2009年3月12日木曜日

美濃太田 坪内逍遥生誕の地





坪内逍遥(安政6年(1859)年5月22日~昭和10年(1935)2月28日)、は尾張藩領地の美濃国加茂郡太田宿に尾張藩士の子として誕生。のち、愛知洋学校、東京大学予備門、東京大学を卒業、早稲田大学教授となります。
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写真の上二つは美濃加茂市の太田小学校脇の公園に、一番下はJR美濃太田駅前にあります。
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「坪内逍遥は日本に朗読術という一つの新しいジャンルを創り出した功労者でもある。・・・
慧眼な彼はここにヨーロッパのエロキューションに目をつけ、それを骨子として日本の伝統的な語りやセりフ廻しを取り入れた朗読術を考えたのであった。」と松本克平「日本新劇史」にあります。
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エロキューション【elocution】とは、
「演説・朗読や俳優の台詞(せりふ)などで、その効果を高めるための発声技術。話術。雄弁術。発声法。朗読法。台詞回し。」
のことだそうです。
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逍遥は、17歳(明治8年)の頃、愛知英語学校で外国人教師から「ハムレット」の抄文を教わって、外国にはそういう技術があることを初めて知りました。
その後、明治9年8月、愛知英語学校を卒業、選抜生となり開成学校(後の東京大学)に入学。開成学校の寄宿舎時代に、円朝の人情話や名優の声色の巧みな赤井雄等に影響され(河竹繁俊著「新劇運動の黎明期」より)、翌10年、九代目団十郎の舞台を見るに及んで驚嘆する、という過程を経て、彼自身の朗読術を確立させたとのことです。
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松本克平さん自身も、早稲田第二高等学校時代に学部の授業にまぎれこんで逍遥の講義を聞いたそうです。
「また、『ハムレット』『リヤ王』『ヴェニスの商人』の一部を課外の朗読会できくことができた。大隈講堂の、逍遥には大きすぎる演壇に向かい、うぐいす色の縮緬の風呂敷からテキストと扇子を取り出し、斜に構えて顎を引いて読みはじめるのだった。演壇の後方には吉江孤雁、会津八一、中桐確太郎といった教授連が二列に腰かけて耳を傾けていた」と、あります。
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よく知られるように、逍遥は弟子の島村抱月らと文芸協会を創立します。実際は第1次(明治39年)と第2次(明治42年)とがありますが、その辺は省略します。
第2次出発の際、逍遥は文芸協会の研究所のために自分の土地を無償で提供します。
鴎外は、こう言って拍手を送ったそうです。
「坪内君が住宅に舞台を構へて、舞や劇を興行せられると聞いた時、僕はヲルテエル(ボルテール)のやうだと思った。それから劇場を興されると聞いた時、僕はワグネルのやうだと思った。但し坪内君は王侯の助力を籍らずに遣られるから、えらい」(「中央公論」明治45年4月号)。
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やがて、愛弟子の抱月と研究生の松井須磨子と恋愛問題がおこり、須磨子を主軸に協会が回転し始め、大正2年に協会は解散となります。
その頃は、新劇が商売(興行)的にも成立する時代となり、新劇で食おうとなど思っていなかった研究生たちも帝劇や有楽座で人気を呼ぶようになっていました。
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逍遥は、自分の土地を売って協会の欠損を補填し、結局、700坪の土地の3/4を失ったそうです。
「かくて文芸協会は始めから終わりまで全的に逍遥の私財に依存したのであった。その仕事の偉大さ、逍遥の心中の悲痛さ、財政的犠牲の大きさを忘れることは出来ない。」。
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逍遥の奥さんについて、
「逍遥の妻センは以前根津権現裏大八幡楼の、源氏名を花紫という遊女だったからである。明治十七年、すなわち『小説神髄』を発表する前年、逍遥は十九歳の花紫と知り、その人柄と美貌とを愛して明治十九年、一度知人の士族の養女としてかたちをととのえ、センと結婚した。このとき逍遥二十七歳だった」(関川夏央「二葉亭四迷の明治四十一年」)。
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人を色眼鏡(差別の眼)で見ない人だったようです。
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「蟹工船」人気で昨年来脚光を浴びている小林多喜二も、酌婦だった女性を苦界から救い、お母さんと協力して自分の家に住まわせています。
ただ、逍遥は一生添い遂げましたが、多喜二の場合、女性(田口タキ)が多喜二の出世に関わるとして身を引き、添い遂げることにはなりませんでした。
しかし、多喜二虐殺の前まで連絡はあったらしく、遺骸が引き取られた時には駆けつけていますし、葬儀の際の香典は志賀直哉と同額であったとのことです。
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田口タキのその後は、澤地久枝さんが著書「わが人生の案内人」に書かれています。
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また、澤地さんは、多喜二が実質的に結婚生活をおくった伊藤ふじ子さんのことについても「昭和史のおんな」に一章を割いておられます。
田口タキ、伊藤ふじ子のお二人とも、その後幸せな人生をおくられたようです。

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