2009年3月12日木曜日

明治17(1884)年10月29~31日 秩父(15)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 風布組決起す

■明治17(1884)年秩父(15)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月29日
・自由党臨時大会。大阪太融寺。自由党解党決議。代表者100余の圧倒的多数の賛成。
太井憲太郎(自由党左派、関東派領袖)が右派の板垣ら土佐派と妥協し解党に合意。
党内分裂・地方党員激化が原因。
民権陣営は総崩れ、少数急進派をますます孤立した激しい抵抗に駆り立て、困民党人民と提携しつつある一部農民党員を全国的指導体から切り離し、その力を削ぐ結果となる。
ついで、立憲改進党も同様に解党同様となる(12月17日、大隈重信・河野敏鎌・前島密、脱党)。
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神奈川県からは幹事佐藤貞幹(都筑郡、解党大意を読み上げる)・平野友輔・山本与七・石坂昌孝ら出席。佐藤貞幹、残務委員に選ばれる。
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①困民党・借金党の動きと連携する農民党員、
②福島・群馬・加波山事件を起す急進派などの下部党員の動きと、
③言論制限など弾圧を強める政府の圧力の前に、党として統一した方針を出せなくなった幹部の日和見から出た対策。
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「先ず大井憲太郎の所に至れば、其部下事を挙げんとして来り迫りつつあり。名古屋、静岡の各地に於ける同志も亦勃発せんとして、勢極めて険悪なり」(「自由党史」)。
激化事件続発によって世論の批判を浴びることを恐れた緊急措置。
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板垣の土佐派に属する植木枝盛は、直前まで全国遊説を行っており、彼のスタンスは理解できない(黙翁のヒトリゴト)。
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10月30日
・朝鮮、弁理公使竹添進一郎、日本より漢城に帰任。
井上外務卿の指示で軍乱賠償金50万円のうち未払分40万円返上。国王の歓心をかい、金玉均ら開化派援助のポーズ。
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10月30日
・秩父困民党、夜、上日野沢小前耕地で最後の幹部会議。田代栄助・井上伝蔵・加藤織平・高岸善吉・小柏常次郎・坂本宗作・新井周三郎・柏木太郎吉。多くの農民が傍聴。
栄助は再度延期を主張し、井上伝蔵がこれを支持するが、否決される。
深夜、柴岡熊吉・柏木太郎吉ら4名は、栄助殺害を企てるが、栄助が11月1日蜂起を約束したため翻意。
夜明け前、上州勢の組織遅れの自己批判を迫られた小柏常次郎(42)、オルグのため上州へ出発。
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□栄助尋問調書。
「大勢屯集したるにつき、自分および井上伝蔵の両人にて右屯集の人数に対し、三十日間の猶予を請いたるに聴かず。十五日間の延期を請いたるも聴き入れず。一週間も聴き入れざりし。
右屯集人に対し猶予を請いたるに聴き入れざるより紛議を生じ、自分および井上伝蔵の両人・・・小柏常次郎が詰(なじ)りたるは常次郎は他管下にきたりすでに六十日の滞在前途の目的も定らざるに頻り村民を煽動したるより、軍装も整わざる前不時多人数集合するの不幸にあえり、哀れ常次郎の首を斬り屯集の大勢に猶予を請わんと申しのべたるところ小柏いわく全く自分の不行届より引起したるなれば自分を衆に謝し一週間の猶予を請わんと同所を立ちでて屯集の村民に請いたれども聴き入れざるより、この上は是非なき次第につきひとまず帰県、さらに同意者を募りきたらんと翌三十一日払暁同所を出発せり。」。
常次郎は蜂起には「小荷駄方」の役割で参加、活躍にもみるべきものなし。
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□堺利彦著書。
「それから田代がその夜、坂本方の隣家で「将に寝ねんとする時、柴岡熊吉、柏木太郎吉、外二人、抜刀を携へて押来り、活かして置いては外聞悪しき故、切り殺すと申し」云云。
そこで田代は、「お前方は心得違なり、拙者固より生命を惜むにあらず、只小柏が心なく煽動したるにつき、数多のものが此事に加はり、後にて一層困難するを患ひ、延期を乞ひたるなり、然れども斯る場合に至りし上は、来月一日相違なく着手す」と答えたので「右四名は立去りたり」という、田代の申立がある。」
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10月30日
・秩父困民党、上吉田村柳原正男(27)、風布村に白の鉢巻き・襷を配る。
風布村80戸中で蜂起不参加は3、4戸のみ。
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10月30日
・「自由新聞」論説。「地方の困窮」こそ一大国難とする。
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10月31日
・午前0時、上州より秩父応援第1陣遠田宇市ら9名、坂原村出発。
この日、新井貞吉(小板橋禎吉)は、恩田宇市・坂本宗作・宇市と同村の者という3人の訪問を受け、人集めに来たと聞かされるが、貞吉は「風気ニテ天意モ上ラズ」寝込んでおり、昼過ぎに山仕事から帰ってきていた親父の寅吉がまず第1陣として秩父に向う。
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午前11時、秩父困民党、風布組の決起
風布村の大野福次郎・大野苗吉ら抜刀して「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シナケレバ斬ル」と出動強要。
隣村金尾村にも出かける。金尾村惣代花輪治左衛門は50人程を集合場所金毘羅山に向わせる。
風布の宮下沢五郎(31、学務委員、重禁固2年)は花火師でもあり花火を仕掛ける。
宮下茂十郎(32、炭焼き、重禁固3年)は下吉田椋神社前で青木巡査を捕虜にする功績によりそのサーベルを佩くことを許される。
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・午後1時、大宮郷警察署長斎藤警部、巡査10名率い大宮郷出発、井戸村に向う。途中、風布村大野福次郎隊を武装解除・連行。
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・午後2時5分、寄居警察署、秩父郡風布村・金尾村蜂起の状況を埼玉県警本部に打電(第1報)。この日は三条一行が佐野~館林~行田を経て帰京する日。
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「十月三十一日午後二時五分寄居警察署ヨリ本県警察本署へ電報アリ、・・・秩父郡風布村金尾村ノ困民等飛道具ヲ携へ小鹿野地方へ暴発スルノ景況ナリ。因テ速ニ警部巡査派出アレトアリ」(「「秩父暴動始末」に収められた秩父事件の第1報)。
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・午後3時、風布村金毘羅山(130余人集結)より大野福次郎は19人率い先発、荒川右岸を進む。
下田野村・皆野村境で大宮郷警察署長率いる警察隊10名と遭遇。大野福次郎以下12人拘留(福次郎は12月9日の予審終結後ようやく供述を始める)。
福次郎逮捕により、大野苗吉が甲大隊副大隊長、風布小隊長には石田酒造八が据えられる。
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「皆野村派出ノ斎藤警部坪山警部補ハ巡査七八名ヲ率ヒ該村ヲ発シ井戸村ニ至ル途中薄暮ニ及ヒ暴徒十七八名各銃器其他刀剣竹槍等ヲ携へ出ツルニ会シ訊問数時ニシテ終ニ其携帯セル兇券ヲ脱セシム。因テ之ヲ収メ暴徒ヲ皆野村へ拘引訊問スルニ至ルトナリ・・・」(寄居警察署から県警本部へ電報)。
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大野福次郎は警察の取調べに対し、卑屈になることなく、堂々と蜂起準備の過程を陳述。
「答(福次郎) 承知仕供、有リシ事ハ本日ナラヌ昔ヨリ真正ニ陳スル積ニテアリキ」と述べ、夏以来の風布の組織過程を述べる。
逮捕当時、懐中に風布及び近隣の人々の入党証を携えていたが、留置された皆野村戸長小池槌蔵宅の畳の下に隠す。のち密告によって警察の手に渡り、これにより風布村組織工作の全貌が後世に伝わることになる。
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・午後6時、寄居警察署、埼玉県警本部に電報。
「秩父郡村民等各兵器ヲ携へ嘯合スル実況ヲ知ラント欲シ巡査ヲ派遣シ視察セシムルニ風布村山中ニアリテ各自銃砲或ハ刀剣ヲ携へ白布ノ鉢巻ヲナシ同ジク襷ヲ掛ケ、几ソ八九十名屯集シ該巡査ニ向ヒ発砲セリ。為メニ退キ松山小川ノ両署ニ巡査ヲ要求セシニ警部某等巡査十名ヲ率ヒスデニ派出スルニ会シ是ヨリ大宮郷、本野上ノ両署卜協議シ所措セントス。」
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・午後8時、先発大野福次郎ら捕縛の報に、大野苗吉ら金毘羅山集合本隊130余、福次郎隊と反対方向へ出陣、荒川左岸の末野から川沿いの本道を進む。
途中大野苗吉らは金崎村高利貸会社「永保社」襲撃に加担。
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・午後8時半頃、風布から寄居の出る釜伏峠らしい方向と城峯方面でそれぞれ号砲。
「夜八時頃雷カ大砲ノ音スル」(柴崎谷蔵「木公堂日記」)。
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・午後10時、県警鎌田警部(国事担当)、三条太政大臣警護の出張の行田より急遽寄居警察署に到着。
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・午後11時30分、上日野沢の門平耕地にいた秩父困民党新井周三郎(20)・柴岡熊吉ら40名、金崎村金貸会社「永保社」襲撃。地券・証券1万円分焼却、隣家の戸長宅襲撃し10円奪う。帰途、宇国神の高利貸・下日野沢村の質屋襲撃。
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永保社:資本金2万円、出資者200名超。皆野を中心に広い地域に高利貸付の網を張っている。
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・夜、柏木太郎吉ら、田代栄助指示により矢納村城峯神社止宿の陸軍測量技師(城峰山に測量作業に入っていた参謀本部将校(陸軍御用掛)吉田耕作)拘引に向う。11月1日午前3時、拘引。阿熊村新井駒吉宅で田代栄助は軍事指揮要請、拒否。
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陸軍御用掛吉田耕作は、極めて丁寧な扱いを受け、総理田代栄助・会計長宮川津盛の前に連れ出される。
栄助は、「吾党ニハ軍事ニ馴レタル人物ニ乏シク、差向キ先生ヲ推シテ総指揮役ニ置キ万般ノ事大小トナク死ヲ取テ断決セラレタシ。」と請う。田代は軍事面には自信がなく、困民党内部にも総指揮をとれる人材が欠けている。
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・夜、小柏常次郎、上州の上・下日野村で18名集め第2陣として秩父へ出発。
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・この夜、小柏常次郎の妻ダイ、下日野沢の新井蒔蔵の家に泊まる。蒔蔵の妹チヨと共に武器調達を担当。
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小柏ダイの供述では、30日夜、群馬県日野村の自宅に夫常次郎の使者柏木太郎吉が現われ、城峯山にケットを持参するようにとの夫の伝言を伝えられる。
翌31日、ケットを背負って峠を越え、半納で折よく常次郎に会えたという。しかし、この頃常次郎は総代会で批判され、自村で同志狩りだしに励んでいる最中で、ダイの供述は偽り。ただ、ケットを背負って峠を越えたのは事実で、ダイは夫の意思ではなく、困民党指令によって物資調達に奔走していると見るべき。
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・深夜、県警本部長江夏警部長、行田で報告を聞き直ちに寄居に向う。
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・この日、田代栄助、石間村加藤織平方で、織平・新井周三郎・柴岡熊吉ら幹部に、自分の決意のほどを述べる。
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「今諸物価ハ日々下落シ、為ニ高利貸ハ益富シ、貧者ハ益零落シテ家族等ノ撫育モ覚束ナシ、此儘是レ黙シ置テハ、秩父郡中人民ハ餓死スルハ必然卜相考へ、因テ大宮警察署へ説諭方ヲ願出候テモ到底不行届、此上之ヲ黙シ居るレバ餓死スルノミ、因テ秩父郡中人民ニナリ替り、富者ヲ斃シ貧者ヲ救助、此望ヲ逮スルハ非常処置ナラザレパ行ハレズ、望成就スレパ刑罰ニ処セラルゝハ皆覚悟ナラン(「柴岡熊吉訊問調書」)。
蜂起後は、「現時ノ所ハ先ヅ秩父郡一円ヲ平均シ、応援ノ来着ヲ俟テ本県二迫り、事成ルノ日ハ純然タル立憲政体ヲモ設立セント欲ス(「陸軍省御用掛吉田耕作暴徒等ニ危難ヲ受ケタル顛末書」)。
 
・両神村間庭犀次(間庭部落で代々名主を勤める豪家の若い当主)、遁走。
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風布・日野沢村民の鯨波と狼煙に顔色を変え、蔵にあった現金を腹巻い入れて遁走。蜂起鎮圧後、相当の時間があってからに帰って来る。
そもそも両神での最高の知識人として、政治に関心を寄せ、自由党員と目されており、犀次もまた取り調べられるが、彼は村を出た夜からの行動を遂一説明できる旅宿の領収書を持参し、嫌疑を晴らせる。
間庭家はその後急速に没落。広大な邸宅の礎石さえ消え去る。
to be continued

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