一番上の写真はまだ精神的にも肉体的にも余裕のある時に撮ったもので、きつい道はこんな優しいものではありませんでした。それをだいたい30分~40分くらいでしょうか、急坂が続きます。但し、よく手入れの行き届いた道ではありましたが。
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もう5分もゆけば、息ゼーゼー、心臓バクバク、汗ダラダラ状況となり、前日(詳しくは当日朝まで)のお酒など吹っ飛びました。
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途中、4組の方に出会いましたが、皆さん、軽登山の装備。
私はと言えば、ネクタイは外しているものの、通常のコートを着て、2泊用のカバンと、おまけにお土産が入った紙袋まで提げての、皆さんから見れば異様な風体ではありました。
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頂上からの眺めは、2、3番目が木曽川上流・美濃加茂方面で、一番下が下流の鵜沼方面です。
頂上からの眺めは、2、3番目が木曽川上流・美濃加茂方面で、一番下が下流の鵜沼方面です。
爽快でした。
信長軍は、鵜沼方面から、この猿啄を攻略して、美濃加茂方面(写真では2番目の左方面10kmにある)の加治田城、堂洞城に向かったことになります。
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全くの素人考えですが、この程度の山では城というよりも砦程度であったろうし、従って100人も守備していないと思われ、信長軍(丹羽長秀)の大軍が押し寄せ、おまけに水源を確保されたら、降参しかないでしょうね。
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以上、「猿啄城攻略の記」を終えます。
あと2~3回、岐阜シリーズが続きます。
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昨日(3月7日)の「日経」夕刊。
「コンビニ強盗 都内で急増」の見出し。年初から3月5日までで18件で、前年同期の5件を大幅に上回ったとか。また「月曜日 午前2~3時は要注意」とのこと。
決してドロボウを擁護する訳ではないですが、「本当のところ何が、そして誰が悪いのか」をよく考えるべきだと思う。
登山お疲れ様でした。僕は行ったことありませんが、綺麗な景色ですね。
返信削除丹羽長秀と言えば、「米五郎左」と言われるくらい織田家にとって必要な家臣だったようですね。秀吉や光秀のおかげで出世は遅れたみたいですが。。。
谷口克広さんの「信長軍の司令官」(中公新書)によれば、丹羽長秀はやはり美濃侵攻作戦で頭角を現した、しかし、遊撃で力を発揮するが、万余の兵を指揮する器ではないと信長は見抜いていた、とありますね。また、若狭の統治には問題はなかったようですし、安土築城には絶大な貢献をしたそうですよ。それと、「羽柴」は、「丹羽」と「柴田」からとったとあります。つまり、若い頃は、この様な位置関係であったようです。
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