与謝野鉄幹
大杉栄とその時代年表(776) 1908(明治41)年4月10日~20日 塩原事件の後始末 漱石「四月中旬(推定)、平塚定二郎宛、親展の手紙(現在はない)を出す。〝森田は今度の事件で、職を失った時あの男はものを書くよりほか生きる道をなくした。あの男を生かすために今度の事件を小説として書かせることを認めてほしい。貴下の体面を傷つけ、御迷惑をかけることを自分の責任においてさせないから曲げて承知をしてほしい〞との主旨であったが、両親は承知しない。」(荒正人) より続く
1908(明治41)年
4月22日
三菱(資)長崎造船所にて最初のタービン船天洋丸建造。13,454トン、18,958馬力、速力20.6ノット。
4月22日
栃木県那須郡山火事。2万余町焼失。
4月23日
林菫外相から元老山縣へ「無政府党員ノ消息二関スル報告送付ノ件」。
18日にサンフランシスコの小池総領事からの情報として、幸徳が夏か秋に渡米と伝える(ガセネタ、幸徳への偏見助長)。
4月23日
(漱石)
「四月二十三日(木)、小宮豊隆来て泊る。
四月二十四日(金)、鈴木三重吉来る。小宮豊隆帰る。
(池田菊苗、「味の素」製法特許を申請する。)
最初は「精味」、後に 「味の素」と命名する。昭和四年七月に特許の満期となる。商標は会社の所有である。製造は、明治四十一年十二月から鈴木三郎助が逗子工場で始める。
四月二十五日(土)、午後(推定)、鏡、筆と共に小宮豊隆を訪ね、宝亭に行き夕食し、神田を散歩、十時頃帰る。小宮豊隆泊る。狩野亨吉宛手紙(小島武雄持参)に、愛媛県尋常中学校辞任した小島武雄を新設の第八高等学校(名古屋)に推薦するため、紹介して欲しいと頼む。
小島武雄は、明治四十一年四月、愛媛県尋常中学校での七年間の勤めをやめ、就職先を求めて上京する。新設の第八高等学校に就職を希望する。その時、愛媛県尋常中学校を辞任した時、同僚から贈られた寄せ書を持参し、漱石に見せる。漱石は懐しく思い、「逝く春やそゞろに捨てし草の庵」と書き添える。(四月二十五日(土)以前かとも想像される)
四月二十六日(日)、鏡、出産ひかえ気分悪い。」(荒正人、前掲書)
4月23日
独・露・スウェーデン・デンマーク、バルト海現状維持条約。英・独・仏・デンマーク・オランダ、北海現状維持条約。各国沿岸の現状維持を約束。
4月24日
啄木(22)、宮崎郁雨の厚意で家族を函館に残し、三河丸で海路上京(再々度の上京)。郁雨から更に10円借りる。節子・京子・カツは函館の郁雨家所有の借家に。
「二十四日。午前切符を買ひ、(3.50)大硯君を公友会本部に訪ふ。郁雨白村二君と共に豚汁をつついて晩餐。夜九時二君に送られて三河丸に乗込んだ。郁兄から十円。
舷窓よりなつかしき函館の燈火を眺めて涙おのづから下る。
老母と妻と子と函館に帰つた! 友の厚き情は謝するに辞もない。自分が新たに築くべき創作的生活には希望がある。否、これ以外に自分の前途何事も無い! そして唯涙が下る。唯々涙が下る。噫、所詮自分、石川啄木は、如何に此世に処すべきかを知らぬのだ。
犬コロの如く丸くなつて三等室に寝た!」
「今度の上京は、小生の文学的運命を極度まで試験する決心に候」(向井永太郎宛5月5日書簡)
27日午後6時、船で横浜着。正金銀行前の長野屋に投宿。
翌28日、横浜正金銀行に小島烏水(預金課長)を訪ね、洋食店で会食。列車で新橋(午後3時着))に向い、4時過ぎ千駄ヶ谷の新詩支社に入り与謝野鉄幹・晶子夫妻と再会、暫く与謝野家に滞在する。
29日本郷菊坂の下宿屋赤心館に金田一京助を訪問。
「四月廿五日
・・・・・
終日船室に寝て現なく物思ふ。過ぎ去つた事、殊にも津軽の海を越えて以来、函館札幌小樽釧路と流れ歩いて暮した一ケ年間の事が、マザマザと目に浮ぶ。自分一人を頼りの老いたる母の心、若い妻の心、しみじみと思[ひ]やつて遣瀬もなく悲しい。目を瞑ると京子の可愛らしい顔が目に浮ぶ。
飄泊の一年間、モ一度東京へ行つて、自分の文学的運命を極度まで試験せねばならぬといふのが其最後の結論であつた。我を忘れむと酒に赴いた釧路の七旬の浅間しさ! 満足といふものは、所詮我自らの心に求むべきものだといふ悲しい覚醒は、創作的生活の外に自分のなすべき事が無いと覚悟せしめた。此覚悟を抱いて、自分は釧路を逃げ出した! さうだ、逃げ出した!
友は、自分が小樽へ行つて家族を引纏めて来るだけの旅費を呉れた。母と妻と子を、予が上京して生活の方法を得る迄養つてくれる事になつた。剰へ此度の上京の旅費まで出した。凡てが友の情である。今かうして此船に乗つて居るのも。と思つて思はず目をうるました。
・・・・・」
「四月廿八日
・・・・・
四時すぎて新詩社につく。
お馴染の四畳半の書斎は、机も本箱も火鉢も坐布団も、三年前と変りはなかつたが、八尾七瀬と名づけられた当年二歳の双児の増えた事と、主人与謝野氏の余程年老つて居る事と、三人の女中の二人迄新しい顔であつたのが目についた。本箱には格別新しい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲形の、大嶋絣とかいふ、馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が二寸も出て居た。同じく不似合な羽織と共に、古着屋の店に曝されたものらしい。
一つ少なからず驚かされのは、電燈のついて居る事だ。月一円で、却つて経済だからと主人は説明したが、然しこれは怎しても此四畳半中の人と物と趣味とに不調和であつた。此不調和は軈て此人の詩に現はれて居ると思つた。そして此二つの不調和は、此詩人の頭の新しく芽を吹く時が来るまでは、何日までも調和する期があるまいと感じた。
茅野君から葉書が来て、雅子夫人が女の児を生んだと書いてあつた。晶子女史がすぐ俥で見舞に行つた。九時頃に帰つて来て、俥夫の不親切を訴へると、寛氏は、今すぐ呼んで叱つてやらうと云つた。予はこの会話を常識で考へた。そして悲しくなつた。此詩人は老いて居る。
与謝野氏は、其故恩師落合氏の遺著“言の泉”の増補を分担して居て、今夜も其校正に急がしかつた。“これなんか、御礼はモウ一昨年とつてあるんだからね。”印刷所から送つて来た明星の校正を見ると、第一頁から十二頁までだ。これでも一日の発刊に間に合ふかと聞くと、否、五六日延るであらう。原稿もまだ全部出来てないと答へた。そして“先月も今月も、九百五十部しか刷らないんだが、……印刷費が二割も上つたし、紙代も上つたし、それに此頃は怎しても原稿料を払はなければならぬ原稿もあるし、怎しても月に三十円以上の損になります。……外の人ならモウとうにやめて居るんですがねー。”
小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、氏は頻りに漱石を激賞して“先生”と呼んで居た。朝日新聞に連載されて居る藤村の“春”を、口を極めて罵倒する。“自然派などといふもの程愚劣なものは無い”と云つた。そして居て、小栗氏の作などは賞める。晶子夫人も小説に転ずると云ふて居ると話した。“僕も来年あたりから小説を書いて見ようと思つてるんだがね。”(来年からですか)と聞くと、“マア、君、嶋崎君なんかの失敗手本を見せて貰つてからにするサ。”――予はこれ以上聞く勇気がなかつた。世の中には、尋常鎖事の中に却つて血を流すよりも悲しい悲劇が隠れて居る事があるものだ。噫、この一語の如きもそれでは無いか! 氏にして若し真に藤村が失敗するといふ確信があるならば、何故其の失敗の手本を見る必要があるか? 予は、たとへ人間は年と共に圭角がなくなるものとしても、嘗て“日本を去るの歌”を作つた此詩人から、恁の如き自信のない語を聞かうと思つて居なかつた。
十時に枕についた。緑の都の第一夜の夢は、一時過ぐるまで結ばれなかつた。
与謝野氏は既に老いたのか? 予は唯悲しかつた。(千駄ヶ谷新詩社にて)」
「四月廿九日
八時半目をさます。晴がましい初夏の日に緑の色が眩しい。
十時頃、四谷大番町に小泉奇峰君を訪ねて、一緒に市中をブラついた。小川町のトある蕎麦屋で昼食して、歩いて歩いて須田町で別れる。・・・・・
・・・・・予は菊坂町の赤心館に金田一花明兄を訪ねた。髪を七三にわけて新調の洋服を着て居た。予が生れてから、此人と東京弁で話したのは此時に初まる。
豊国へ案内されて泡立つビールに牛鍋をつついた。帰りはまた一緒に赤心館に来て、口に云ひ難いなつかしさ、遂々二時すぐるまで語つて枕を並べた。」
「四月三十日
九時近く目をさます。金田一君の室。凡てに優しき此人の自然主義論は興をひいた。十二時千駄ヶ谷に帰る。
与謝野氏は“言の泉”の校正に忙殺されて居る。森博士から、来る二日の同氏宅歌会へ案内の葉書を貰つた。
筆をとる心地がせぬので、せつ子と宮崎兄へ葉書かく。・・・・・
夏目漱石の“虞美人草”を読んで寝る。」
4月26日
第1回国際精神分析学大会。フロイト精神分析理論報告。オーストリア。
4月27日
(漱石)
「(四月二十七日(月)、大塚楠緒『空薫(そらだき)』連載始る。(『東京朝日新聞』五月三十一日(日)まで)中心人物の名前、輝一は『野分』の中野輝一と同じである。)
四月三十日(木)、小宮豊隆、論文を提出した帰りに立ち寄り、泊る。」(荒正人、前掲書)
4月27日
第4回夏季オリンピックがロンドンで開幕(〜10月31日)
4月27日
オランダ、海外領地および植民地に関する領事職務条約調印。8月7日公布。
4月28日
第1回ブラジル移民(783人)を乗せた笠戸丸が神戸港を出港(6月に到着)
4月28日
田添鉄二、『近代主義史』。
4月28日
門司の石炭仲仕1万、賃上げで同盟罷業。
30日、彦島の仲仕、同情罷業。
4月28日
ペテルブルグに北海条約成立。
4月29日
黄明堂ら、中国革命同盟会の指導下に、ベトナムより雲南省を攻撃。~5月25日。
26日、清軍に敗れ後退。
4月29日
清国河口事件起る。
4月30日
韓国統監府、新聞紙規則公布。5月1日 施行。
4月30日
軍艦「松島」澎湖島公港にて火災沈没。艦長以下200余死亡、大山巌長男高死亡
4月30日
陸軍将校に露清独仏英の5ヶ国語(特に露語)学習奨励金を給与する旨公布。
4月30日
神田錦町の工藤写真館で大杉栄・堺利彦・山川均、屋上演説秩序紊乱事件の出獄記念写真を撮る。
4月30日
ムザッファルブルでテロリストの仕掛けた爆弾により英人女性2人死亡。この事件を口実として、インド政府は主な過激派民族主義者を投獄。
つづく