2009年5月13日水曜日

足利義明(小弓公方)と第1次国府台の戦い

足利義明(小弓公方)と第1次国府台の戦い
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足利義明は、第2代古河公方政氏の子で、第3代高基の弟。出家して鶴岡八幡宮別当となり空然を名乗る。
父政氏と兄高基が和睦した翌1510年、政氏に反旗を翻し、還俗して義明と名乗る。
この後、政氏と高基は再び反目し、関東足利氏は政氏、高基、義明の三者対立の状況となる。高基が政氏を破り古河公方を掌握すると、義明は高基を避けるため奥州に赴く。
1518年7月、上総の真里谷武田氏第5代の真里谷信保に招かれて下総の小弓城に入り、小弓公方を称するようになる。
これより先、上総の真里谷武田氏は、長く下総の小弓城主原胤隆と領土を巡り争い、真里谷武田氏が劣勢となっていた。真里谷武田氏は伊勢宗瑞(北条早雲)の支援を得て、原氏の小弓城、佐々木氏の真名城を手に入れる。真里谷武田氏は、更に、古河公方足利氏一族の義明を利用して、上総の諸勢力を掌握しようと画策し、一方の義明側は、古河公方の兄高基との対抗から、この信保の誘いに乗る。
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1519年、古河公方高基は、義明の権力強大化を抑えるため、義明を支援する真里谷武田氏の椎津城を攻撃。下総・結城氏、下総・千葉氏、常陸・羽生氏、常陸・菅谷氏(小田氏の代官)らが、高基側につく。
一方、1520年、小弓公方義明方は、千葉氏の居城・本佐倉城(常陸川を利用する流通拠点、下総での古河公方の最大の支援者)を攻撃。真里谷武田氏を中心に、安房・里見氏、下総・臼井氏らが、義明側に参戦。
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このような、古河公方・小弓公方の激しい対立は、関東諸勢力の争いに利用され、また真里谷武田氏、里見氏の内訌(家督相続争い)では、対立する2派が小弓公方、古河公方に夫々結びつく。
先に古河公方側にいた常陸・小田氏は、常陸で勢力を増しつつある土岐氏が古河公方の臣である関東管領上杉氏の被官であるため、一転して小弓公方に与し、土岐氏と対抗する。
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1533~34年、里見氏に内訌があり、これを巡り義明と信保が対立。1534年、信保は義明の勘気を蒙り出家し、同年病没。
信保没後、庶子の長男武田信隆と嫡男の次男武田信応(ノブマサ)との間で家督相続争いが始まる。
義明は信応を、武蔵へ勢力拡大中の北条氏綱は信隆を支援。
古河公方足利晴氏(義明の甥)は、義明や山内上杉家との対抗上、氏綱と同盟を結ぶ。
里見義堯は、北条氏綱と同盟関係を破棄し、小弓側に加わる。この義堯の離反により、信隆は居城峰上城を落され、武州金沢(横浜市金沢区)に逃れ、氏綱の支援を受ける。
小弓側は、房総を手中に収め、古河公方及び北条氏が進出した武蔵に向かい、氏綱との戦いに繋がる。
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1938(天文7)年春、小弓公方軍先鋒は市川(江戸川)右岸の下総国国府台に布陣、北条分国の武蔵を牽制。対する北条側は、江戸・河越両城を改修し対応。9月、義明率いる小弓公方軍約1万が国府台に着陣。副将は里見義堯と義明の弟基頼。
小弓軍の国府台着陣を知り、氏綱は、10月2日、嫡男氏康と共に軍勢2万を率い小田原を発し、江戸城に入城。6日には国府台に出陣。
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こうして第1次国府台の戦いが始まる。
10月7日、江戸川渡河を終えた北条軍と小弓軍は国府台の北の相模台(松戸市)で戦闘。戦闘詳細は諸説あるが、初め、小弓軍が優勢なものの、次第に数で勝る北条軍が押し始める。弟や息子の討死を知った義明は、自ら北条軍に突撃し戦死。
この戦いで、義明・基頼の他、逸見山城守など小弓方の武将は討たれ、小弓足利家は壊滅。里見義堯は退却途上、義明の遺児・侍女達を小弓御所から救出し、御所に放火。義明の室たちは、自害する者、出家する者があったという。小弓公方家の遺臣達の大部分は、里見家の家臣団に組み込まれる。
里見義堯は、真里谷氏支配下にあった久留里城・大多喜城などを占領、房総半島の大半を手中に収める。
北条軍は、小弓城・真里谷城を押さえ、真里谷信応を降伏させ、再び異母兄・信隆を真里谷氏当主とする。
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