2009年5月13日水曜日

天文7(1538)年 第1次国府台の戦い [信長5歳]祖父信定没す

天文7(1538)年 [信長5歳]
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この年
・北条氏康に男子(氏政)が誕生。
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・明智光秀、父明智光綱没のため、明智城主となる。祖父光継の命により叔父の光安が後見となる。
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・~天文11年、幕府内談衆大館常興の日記に若狭遠敷郡宮河保に関する公用銭収納にかかわる記事(未進の催促)。
遠敷郡宮河保は鎌倉期に国衙領、戦国期には幕府の料所となり、ここからの収納は、守護武田氏が請所として下地を支配し、年間2万疋(200貫文)の公用銭を上納する形になる。未進の原因は必ずしも守護方の抑留でなく、天災など不作が影響した模様であるが、下地支配は完全に武田氏が掌握し、幕府の当事者は催促を繰り返すしか術がない状況。
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・コロンビア、チプチャ族の国(コロンビア)、ゴンサーロ・ヒメネス・デ・ケサーダ、サンタフェ・デ・ボゴタ市建設
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・ペルー、セバスチャン・ド・ベラルカサール、フランシスコ・ピサロから独立するため、大部隊を編制して北方へ進みキラシンガ族・バスト族インディオと戦い勝利、コロンビア南部にカリ、ポパヤンの町を建設。
1539年2月ポパヤンから、さらにボカター(現ボゴタ)に着くと、既にヒメネス・ド・ケサーダが制圧、領有。次いで、ベネズエラのコロからはドイツ人ニコラウス・フェーデルマンがボゴタ高原地帯に到着。
フェーデルマンがボゴタ独占を狙い話は纏まらず、3人は1539年5月スペインに帰り、国王カルロス1世の裁断を仰ぐ。
ベナルカサールは1540年南コロンビアの統治権を入手しボバヤン総督として戻る。ケサーダは新グラナダ総督に任命されず、アロンソ・ド・ルーゴが総督に任命される。
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・ホンジュラス、イゲーラス金鉱山蜂起指導者レンピラ、アロンソ・デ・カセレス率いるスペイン軍との停戦交渉に臨んだところを謀殺。レンピラ死後、反乱は終息。
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・オスマン・トルコ帝国、紅海要衝アデンを征服。
インド香料の紅海ルートが再開され、16世紀中葉にはヴェネツィアの香料交易は完全に復活。ポルトガルの香料交易は衰退。
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1月1日
島津貴久、薩摩統一
島津貴久、加世田城の戦いに勝利(前年大晦日に夜襲、1月1日未明落城)。薩摩を統一。戦国大名島津家の基礎を固める。
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2月1日
・北条氏綱、鶴岡八幡宮に参詣。2日、武蔵から下総口へ出陣。扇谷上杉氏家臣大石氏の下総葛西城(葛飾区)を攻略、岩付城付近を放火。
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2月29日
・フェルディナント1世(34)とサーポヤイ・ヤーノシュ(50)が講和締結。
サーポヤイ・ヤーノシュ没後、ハンガリー全土をフェルディナントが支配することが定められる。ハンガリー再統一を嫌うオスマン・トルコがハンガリーに侵入。
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3月
・山科言継(32)、左兵衛督のまま参議に列せられ、翌月、参議兼左衛門督に改補。
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3月9日
・北条氏綱、伊豆の皮作職人(武具作りに不可欠の技術)を掌握 。
伊豆国中において「革作」21人を御用製革業者として指定、「御用のかわ」を「無沙汰なく」上納することを命じ、勝手に「人之被官になり」または「在所」を移すことを禁じて、犯す者は「可成敗者也」と厳命。
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3月13日
・鍋島直茂、肥後に誕生。
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3月18日
・ミシェル・セルヴェ、パリ大学医学部批判によりパリ最高法院で有罪宣告。陳弁により片付く。
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4月3日
・モスクワ公国摂政エレーナ(イヴァン雷帝母)、没。
大貴族ヴァシリー・シェイスキー公は、摂政政治を牛耳った者たちを粛清、政治犯(兄イヴァン・シェイスキー、イヴァン・ベリスキー)釈放。イヴァン・ベリスキーは権力闘争に参加するも逮捕。
シェイスキー一族のアンドレイが大貴族を牛耳る(イヴァン雷帝13歳の時に処刑)。
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4月21日
・フランシスコ・ザビエル(32)、ローマに着き、ボローニャなどで司牧活動し同志と共同生活。
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4月23日
・ジャン・カルヴァン、ギョーム・ファレル、ジュネーヴ追放。→ベルヌ→バーゼル。ギョーム・ファレルは7月下旬ヌーシャテルの町に赴任。ジャン・カルヴァンは招聘されてストラスブールへ。
「ジャン・カルヴァンの生涯」は別エントリにあります。コチラ
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4月27日
・日向、将軍家と伊勢氏から偏諱の祝儀が伊東氏に贈られる。29日、伊東家から偏諱の礼3万疋が幕府へ贈られる。
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5月16日
・北条氏綱、甲斐に進攻し吉田新宿を襲う。後、北条氏・武田氏の和睦成立。
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5月26日
・ジュネーヴ 市民会、カルヴァンとギョーム・ファレルの追放決議(改革は1536~1538の2年間)。
「ジュネーヴ教会規則」「信仰の手引き」を作成、一般市民の個人的生活に至るまで指導・監視を始める。新たな教会秩序と厳格な教義を確立しようとした最初の試み。リベルタン(自由主義者)の反感を買い追放。カルヴァン、シュトラスブルク(ストラスブール)に逃亡。
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6月
・若狭守護武田家、家督相続廻り内紛。これに絡んで有力被官・小浜代官の粟屋元隆が領国支配権奪取のため反乱。
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6月~7月、名田荘を拠点に粟屋元隆は小浜を攻撃。これに呼応して、西から丹後加佐郡の武士や大飯郡高浜の逸見氏が挙兵。東から朝倉氏に身を寄せる武田信孝が朝倉家臣山内氏を語らい若狭に迫る情勢(「天文日記」9月29日条)。
若狭の情勢は、禁裏料所の一つとして小浜から貢租を徴収する朝廷、若狭に料所を持つ幕府、所領を持つ公家・寺社にとって、看過できない事態。
7月下旬、元隆は名田荘を没落、丹波で態勢を立て直し若狭攻撃継続の構え。
9月、幕府は、丹波を支配する細川晴元に対し、家臣が元隆に同調するのを制止するよう使者を送る(「大館常興日記」9月8・10・13日条)。一方、越前朝倉氏に対しても武田信孝の乱入を制止するよう命じる(同、9月20日条)。
武田氏も、本願寺証如に対し、信孝に同調して朝倉氏が若狭侵攻の動きを見せる時は、加賀一向宗門徒を越前へ動かし牽制するよう申し入れ(「天文日記」9月29日条)。
10月、信孝は越前へ兵を戻す。武田信豊は、7月に自ら名田荘へ出陣、11月には家臣白井氏らを派遣して丹後加佐郡を鎮圧。
暮、小浜代官粟屋元隆の反乱、鎮圧。
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反乱後の施策:
武田信豊は、小浜代官に山県源三郎、名田荘には給人として梶清仲を任命(「天文日記」11月9日条)。遠敷郡で名田荘と同じく粟屋一族の拠点の宮川に庶子家の武田信高が入部。
また、粟屋光若を奏者として重用、粟屋氏の元隆系統を徹底排除。元隆が保護した長源寺には信豊の子の日感が入寺し、法華宗徒を監視。羽賀寺・万徳寺などを新たに祈願所に定め、密教に信仰を寄せる在地の人々の掌握を狙う。
元隆の反乱の際、武田氏・本願寺との連絡役として動いた一向宗妙光寺に対して、祈願所と同様に今後買得した土地について自動的に安堵される特権を保証、その保護を通じて国内一向宗門徒の懐柔を図る。
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6月4日
・六角定頼の軍、京極高広の近江鎌刃城を攻略。
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6月10日
・カトリック諸侯、シュマルカルデン同盟に対抗してニュルンベルク同盟結成
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6月12日
・スコットランド王ジェームズ5世、ギーズ公娘マリー・ド・ロレーヌと再婚。
1542年12月8日マリー、メアリー・スチュアートを出産(1542~1587)。イングランド・ヘンリー8世反撥。
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6月17日
・ニース条約締結。ドイツ・フランス間、10年間の停戦。フランソワ1世は新教徒弾圧を開始。
教皇パウル3世が発起人となり、皇帝カール5世・フランス王フランソワ1世とで3者会談。他の2人に押し切られることを恐れたフランソワ1世、3者会談を拒否。教皇・フランス王、教皇・皇帝の個別会談となる。
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7月
・備後守護山名氏政、大内義隆に神辺城を攻められ自殺。
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・武田晴信(18)、韮崎の河原で諏方・小笠原氏を破り、敗走させる。この年、嫡男太郎(義信)が誕生。
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・ペルー、ディエゴ・デ・アルマグロ(62)、ピサロと争い、サリーナスの戦いに敗れ、エルナンド・ピサロに捕えられ処刑。
1541年6月26日、アルマグロの子のアルマグロ・エル・モゾは、反ピサロ勢力の先頭にたちフランシコ・ピサロを暗殺。翌年、モゾはピサロ派により処刑。
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7月2日
・茨木長隆、京都松尾神社領守護役を免除(「松尾神社文書」)。
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7月9日
・細川晴元、大坂本願寺に「諸公事免許」制札を下す。
8月27日、大阪寺内に先に発令した徳政令は「大阪寺内相除」の下知。共に木沢氏の奔走によるもの。守護権の介入を排除し、領主の諸賦課を免れ、徳政適用を除外される治外法権。
この本山の特権、「大阪並み」により各地の一向宗寺内に拡大されてゆく。信長がこれの破砕を狙う。
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本願寺(証如)、かつて細川政元・養子澄元から獲得した大坂寺内に関する制札を提示して、晴元に「諸公事免許」の制札を要求し(「天文日記」天文7年5月14日条)し、この日これを獲得(同 7月9日条)。
守護反銭などの守護役を含む諸公事免除は、寺内町の商人・手工業者には死活問題で、これによって権力の「不入」が実現する。折衝にあたってほ、晴元の武将木沢長政・管領代茨木長隆の推挙が奏効(同 8月21日条)
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7月14日
・フランソワ1世とカール5世、エグ・モルトで会見。1542年迄4年間、友好関係維持。カール5世、ニースよりスペインへの帰途、ローヌ河口近くに漂着。それを知ったフランソワ1世、エグ・モルトにカール5世を招待。フランス王のサヴォワ領有、皇帝のミラノ支配を相互承認して和睦。
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7月19日
・諏方頼重・小笠原長時らの約1万、甲斐に侵入。
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8月1日
・ジャン・カルヴァン、ドイツ新教徒マルチン・ブッツェルよりストラスブールで亡命フランス人を組織して新教会設立するよう招聘。9月より説教開始。
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9月
・比叡山延暦寺衆徒ら、山城国の段銭賦課の停止と法華宗禁圧の要求を合議。
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・小弓公方足利義明軍本隊約1万、下総国府台に着陣。副将は里見義堯と義明の弟基頼。
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9月1日
・本願寺(証如)、徳政令免除の制札を獲得(「天文日記」天文7年9月1日)。
この時期に、守護細川氏によって摂津闕郡の在地徳政が施行され、郡代山中藤左衛門より通告(「天文日記」天文7年5月7年10日)。
証如は、これに対応して徳政令適用免除の要望を提出し、木沢氏・山中氏を通じての折衝の末、徳政適用免除の制札を獲得。
幕府の発する一国平均の徳政、郡・荘郷単位の在地徳政など、度々の徳政令は、商人らに打撃を与え営業活動を一時的に断絶させる。
徳政令適用除外の権限獲得は、商取引を安定化し、危険負担を除去する上で、寺内町商人の切実な要望で、その繁栄を共有する本願寺にとっても必要不可欠な問題。
証知は、文言が山中の主張に基づき「殊に寺内においては免除せられ訖んぬ」となっている点に不満を示し、「大坂寺内においては、たとへ郡中共たりといヘども、免除せられ詑んぬ」という訂正案を引き出し、なお「分別し難し」と述べる。
この問題は、徳政適用除外の通用範囲に関連する問題で、証如は寺内住民の要望を踏まえ、属人主義の立場から寺内住民の寺内の内外での取引行為への適用を図っていると考えられる。
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この年、大坂寺内が諸公事免許と徳政適用除外の権限を細川晴元政権から獲得したことは、それ以外の寺内町への波及を必然化させる。
天文10年には久宝寺・西証寺への制札(「飯尾上野判形」)がもたらされ(「天文日記」天文10年12月15日条)、再建された堺御坊(信証院)について、天文20年に諸公事免許の要望が晴元に提出(同 天文20年12月19日条)。
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9月1日
・美濃守護代斎藤利良、没。長井新九郎(斎藤道三)、斎藤家を乗っ取る
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9月8日
・足利義晴、細川晴元の山城国段銭賦課を停止(「大館常興日記」)。
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9月22日
・オスマン・トルコ、スレイマン1世、イオニア海東岸アルタ湾口プレヴェザ要塞を包囲
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9月27日
・プレヴェザの海戦。
イオニア海東部プレヴェザ沖、アンドレア・ドリア率いるスペイン、ベネチア、ローマ教皇連合艦隊(戦艦308隻、人員6万)と元バルバリア海賊・帰順提督ハイレッディン・バルバロス率いるオスマントルコ艦隊(ガレー船122隻、人員2万)の海戦。オスマン艦隊の奇襲に連合艦隊敗走。
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10月2日
・北条氏綱、嫡男氏康と共に軍勢2万を率い小田原を出立。5日、江戸城に入城し軍議。6日、下総国府台へ出陣。
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10月7日
第1次国府台の戦い
北条氏綱・氏康父子(2万)、下総国府台(市川市)にて里見軍1万(足利義明・里見義尭)に勝利。北条方は山中修理亮が活躍。小弓公方足利義明(古河公方足利政氏の次男)戦死。里見義尭は安房方面へ敗走。これを機に上総土気の酒井氏や上総真里谷の武田氏は北条方に与する。
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9日、北条氏綱、小弓城に入る。10日、上総の中島(木更津市)に布陣、近辺を放火。足利義明に追われて武州金沢に在宿の武田信隆と小弓城を奪われて武蔵浅草にいた原胤栄も参陣。信隆は峰上城、胤栄は小弓城に返り咲く。小弓公方家没落によって房総情勢は一変。11日、小田原で合戦の祝儀。23日、鎌倉に帰る。
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(参考)足利義明
http://mokuou.blogspot.com/2009/05/1.html
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11月2日
・織田信長の祖父織田信定(尾張勝幡ショバタ城主)、没(生年不詳)。
(参考)織田家のルーツ
http://mokuou.blogspot.com/2009/05/blog-post_13.html
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11月27日
・幕府、酒麹売買について手塚帯刀を糾問(「親俊日記」)。
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12月10日
・証如、若狭武田氏の合力要請に対し、斯波勢などが越前侵攻する場合は加賀の斯波系牢人衆を誘うだろう、これを黙認することは本願寺として合力に相当するはず(「天文日記」同日条)と、前向きに答える。
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to be continued

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