊が地域的貧困を生み、それが娘の身売りを常習化させていること、鉱毒被災地救済は地域福祉実践であり、女性福祉のための実践にほかならなかった。」(山田)

矯風会は、政治社会問題に強い興味を示し実践的に運動を展開したが、下からの運動として農民や「醜業婦」にとことん接近することができたかというとそうではない、という批判もある37)。徹底した当事者に立つ運動にはなりえなかった。彼女らが夫の暴力や離別、死別女性として苦労していたとはえ、そして没落士族とはいえ、とにかく、高度な教育をうけ、都会的な生活スタイルを身に付けた女性たちであり、また、矯風会メンバーには、貴族の子女も多く含まれていて、当時の徹底的に異なる階層や地位にある農民や低所得層や「醜業婦」にならざるを得ない女性たちのおかれた状況を真に理解できたか、というと必ずしもそうではない。

その時代的限定性とともに慈善事業の限界について慈愛館と現地授産場の実態からさらに明らかにする必要があるだろう。女性運動が超えられなかった階層性について、さらに言及すべきであるが、紙面も尽きたので、これについては次号にゆずる。

36)竹見智恵子「時代を描き、時代を越えたルポルタージュ-「鉱毒地の惨状」解題にかえて」『田中正造の世界』1986年1月、谷中村出版社

37)雑録「慈愛館」『六合雑誌』250 号pp.61-64(明治34年10月発行)で、慈愛館取材記事が無記名の男性記者によって掲載されているが、慈愛館の職員の接遇について差別的であると批判的に書いている。


〈主な参考文献〉

鹿野正直編著『足尾鉱毒事件研究』三一書房、1974年

阿部玲子「足尾鉱毒問題と潮田千勢子」『歴史評論』No.347、1979年3月号

田村紀雄『渡良瀬の思想史―住民運動の原型と展開』風媒社、1977 年

『田中正造とその時代』青山館 vol.1-4 1981 年11月、1982年春、1982年秋、1983年夏

一番ヶ瀬康子「潮田千勢子」『社会事業に生きた女性たち』ドメス出版1980年

田村紀雄『明治両毛の山鳴り―民衆言論の社会史』百人社、1981年

東海林吉郎・菅井益郎『通史足尾鉱毒事件1877 -1984』新曜社、1984年

『田中正造の世界』谷中村出版社、1986年1月

日本キリスト教婦人矯風会編『日本キリスト教婦人矯風会百年史』ドメス出版1986年

日本キリスト教婦人矯風会『婦人新報』(復刻版)不二出版、1986年

田村紀雄編『私にとっての田中正造』総合労働研究所、1987年

婦女新聞社『婦女新聞』(復刻版)不二出版、1982年

木下尚江『木下尚江全集』第一巻 教文館 1990年

田村紀雄・志村章子共編『語りつぐ田中正造―先駆のエコロジスト』社会評論社 1991年

尾辻紀子『近代看護への道―大関和の生涯』新人物往来社 1996年

田村紀雄『田中正造をめぐる言論思想―足尾鉱毒問題の情報化プロセス』社会評論社、1998年

田村紀雄『川俣事件―足尾鉱毒をめぐる渡良瀬沿岸誌』社会評論社 2000年

飯島伸子編著『公害・労災・職業病年表( 新版)』すいれん舎 2007年


おわり


2025年1月18日土曜日

予想(期待)通り自民党にスリ寄る玉木雄一郎(役職停止中)  ⇒ 国民民主・玉木雄一郎代表、夫婦別姓の立民案に慎重「政局的にすべきではない」(産経)

 



 

フジテレビCM差し止め75社に ACジャパン差し替え350本超(毎日) / 「フジテレビは「映像なし」、「フリーランス締め出し」、「控えます」連発の記者会見をして、放送局、報道機関を続けるつもりなんでしょうか。、、、、」(南彰) / 中居正広“深刻トラブル”被害者X子さんが口を開いた「9000万円ものお金はもらってません」、フジテレビに対しては「諦めの気持ちが強い」(NEWSポストセブン) / 《資料入手》「フジ社長は“女性アナ接待”の常習者」中居正広9000万円トラブルを引き起こしたフジテレビの“上納文化”(文春オンライン) / 中居正広「女性トラブル」フジは編成幹部の“上納”即否定の初動ミス…新告発、株主激怒の絶体絶命(日刊ゲンダイ) / 中居の女性トラブル騒動で渦中のフジ名物プロデューサーが出社停止「心身の負担が募っている」(スポニチ)←まるで「被害者」? / フジ現役女性アナウンサーが告発 中居会食に呼ばれた 男性タレントが全裸で手招きも…拒絶 文春報道(スポニチ) / 中居正広さん騒動、米ファンド「フジ・メディアに欠陥」 第三者委要求(日経);「中居正広氏を巡る騒動に関連する最近の一連の出来事は、単なる芸能界の問題にとどまらず、(フジが)コーポレートガバナンスに深刻な欠陥があることを露呈している」 / 中居さんトラブル「フジはあいまいにせず調査を」 米ファンド要求(朝日);「物言う株主」として知られるダルトンがフジ・メディア・ホールディングスの取締役会に対し、書簡を送付していたことが明らかに。 / 民放各局が中居正広に聞き取り調査へ、フランス報道で急展開…旧ジャニに続き “外圧” でしか変わらない “情けなさ”(FLASH) / 中居さん問題、フジテレビが調査 日テレは降板発表、代理人が回答も(朝日)        

 

 

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大杉栄とその時代年表(379) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ3

 

松本英子『鉱毒地の惨状』

大杉栄とその時代年表(378) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ2 より続く

〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ3


2)鉱毒地訪問から鉱毒地救済婦人会の発足へ

明治34年11月1日、潮田千勢子らは、毎日新聞社の鉱毒演説会に出席し、被災地を実視を思い立つ。

11月16日、有志婦人数名で初めて被害激甚地海老瀬村に赴く21)。彼女たちは、被災地の惨状をみて、帰りの車中で鉱毒地救済婦人会を組織することを決めたという。

この時のルポルタージュを潮田千勢子は「鉱毒被害地渡良瀬の民」『婦女新聞』vol.81・82(明治34年11 月25日・12月2日発行)に報告し、『婦人新報』vol.56号(明治34年12月25日発行)にも「鉱毒地訪問記」というタイトルで寄稿している。

21)大鹿卓『渡良瀬川―第三篇 第十章』によれば、矯風会から潮田のほかに、会頭矢島楫子、朽木男爵夫人、島田三郎夫人、毎日新聞の婦人記者松本英子の5人。そして正造自身が案内に立った。底本:「渡良瀬川」新泉社 1972(昭和47)年


ルポの概要

貧民の家を20軒ほど訪問したが、いづれも事情は少し変わっているが、皆、鉱毒被害のため(生活)困難におちいり、食物を得る道もなく、瀕死の状態にあること、婦人は眼病か胃病かであること、東京の貧民にくらべようもないくらい憐れな境遇である。……さらに、学校を参観したが、壁が落ち軒が傾いている荒屋で、教員一人に生徒80人、そのうち女子は3人であった。学童は300名余いるが、鉱毒のため糊口の道を失って、教育のことなど顧みるいとまがないとのことである。せめてこれらの子女を東京にともなって教育を受けさせたいと思って、親に勧めたが、「質撲なる田舎人の性として何とも決し兼ねた有様であるから有志者に委任してきた。……このような悲惨の形跡が東京を距る僅か二十里ばかりのところにあるのを、なぜ我々は今まで知らなかったのであるか、世の慈善家は何故に顧みなかったのであるか、田中翁が十年一日の如く狂奔するのもむりではないと、実に深く感じた次第である。

「潮田は、「貧民としての女性、子どもに敏感に反応していること、そして東京の貧民とくらべようもなく憐れな境遇と、東京の貧民との比較をしていることは注目すべきことである。貧しさに着目しているが、「醜業婦」は貧しさから発生することを痛いほど知っている潮田ならではのセンスが光る。」(山田)


「『婦女新聞』82号の巻頭では、潮田のルポに先立って、「鉱毒問題と婦人」と称する記事が掲載されている。「鉱毒問題は、婦人の援助を俟つ刻下の急問題であり、これは一地方の問題ではなく、30 万の民が飢餓に泣き五百町歩の肥田は荒蕪に帰せんとしている。今の慈善家はあまりに浅見、現金的である。目前には同情するが、5年10年20年に渉って無形的漸進的な千百の苦難に翻弄されているものにはあわれを感じないのか」と、鉱毒問題に女性たちがめざめ、輿論を高揚し、父、夫、兄弟という男性を巻き込みつつ、問題解決させよと、早急な対応を求めている。」(山田)

3)破竹の演説会と世論の沸騰

11月29日、神田青年会館に於いて窮民救助演説会が矯風会の発起でおこなわれた。司会矢島楫子、演説者は巖本善治、安部磯雄、木下尚江、島田三郎、潮田千勢子。渡良瀬川沿岸の被害民の救済を訴え、鉱毒地救済婦人会の設立が発表された(潮田千勢子「鉱毒地救済婦人会の来歴」22))。この演説会は予想以上の成功をおさめた。「満場昂奮の渦と化し百円余の寄付金が集まった。木下はこのときの模様を後に「私は自分で驚愕した程……『霊的』の集会」と回想している23)。

22)丸岡秀子編『日本婦人問題資料集成』ドメス出版1976 年 P.427

23) 山極圭司『木下尚江』p.218、及び鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』p.339

11月30日、古河市兵衛夫人為子、東京の神田橋下で水死体にて発見される。投身自殺といわれる。為子は市兵衛の蓄妾に苦しみ精神を病んでいたとも言われる。矯風会の一夫一婦制に共感していたともいわれ、矯風会の演説会に侍女を潜り込ませていた。この事件は新聞各紙がとりあげ、センセーショナルな話題を呼び、市兵衛個人の蓄妾に対する道徳上の非難は、やがて、人々によって鉱毒事件と結びつけて考えられるようになった24)。

11月22日から毎日新聞の松本英子が,「鉱毒地の惨状」を連載(明治35年3月23日まで)。足尾鉱毒被害民を訪問した<救済婦人会>の婦人の筆(みどり子)とし、被害民と被害地の疲弊した実情を絵入りで詳細に描写した。これは、1902(明治35)年4月、『鉱毒地の惨状』として刊行される。

こうして、鉱毒地救済婦人会は1901(明治34)年、12月6日発足した。会長潮田、発起人朽木よし子25)山脇房子26)矢島楫子27)松本英子28)木脇その子 木下操子29) 三輪田真佐子30)島田信子31)。

12月7日、矯風会年会で、潮田は会頭辞して、貧民の友として働きたしとの意向を示すが再選された。潮田は、廃娼運動、一夫一婦制の確立という矯風会の運動目標と同時に、鉱毒地の貧民救済のために尽力したいという熱い思いがあった。

24)鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』p.341 三一書房、1974 年

25)朽木男爵の妻

26)1903 年東京牛込白金町に山脇女子実修学校(現山脇学園)が創設されると同時に校長となる。のち山脇学園校長

27)女子学院院長、矯風会会頭

28)毎日新聞社記者

29)木下尚江妻

30)三輪田女学校(1902)を開設

31)島田三郎妻

12月10日、田中正造、鉱毒事件で天皇へ直訴

正造の直訴もあり、また、鉱毒地救済婦人会の結成により、世論は沸騰した。鉱毒地救済婦人会はその後、連日演説会を開催し、キリスト教女性団体の運動として、それまでの政治家や限定的な有志の運動とは異なる層のこの問題への関心の掘り起こしに貢献した。

「女性による被災地支援の喚起という戦略は、慈善、憐憫の情といった世論を形成する新たな層を呼び覚ました。女性たちや当時東京帝国大学学生であった河上肇32)をはじめとする若者層に働きかけ、そのことによって鉱毒問題を単に一地方の鉱毒問題に終わらせることなく世紀の公害問題として歴史の中に立ち上がらせることとなった。これを契機に義捐金、窮民救助、被害地病人の上京治療、被害地の少女の教育などが始まった。」(山田)

矯風会は被災地の婦女子支援として、生活困難婦女子を大久保の矯風会の慈善事業の拠点である慈愛館に引き取っている。『婦女新聞』vol.83(明治34年12月9日発行)で「過日、鉱毒地救済婦人会は、14 名の女児を引き受け、目下、婦人矯風会にて設立せる慈愛館にて救養せる由なるが、可憐なる児童は尚数多被災地にて飢餓に泣き、同会の経費不足にてこの上の収容に躊躇せる様子、地方慈善家、同会に金員または、物品を寄贈せられたき方は毎日新聞社松本えい子宛まで」と支援を訴えている。また、現地谷中村に授産場を作り、被災地の就労の場33)を提供している。

32)東京帝国大学生の河上肇は明治34年12月20日、鉱毒地救済婦人会主催の演説会(本郷中央会堂教会)の田村直臣牧師の演説に感激し、二重外套や羽織を司会者潮田に寄付し、翌日手元の衣類を纏めて行李にいれ、救済会事務所に送り届けた。

33)経木(西洋婦人帽子の原料で柳の木を削り麦わらのように編む輸出品)製造

キリスト教系の運動と競合するように仏教界も支援活動を展開する。臨済・真言・曹洞の三宗派は1901年11月上旬に合同支援活動を行うため、委員を選定、被害地視察している。臨済宗建長寺派は11 月18日、被害地末寺に対し、支援のために寺院使用を図る訓令を出している。年末には、本願寺から医師、看護婦が被害地に派遣されている。西本願寺別院は救助品を1902 年1 月に送付、救助の金品を被害民に分配しながら法話会を開催するという運動スタイルをとった。地域密着と統制のとれた行動、豊かな財政力があったといわれる34)。

また、学生による被害地大挙視察もはじまるが、これは鉱毒地救済婦人会が仕掛けたものである。

1901年12月27日、集合場所の上野駅構内は学生であふれ、千百四人の大視察団となったという。30 日に行われた報告会は神田青年会館を熱気に包むものだった。1902年元旦からはじめられた学生による路傍演説は、不特定多数の広範な対象に働きかけることを可能にした35)。

34)鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』pp.342 - 343

35)同上 p.343

1902年1月5日~15日、潮田は、田村直臣、木下尚江共に京阪地方に遊説に出かける。

「鉱毒救済問題彙報」『婦人新報』vol.58(明治35年2月25日発行)によって、その遊説の一端を見てみる。


・1月6日夜 大津市坂本町交道館(男女500名、義捐金10余円)

・1月8日午後2時、京都四条教会(開会前よりすでに満員、講壇の上まで聴衆が溢れた。義捐金70余円、山のような衣類の寄付。同志社女学校の生徒3名は、2,3箇月被害地に行って、慰籍したいと申し出た。寄付品は四条教会および洛陽教会事務室に堆積せり)

・1月10日午後7時~11時、神戸教会(600余名、寄付金60余円、衣類、十数点)

・1月11日午後1時、大阪土佐堀青年会館(開会前に満員、700名以上、毒地の惨状を見るが如く説くと、老人が突如演壇の前にきて外套、羽織、襟巻き、手当たりしだいに壇上に投じた。壇上に義捐するものたちまち20余名、50余円)

・1月11日夜、京都洛陽教会(尋常中学生らの熱心な計画によって開催。600余名、大半は学生男女。義捐金20円、衣類寄贈)


つづく