2026年3月12日木曜日

大杉栄とその時代年表(776) 1908(明治41)年4月10日~20日 塩原事件の後始末 漱石「四月中旬(推定)、平塚定二郎宛、親展の手紙(現在はない)を出す。〝森田は今度の事件で、職を失った時あの男はものを書くよりほか生きる道をなくした。あの男を生かすために今度の事件を小説として書かせることを認めてほしい。貴下の体面を傷つけ、御迷惑をかけることを自分の責任においてさせないから曲げて承知をしてほしい〞との主旨であったが、両親は承知しない。」(荒正人)

 

平塚定二郎

大杉栄とその時代年表(775) 1908(明治41)年4月3日~8日 「(四月八日(水)、午後十時頃から雪降る。桜花満開時で驚く。魯迅、仲間四人と共に本郷区西片町二十番地ろノ七号(現・文京区西片一丁目十二、十三番) に住む。) 魯迅の友人の許壽裳が探したものである。五人で住んでいたので、門灯に 「伍舎」と書く。魯迅は、漱石の『虞美人草』を愛読し、漱石の旧居に住むことを誇りにしていたと云う。魯迅は、階下南側の六畳に住む。当時、民報社に通う。民報社から孫文・炳麟・黄興らが『民報』を刊行し、中国革命を志していた。宮崎滔天の義姉前田卓子も手伝う。宮崎滔天は、『民報』の後援者でもある。魯迅は、この家に明治四十二年一月まで住む。家賃が余りに高かったので、西片町十番地はノ十九号(現・文京区西片一丁目) に移り、同年帰国する。」(荒正人) より着く

1908(明治41)年

4月10日

改正陸軍刑法、改正海軍刑法各公布。10月1日施行。

4月10日

ウラジオストック、ロシアと樺太島日露境界確定書調印。

8月6日、境界確定事業承認に関する外交文書を交換。9月10日、告示。

4月11日

井深大、誕生。

4月11日

与謝野鉄幹のこの日付け啄木宛手紙(上京を激励)

「御状拝見仕候

元気よき文字を見て甚だうれしく感じ申侯。

先日御選歌甚だ結構に存じ侯。御礼申上侯。

御東上の事何よりの好音に候。必ず御決行被下度侯。おなじく苦闘被遊侯ならば北海道のはてより東京がよろしく侯。堅実なる文学的生涯に入られむ事を希望此事に侯。下宿はどうにか考へておくべく侯。さしづめ拙宅へ御出被下度侯。

御地諸兄へよろしく御鳳声被下度侯。先日並木君上京せられ侯へども未だ来訪無之侯。草草拝復。

十一日夜                                       寛

啄木兄御侍史」

鉄幹は3月8日にも釧路新聞社気付で啄木に手紙を送り、「御近状如何」と彼の近況を尋ね、「東上の御計画はいまだ御著き被遊不申や万事お察し致し同情に不堪候。」と書いている。

釧路新聞社に満足せず、「東京に出て自らの文学的運命を極度まで試験せねば」と考えていた啄木にとって、鉄幹の手紙は誘い水となった。

4月12日

原敬、社会主義・風俗取締りで内訓。地方官会議秘密会議。

4月12日

大杉栄、午後2時、牛込区牛込赤城元町の貸席・清風亭で劉師培らが開いた第10回斉民会(社会主義講習会を改称、斉民会となって2回目)に出席。「フランス反乱の精神」を講演。潘快漢、汪公権らが参加。6時散会。

13日、大杉栄、この日から、徴兵を逃れるため早稲田大学高等予科に在籍。~6月24日。荒畑寒村が身代わりで聴講。

4月13日

東京主要銀行、預金協定金利を引上げ(定期5%→6%)。

4月13日

水利組合法公布。水利組合、法人となる。水利組合条例、廃止。10月1日公布。

4月13日

田山花袋「生」(『読売新聞』~7月19日連載)、11月刊行。

4月13日

肥料取締法改正公布。免許、検査の規定を厳密にし、取締を強化。

4月13日

啄木、小樽の家族を引き纏めて箱館に戻る。(小樽の6日間)


「十三日夕七時十分、郁雨兄から十五金を得て函館発。十四日朝八時小樽着。俥を走せて花園町畑十四星川方の我家に入る。感多少。京子が自由に歩き廻り、廻らぬ舌で物を云ふ。一時頃野口雨情君を開運町に訪ひ、共に散歩。明日立つて札幌にゆき、本月中に上京するとの事。・・・・・

十七日。郁雨兄より手紙。実際的常識の必要を説いてある。七円。其返事と、白村正二君へと、立花直太郎、釧路の上杉小南等へ手紙書く。夜、社会主義者塚原新人来る。

十八日。小樽日報今日より休刊、実は廃刊。不思議なるかな、自分は日報の生れる時小樽に来て、今はしなくも其死ぬのをも見た。・・・・・

十九日。古道具屋を招いで雑品を売る。夜、・・・・・八時十分、一家四人小樽駅から汽車に乗つた。切符は函館迄。」(啄木日記)


4月14日

清朝、盛宣懐、漢冶萍煤鉄公司設立。

直隷の井陘炭鉱、ドイツ、清国合弁となる。

4月14日

公証人法公布。公証人規則、廃止。公証人の権限、職務を拡大。私署証書の認証をも認める。

4月14日

片倉組、愛知県一ノ宮に愛知製糸所設置。300釜。長野県製糸業の東海地方進出の初め。

4月14日

満州における領事裁判に関する法律公布。

4月14日

(漱石)

「四月十四日(火)、鏡、小宮豊隆を誘い、歌舞伎座(京橋区木挽町三丁目、現・中央区銀座四丁目十二番)に行く。気が向けば後から行く積りだったがやめる。一緒に帰り、小宮豊隆泊る。

四月十五日(水)、午後、小宮豊隆帰る。

(田山花袋・小葉風葉編集『二十八人集』 (新潮社刊。一円三十銭)が刊行され、印税は国木田独歩に贈られる。夏目激石・森鴎外・幸田露伴・小杉天外・後藤宙外・泉鏡花・広津柳浪・江見水蔭らは除外する。)

四月中旬(推定)、平塚定二郎宛、親展の手紙(現在はない)を出す。〝森田は今度の事件で、職を失った時あの男はものを書くよりほか生きる道をなくした。あの男を生かすために今度の事件を小説として書かせることを認めてほしい。貴下の体面を傷つけ、御迷惑をかけることを自分の責任においてさせないから曲げて承知をしてほしい〞との主旨であったが、両親は承知しない。


(平塚定二郎)外国語学校中退後、会計検査院に勤め、大正十三年、六十六歳で引退するまで四十年間勤める。傍ら、第一高等学校で講師をする。漱石とは顔見知りではあったが、口をきいたことはなかった。」(荒正人、前掲書)


4月14日

田山花袋(36)、茅ケ崎南湖院に国木田独歩を見舞う。

4月14日

デンマーク議会、25歳以上に選挙権を与える普通選挙法可決

4月15日

「二十八人集」(新潮社)。花袋が独歩を援助するため企画。売れ行き良く、独歩の療養生活最後の2ヶ月を支える。

4月15日

「高等官平塚某氏娘明子(日本女子大学卒業)と森田某(帝国大学卒業)との活劇」(「教育時論」)。塩原事件が女子教育界に与えた衝撃。

4月16日

大日本精糖(株)、横浜精糖(株)、神戸精糖(株)の3社間に生産量協定成立。9月2日、共同販売協定成立。

4月16日

(漱石)

「四月十六日(木)、小宮豊隆泊る。

四月十七日(金)、安田秀次郎(青森県北津軽郡板柳村、現・青森県北津軽郡板柳町)宛手紙に、訪ねて来るのなら木曜日がよいけれども、遠方からわざわざの来訪なのだから、在宅していれば何日でもよいと返事出す。小宮豊隆帰る。

四月十八日(土)、午後四時、上野で第三回青楊会会合あり、森鴎外らと会う。(会費一円五十銭)


(*森鴎外と会う)青楊会で会ったのは、三回めである。森鴎外は、四月二十五日(土)、上田敏宛手紙に、「君を送りまつりし會より生れし青楊会の三度目に又々夏目君などと出逢候/穴のなき銭を袂に暮るゝ春 漱石行春を只べたべたと印を押す 鷗外」と書いている。「朝首相〔西園寺〕第に晩餐の禮に往く。緒方正規に書を寄せて都築甚之助を薦む。妻と茉莉と陸軍省に来しをつれて午餐に銀座に往く。歸途上野に立寄る。夜上野の青楊会に往く。夏目金之助等来會す。酒店の管理人某の為めに句を書す。/行春を只べたべたと印を押す/母と於菟と日在に往く。」 (「鷗外全集第三十五巻 日記」)


四月二十日(月)、安田秀次郎と面会する。」(荒正人、前掲書)


4月18日

大杉栄、堀保子と共に福田英子宅を訪問。

20日、「消息 大杉栄君より」(「日本平民新聞」)

4月20日

清国、英間に修訂蔵印通商章程成立。

4月20日

台湾縦貫鉄道全通。三又河~葫蘆墩間開業により、基隆~打狗間全通。

4月20日

台湾で刑事令、監獄令、民事令公布。

4月20日

坂本清馬「革命即愉快」(「熊本評論」)。この年1月17日の「金曜会屋上演説事件」、3月10日出獄の顛末。

4月20日

この日、啄木、家族を連れて小樽から帰る。宮崎家の厚意で準備された、市内栄町の鈴木弥吉方の二階8畳間の新居に入る。郁雨の計いで、当座の米や味噌が用意されていた。

彼は家族との生活を楽しむ間もなく、24日午後9時、横浜行三河丸に乗船する。


つづく


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