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1908(明治41)年
3月21日
(漱石)
「三月二十一日(土)、春季皇霊祭。春分の日。森田草平が田端停車場から出した葉書受け取る。暫く旅に出るとある。(推定)筆は、小宮豊隆におはぎを届け、中根カツの許に寄る。
(森田草平、海禅寺(浅草区松葉町、現・台東区松が谷三丁目三番)で平塚明子と会い、午後八時四十四分(推定)田端停車場発の列車に乗り、九時二十六分(推定)大宮停車場に着く。駅前の古ぼけた旅館で一夜を明かす。)」(荒正人、前掲書)
3月21日
韓国外交顧問(日本政府推薦、元ワシントン日本公使館顧問)ダーハム・スティーブンス、休暇のためサンフランシスコ着。記者会見で「伊藤統監の施策は、朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない」と声明。
翌22日、新聞で声明を知った在米朝鮮人結社「共立協会」員4人が抗議するも声明は撤回せず。
23日、ワシントン行き列車に乗るため向かったオークランド駅で暗殺。はじめ田明雲がピストルを撃つが不発で組み打ちとなる。この時、もう1人の弘仁煥が現れ2発発射。スティーブンスと田明雲に当る。スティーブンスは25日没、田明雲は軽傷。裁判では田明雲が無罪(禁固95ヶ月の記述あり)、弘仁煥は懲役15年(禁固25年の記述あり)。
3月22日
池田亀太郎、西大久保で女湯を覗き風呂帰りの婦女を暴行殺害。出歯亀事件。
8月10日、無期懲役。
3月22日
(漱石)
「三月二十二日(日)、午後、寺田寅彦来る。森田草平の失踪に関し、生田長江来る。二時過ぎ、寺田寅彦と共に上野の音楽会に行く。(森田草平・平塚明子、西那須野に向う。西那須野から人力車で夕刻塩原に至り、奥塩原の宿で一泊する。)
(夜、豊多摩郡西大久保五十四番地、藤の湯付近で、幸田ゑん(二十七歳、下谷電話局長幸田恭娘)、暴行・殺害される。三月三十一日(火)、植木屋兼鳶職池田亀太郎(二十五歳)が容疑者として逮捕される。池田亀太郎は反歯(そっぱ)なので、「出歯亀事件」として評判になる。)
(*)生田長江、夏目漱石から旅費を借りて、森田草平の宿泊先に赴く。(夏目伸六)東京を出発したのは、三月二十二日(日)午後か二十三日(月)午前と推定される。森田草平の遺書で、警察が事件を知り、生田長江に連絡する。(清水三郎)但し、その遺書がどんなふうにして発見されたか、どんなことが書かれていたかは分らぬ。
(**)明治四十一年八月十日(月〉無期懲役を宣告される。池田亀太郎は、大審院に上訴したが棄却される。後に、減刑釈放される。池田亀太郎は、犯人でなかったとも伝えられる。」(荒正人、前掲書)
3月23日
函館沖で陸奥丸と秀吉丸、衝突し沈没。溺死20人。
3月23日
(漱石)
「(三月二十三日(月)、朝、森田草平・平塚明子、塩原温泉奥の尾花峠に向う。雪中で夜が明ける。二人の心中未遂事件各紙に報道される。(後に「煤煙事件」と呼ばれる))
尾花峠は、現在、土地の人たちは知らぬという。尾頭峠はある。また、『万朗報』には「小花峠」と記載されている。
東京朝日新聞社会部長渋川柳次郎(玄耳)は、森田草平と社会部の中村蓊(古峡)が友人であることを知り、内情を聞き出そうとする。だが、中村蓊(古峡)は、話すに忍びないとの理由で回避する。これは、清水三郎が中村蓊(古峡)から直接聞いた話である」(荒正人、前掲書)
3月23日
啄木(22)、主筆日景安太郎への不満及び創作生活への憧れから東京への思いを強くし、社を休み始める。
28日、白石社長からの出社促進の電報などにより釧路脱出を決意。
3月24日
塩原事件、23日より「令嬢の紛失」と新聞で騒がれ、25日以降は「情死未遂」となる。好奇心と非難の嵐。
26日、生田長江が、森田草平を漱石宅に連れて来る。森田は4月10日まで漱石宅に寄寓。
10日後、明子は日本女子大同窓会「桜楓会」から除名。また、夏目漱石・馬場孤蝶・生田長江らによる事後処理も進む。明子は、この年夏、母と茅ヶ崎海岸でで過ごし、9月初め年末迄、松本市郊外で1人で暮らす。
3月24日
(漱石)
「三月二十四日(火)、高浜虚子宛手紙に、「創作家の態度」に関して、「拝啓多分明日は出来るだらうと思ひます。十九字詰十行の原稿紙で只今二百五十枚許かいて居ります。多分三百枚内外だらうと思ひます。明日書き終って、一遍讀み直して、差し上げたいと思ひます。何だかごたごたした事が出来て、少々ひまをつぶします。頭がとぎれとぎれになるものだから大變な不経済になります頓首」と各。(「創作家の態度」は『ホトトギス』に掲載される)
(未明、森田草平・平塚明子、宇都宮警察署員たちに発見され、下塩原の会津屋へ生田長江・平塚光沢(明子の母)と共に迎えに行って泊る。)」(荒正人、前掲書)
3月24日
衆議院請願委員会総会で治安警察法改正案提出可決(今井歌子・福田英子ら請願)。
25日、本会議で可決。
26日、貴族院本会議、否決。
3月25日
岩崎弥之助(58)、没。岩崎財閥2代目当主、元日銀総裁。
3月25日
貴族院の千家尊福(木曜会)・堀田正養(研究会)を司法相・逓相に任命(政友会の貴族院対策)。元老山縣には衝撃。山縣は現内閣の社会主義者取締りの手ぬるさを讒訴、桂は政友会援助打切りを示し、井上馨を通じて西園寺に辞職を促す。
3月25日
能楽奨励の懇願行われ、邦楽保護に関する建議案、衆議院で可決。
3月25日
啄木、上司である主筆日景安太郎(緑)に対する不満と、東京での創作生活へのあこがれから釧路脱出を決意。28日の日記に釧路訣別の辞を書く。
憂悶の日々を送る啄木は、20日過ぎから病気と称して社を休み、創作生活に入るための方法と、釧路脱出の機会をうかがっていた。この欠勤は、不平病として日景主筆から札幌の白石社長に報告され、白石社長からは3月28日、「ビヨウキナヲセヌカへ・シライシ」との電報が届く。彼はこの機会に釧路新聞を退社して上京しようとし、その日の日記に、釧路訣別の辞を書きつけた。
〝さらば″
啄木、釧路に入りて僅かに七旬、誤りて壷中の趣味を解し、觴(*さかずき)を挙げて白眼にして世を望む。陶として独り得たりとなし、絃歌を聴いて天上の楽となす。既にして酔さめて痩躯病を得。枕上苦思を壇にして、人生茫たり、知る所なし焉。
啄木は林中の鳥なり。風に随って樹梢に移る。予はもと一個コスモポリタンの徒、乃ち風に乗じて天涯に去らむとす。白雲一片、自ら其行く所知らず。噫。
予の釧路に入れる時、沍寒骨に徹して然も雪甚だ浅かりき。予の釧路を去らむとする、春温一脈既に袂に入りて然も街上積雪深し。感慨又多少。これを訣別の辞となす。
こうして離釧を決意し、それと知って引きとめる小奴の願にもそむき、4月2日(船が遅れて実際には5日)海路函館に向うことにした。
3月26日
第24帝国議会、東洋拓殖株式会社法案、通過。
3月26日
午前6時過ぎ、堺利彦、大杉栄、山川均、巣鴨監獄から出獄。坂本清馬らが、旗を持って出迎える。大杉栄、その後、守田屋に行く。午前8時、守田屋を出て池袋から新宿へ向かう。
3月26日
(漱石)
「三月二十六日(木)、小宮豊隆来る。小宮豊隆泊る。」(荒正人、前掲書)
3月27日
第2次欽廉事件。黄興ら、ベトナムから進攻。
5月3日、撤退。
3月27日
(漱石)
「三月二十七日(金)、生田長江、森田草平を連れて来る。(その後、漱石の許に引き取られる) 『万朗報』記者来て、森田草平の談話を求める。小宮豊隆来て泊る。
三月二十八日(土)、朝、森田草平と共に食事する。事件については何も問わぬ。森田草平、二十七日 (金) の新聞に眼を通す。『東京朝日新聞』記者来る。森田草平、疲れているからと、何も話さぬ。午後、生田長江来て森田草平に、金曜会の文芸講演会は、予定を変えて「友人のために弁ず」と題して講演して来たと話す。生田長江が帰った後、森田草平が生田長江の態度について話し出すと、その行為を批判する。寺田寅彦、物理学校の帰りに立ち寄る。(森田草平を心配する(推定))小宮豊隆帰る。(森田草平、二、三日して気分落着き、事件の経過を話す)
「日頃はずぼらな森田さんでしたが、をの時はかなり参って居られたようです。生田さん (長江) の心配でしばらく宅に森田さんを預りましたが、夏目は間違いでもあるといけないから森田には酒を呑ませるなといっておりましたのに、女中部屋に置いていた森田さんがあんまり気の毒なもんだから、夏目の留守にちょいちょい酒を呑ませました。すると酔が出て、大声をあげて廊下を通るものですから、つい夏目にばれてしまったこともありました。」 (野田宇太郎『六人の未亡人』)
森田草平は、「どうも他人の辨護をするといふことが、それ程勇気を要することとも思はれない。別に反逆人の辨護をするわけでもなかろうから」 というような意味を洩らすと漱石は 〝いや、そんな事よりも、もし彼がそれだけの勇気と親切があるなら、自分で君を引き取って世話をするのが當り前だ〞という。(森田草平『夏目漱石』)」(荒正人、前掲書)
3月28日
監獄法、刑法施行法公布。監獄則、廃止。10月1日、施行。
3月29日
(漱石)
「三月二十九日(日)、鈴木穆来る。鏡、筆と共に小宮豊隆を誘い、錦輝館(神田区錦町三丁目十八番地) で活動写真を見る。
三月三十一日(火)、晴。朝から各所に挨拶廻りする。犬塚武夫の許にも行く。夕刻(推定)、小宮豊隆の下宿に赴き、共に銭湯に行き、下宿で牛肉のすき焼食べ、九時頃別れる。畔柳都太郎(芥舟) を訪ねる。(予定)」(荒正人、前掲書)
3月29日
大杉栄、戸山ヶ原での屋上演説秩序紊乱事件出獄者歓迎会に参加
3月30日
玉利喜造、東北地区凶作の周期性について発表。『農学会会報』80号。
3月31日
大蔵省、金融逼迫を救済するため、第1回国庫債権1億円の償還期日を12月25日に繰り上げ。期限前にも割り引き償還を実施する旨告示。ただし請求額は2540万余円にとどまる。
3月31日
(露暦3/18)チューリヒ、戦闘団指導者グレゴリ―・ゲルシュニ、病没。
つづく

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