1908(明治41)年
4月3日
(漱石)
「四月三日(金)、朝、荒井某は漱石と論争して酒田の漁夫となるとかいって出る。松根東洋城と森巻吉来る。(「森巻吉日記」)」(荒正人、前掲書)
4月3日
第2回上毛同志会。栃木県佐野町(現、佐野市)相生町大雲寺。出獄直後の大杉栄・山川均・守田有秋・佐藤悟出席。田中正造翁も出席。
大杉は「フランス革命の教訓」を講演し、「仏国ナボンヌに於ける同盟罷業及軍隊の脱営に就いて」話をする。県立真岡中学校で校友会雑誌に社会主義的な論文を書いた生徒を退学させた件で、文部省への抗議文を採択。
その後、佐野町から群馬県邑樂郡高島村(現、邑樂町)の築比地仲助の家まで12キロの道を革命歌を歌いながら歩き、東京組4人は築比地宅に泊る。築比地は、大杉のことを「マンノド(満のど)ニスト」と呼んでいた。
翌4日、大杉栄、築比地の案内で高島村内の機械工女の実態視察にでかける。帰途、佐藤悟を楽長として「ゼイゼイ節」を歌って築比地宅に帰る。
大杉栄・山川均と連名で石川三四郎に葉書を出す。
4月3日
大隈重信、東西文明の調和を目的として大日本文明協会を設立。
10月1日、日本文明協会叢書第1期「欧米人の日本観」3冊などを刊行。
4月3日
武者小路実篤『荒野』。
4月4日
ベトナム、反仏運動活発化。
4月4日
ルネ・ジャネル、ルーアンの洞窟で有史以前の壁画の発見を発表。
4月5日
午前7時過ぎ、啄木(22)、2日間を酒田川丸船で過ごしたあと漸く釧路を出発。函館までは船で、小樽までは列車で移動。
啄木は、函館で上京の費用を得るため、再建された函館日日新聞(斎藤大硯の経営)で働こうとした。
彼は7日上陸後、東浜町の斎藤の家を訪れたが、留守中で面会できなかった。その日は岩崎白鯨の家に泊る。
翌8日、二人で旭町の宮崎郁雨の家を訪ね、夜は東小学校の宿直室で吉野白村を中心に、4人で祝盃をあげた。
その夜は郁雨の家に泊ることになり、啄木は、思わず自分の宿望を郁雨に伝えた。しかし、家族のことや上京の費用のことを考えると、早急に上京はできないので、函館で半年なり1年なり何かやって、旅費だけでも拵えてから東京に行きたいと思っているという風に話した。郁雨は、啄木の創作生活に対する烈しい熱情を知って心から同情し、彼の天才を生かすためにも、彼を一日も早く上京させようと心中深く決する所があった。
翌朝郁雨は父母の同意を得て、自分が家族の面倒をみるからと、啄木に早期の上京を促がす。郁雨に15円借金。小樽へ7円送って貰う。
「十時起床。湯に行つて来て、東京行の話が纏まる。自分は、初め東京行を相談しようと思つて函館へ来た。来て、そして云ひ出しかねて居た。今朝、それが却つて郁雨君の口から持出されたので、異議のあらう訳が無い。家族を函館へ置いて郁雨兄に頼んで、二三ケ月の間、自分は独身のつもりで都門に創作生活の基礎を築かうと云ふのだ。」(啄木日記4月9日)
「宮崎君宅で昼食。宮崎君も善い人である。父上も善い人である。母上も善い人である。姉なる人も善い人である。何故なれば斯う善い人許り揃ってるであらう。」(啄木日記4月10日)
4月5日
大杉栄、高島村での講演会に登壇。各国の礼を示しながら農民運動のあり方を講演。参加者70~80名。
「出獄広告(山川均、大杉栄、堺利彦)(「無題(本日無事出獄す)」)」(3月26日付)が『日本平民新聞』に掲載
6日、大杉栄、麹町区飯田町の劉師培・何震夫妻宅で在日中国人アナキストを対象としたエスペラント講習会を始め、開講の辞を述べる(毎週月、水、金の午後4時から5時半、5時半~6時半の2班に分かれて行われる)。劉・何夫妻のほか蘇曼殊、景梅九ら20名が参加。
7日、大杉栄、エスペラント雑誌「Internacia Socia Revno」に手紙(「Letero de Japanlando(Majo 1908)〈日本からの手紙〉」)を書く。
4月5日
指揮者カラヤン、誕生。
4月5日
ヘンリ・H・アスキス、健康上の理由で辞任したキャンベル・バナマンの後、首相に就任。自由党内閣成立。
4月6日
(漱石)
「四月六日(月)、鏡は、小宮豊隆が四月一日(水)から風邪で寝ているので、筆に乙女椿・蜜柑・林檎を持たせて見舞にやる。筆夕食を一緒に食べて帰る。『坑夫』連載終る。」(荒正人、前掲書)
4月6日
独、帝国結社法制定。
4月7日
島崎藤村「春」(「東京朝日」)、~8月18日、10月刊行。
「・・・・・。「春」今日結了。最後の五、六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致候。序を以て大兄へ御通知に及び候。あの五、六行が百三十五回にひろがったら大したものなるべくと藤村先生のために惜しみ候。
(略)」(漱石の8月19日付虚子宛手紙)
4月7日
水野年方(43)、没。日本画家。
4月8日
株萍鉄道、国有化。
4月8日
逓信省、無線電報規制を公布。船舶の施設無線電信への対策。
4月8日
(漱石)
「(四月八日(水)、午後十時頃から雪降る。桜花満開時で驚く。魯迅、仲間四人と共に本郷区西片町二十番地ろノ七号(現・文京区西片一丁目十二、十三番) に住む。)
魯迅の友人の許壽裳が探したものである。五人で住んでいたので、門灯に 「伍舎」と書く。魯迅は、漱石の『虞美人草』を愛読し、漱石の旧居に住むことを誇りにしていたと云う。魯迅は、階下南側の六畳に住む。当時、民報社に通う。民報社から孫文・炳麟・黄興らが『民報』を刊行し、中国革命を志していた。宮崎滔天の義姉前田卓子も手伝う。宮崎滔天は、『民報』の後援者でもある。魯迅は、この家に明治四十二年一月まで住む。家賃が余りに高かったので、西片町十番地はノ十九号(現・文京区西片一丁目) に移り、同年帰国する。
四月九日(木)、大雪。降り続き四十センチほど積る。樹木の被害多い。電信・電話線障害。夜は停電する。満月だったので、雪月花を一度に楽しむ。(柴田宵曲)
(四月十日(金)、森田草平、牛込区筑土八幡町二十四番地、現・新宿区筑土八幡町二十八番地 植木屋方に下宿する。(高辻亮一法学士(明治生命社員)がもと下宿していた。高辻亮一と、森田草平は第一高等学校の寄宿舎にいた頃から懇意であった))
漱石は、事件後引きとって、森田草平の面倒をみていた。後に『煤煙』の執筆を勧める。春陽堂から出版するように交渉する。その後、東京朝日新聞社と交渉し、掲載されることになる。(夏目伸六)
四月十日(金)頃(推定)(日不詳)、大阪朝日新聞社の鳥居赫雄(素川)から大阪に遊びに来るよう勧められる。
四月十一日(土)、畔柳都太郎(芥舟)の許に行き、帰りに小宮豊隆を見舞う。
四月十二日(日)、雨。外出中、寺田寅彦来る。」(荒正人、前掲書)
つづく

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