2009年3月10日火曜日

昭和13(1938)年1月(3) 南京は終らない 「鳴呼、これが皇軍か」

昭和13(1938)年1月1日
・尾崎秀実「抗日支那の行方」(「大阪朝日」1日~4日)。
「陸海軍は全支各方面にわたって赫々たる戦果を挙げつつある。しかしながら一切の問題がすべてこれのみによって解決されると考え、これのみに依頼しようと考えるならば、いうまでもなく甚だしき誤りであるだろう」。
「支那の長期抵抗の基礎は南京でもなければ、その他の大都市でもない。全支の農村と人民の確固たる決意にあるのだ」との37年12月16日漢ロでの蒋介石の全国民に告げるラジオ放送を引用し、さらに、「わが軍事行動の進展にしたがって生ずる・・・日本と列国との間の危機の増大は直ちに日本に対する支那の抵抗力の増大となって現われるであろう」。
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1月1日
・新潟県十日町の映画館旬街座の屋根が積雪で落下、晴着客69人が圧死。
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1月2日
・阿南惟幾人事局長・諌山春樹大佐(参本庶務課長)・稲田正純中佐・額田坦中佐・荒尾興功大尉ら6人、南京着。勲功調査、軍紀風紀調査。1月8日福岡着。
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松井は、「涙ながらに東洋平和と人類愛を説き、あまりに果敢だった中島今朝吾十六師団長の統帥を非難された」(額田坦「史上最大の人事」)。
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しかし、2日南京入りの阿南一行が中島師団長をなじると、「捕虜を殺すぐらい何だ」(稲田正純氏談)と反論。
また、4日に来た青木企画院次長一行に対しては、中島は平然と、「略奪、強姦は軍の常だよ」と語る。文官の手前、恥ずかしくなった、と案内役の岡田芳政大尉は回想。
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1月2日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げてきた。・・・やつらはあわてふためいて逃げていった。ただちょっと様子を見にきただけだ、というのだ!
・・・日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。演説者が協力ということばを口にしているそばから、病院の左右両側で家が数軒焼けた。軍の放火だ。
自治委員会の副代表孫氏は日本語を話す。また紅卍字会のメンバーでもあるが、その孫氏がもったいぶって私にいった。「ある重要な件につき、近いうちにお話ししたいのですが」 どうぞどうぞ! とっくに心づもりはできている。お宅たちがなにを狙ってるのかなんざ、お見通しだよ!・・・
昨夜、またしても日本兵の乱暴があいついだ。スマイスが書きとめ、いつものように抗議書として日本大使館に提出した。」
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1月2日
・広島宇品と江田島の間の定期船が沈没、43人死亡。
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1月3日
・女優岡田嘉子・新協劇団演出家杉本良吉、樺太国境を越えソ連に亡命。
(この項目は、のちにエントリを改めて記述する予定。    黙翁)    
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1月4日
・石川達三(「中央公論」特派員)、南京入城、8日間滞在。第16師団歩兵第33連隊兵士を取材し、「いきている兵隊」(「中央公論」3月号)発表。
2月28日発売と同時に頒布禁止処分。石川と雨宮編集長は警視庁に連行。
8月4日、執筆者石川、編集者、発行者の3者は新聞紙法第41条(安寧秩序紊乱)の容疑で起訴。
9月5日、東京区裁判所は、石川と編集人雨宮庸蔵に禁固4ヶ月(執行猶予3年)、発行人牧野武夫に罰金400円。雨宮は退社し、昭和14年5月より国民学術協会主事となる。 
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作品は、ある小隊の兵数人を登場させるフィクションの体裁をとるが、第16師団の行動と一致点が多く、実質的にはノンフィクションである。
作者は、執筆動機は「戦争というものの真実を国民に知らせること」にあったと法廷で述べ、判事が「日本軍人に対する信頼を傷つける結果にならぬか」と質すと、「それを傷つけようと思ったのです」と答える。
勇敢・温情の西沢連隊長が、「数千の捕虜をみなごろしにするだけの決断を持っていた」とか、南京城内掃蕩戦で「本当の兵隊だけを処分することは次第に困難になって来た」とか、兵士たちの暴行が、軍上層の黙認ないし奨励のもとに成りたっていることを示唆している。
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「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確乎たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました。」(取り調べに対する石川の発言)。
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なぜか陸軍は石川に対して寛容で、保釈中に、石川が武漢作戦への従軍を願い出ると、陸軍省報道部はこれを許可、その成果である「武漢作戦」は、「中央公論」14年1月号に掲載。
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敗戦後の石川の発言は、敗戦直後の発言と没直前の発言では異なっており、関係者の間でちょっとした論争あり。
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1月4日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「・・・きのう、またしても近所で三軒放火された。いまこうしているうちにも、南の方で新たに煙がたちのぼっている。・・・取り締まりのため軍事警察がおかれてからは、治安は全体的にはたしかによくなったといえるだろう。けれども警察官のなかにもいかがわしい連中がいる。そいつらは見て見ぬ振りをするだけではない。いっしょになって悪事を働くことさえあるのだ。」
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1月4日
・大本営陸軍部幕僚長閑院宮載仁親王、「軍紀風紀に関する件」と題する要望を中支那方面軍松井司令官宛送付。事実上の「戒告」文書。
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1月4日
・鐘紡社長津田信吾「大陸政策を語る」(「大阪朝日」同日付)。
「蒋介石が国を挙げて長期抵抗を叫んでも蚊の泣声ほどにも聴取れなくなった。
・・・冀察政権という雀の涙ほどの地域をソッとしておくのが気に食わぬというけちな量見から大戦争を起こし、彼は身を亡ぼし国を売ったのである。
・・・彼が手を挙げるまでは南昌でも漢ロでも成都でもお望みに委せて飛行機でお供をするだけである。
・・・この調子で進めばあと一年で全支が片づく、チト早過ぎるようだから緩ゞがよかろう」。
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1月4日
・英ウッドヘッド委員会設置。
パレスチナ分割計画を延期し境界線を調査。アラブ人とユダヤ人によるテロ活動は1年中続き、英は駐留軍を3万人に増強(~11月9日)。
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1月5日
・南京での「査問工作」(「兵民分離」)終る。
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佐々木到一城内粛清委員長、「一月五日 査問会打ち切り、この日までに城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中にありし支那傷病兵を俘虜として収容。城外近郊にあって不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関において処分せるもの数千にたっす。南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約七万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せらる。」(「佐々木到一少将私記」)
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1月5日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに。クレーガーの話では、門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が横たわっているそうだ。機関銃で殺された民間人たちだ。日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。南京の実態がばらされたら困るからな。」
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1月5日
・「朝日」従軍記者の行間に込めた思い。
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「戦争後の南京は烏がふえた。その烏が(莫愁)湖畔の枯枝の間に群れ鳴いて一種の腥気(生臭い空気)がいまなほあたりにたちこめてゐる」(守山義雄、1月5日付「大阪朝日」)。
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「戦場は・・・進軍ラッパも鳴らねば晴れやかな大行軍もない『地冷やかにして骨未だ朽ちず』と杜甫の辞にあるやうな小鳥も鳴かぬ流血の野だ」(横田省己、2月9日付「東京朝日」夕刊)。
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1月6日
・南京、アメリカ大使館員、南京復帰。8日、イギリス、ドイツ大使館員、南京に復帰。
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1月6日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「ばんざい! アメリカ大使館のアリソン、エスビー、マクファディエンの三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、蕪湖で待機していたのだ。アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。・・・
午後五時福田氏(大使館員福田篤泰)来訪。軍当局の決議によれば、我々の委員会を解散して、食料などの蓄えや資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。・・・私はただちに異議を申し立てた。「・・・、これだけはいっておきます。治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。難民の住まいの大半は壊され、略奪されている。焼き払われてしまった家もあるのだ。」
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1月6日
・外務省東亜局長石射猪太郎のこの日の「日記」。
「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪・強姦、目もあてられぬ惨状とある。鳴呼、これが皇軍か」(「外交官の一生」)。
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東亜局上村第1課長の部屋には南京国際難民区委員会から届いた抗議報告や写真が山積みされ、「写真などは眼を覆いたくなるようなひどいもの」(上村伸一「破滅への道」)があったという。
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1月6日
・精神分析学者ジークムント・フロイト、ロンドン亡命
to be continued

2 件のコメント:

  1.  実は私の祖父の兄弟がこの南京戦に従軍しており、軍からもらった軍刀を使い、後ろから中国人の背中を試し切りをして殺したことをずっと後悔していました。今回の記事で書かれている「ジョン・ラーべの日記」は信憑性が疑われていますが、軍の規律が低く虐殺があったのは確実であったろうと私は考えています。
     ただそれにしても、日本も中国も何万人が死んだのかとか、人数に延々とこだわるのだけはどうにかしてほしいですね。

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  2. 人数の件は私も同意見です。
    一人一人にとって命は一つですから、万だ千だと云う前に、一個の命を奪うことの残忍さを認識すべきだと思います。

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