2010年4月10日土曜日

本能寺の変(8) 天正10年(1582)6月2日 宣教師ルイス・フロイスが記録する本能寺の変

天正10年(1582)6月2日
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イエズス会宣教師ルイス・フロイス:
1532(天文元)年、ポルトガルのリスポンに生まれる。王室秘書庁で働き、1548年2月(か3月)、16歳でリスポンでイエズス会に入会、3月、インドに向かい、10月9日にゴアに到着。ここで日本人ヤジロウ、日本に向うフランシスコ・ザビエルに出逢う。
日本伝道を志し、1554年、べルショール・ヌーネスと共にマラッカに赴くが渡日できず、1557年にゴアに戻る。
1561年、司祭となり、学院長や管区長の秘書として仕えるが、上長は彼の才能を認め、1559年(27歳)、総長宛の報告書で、「あらゆる文章の仕事に優れ、判断力優秀、天性語学的才能あり」と記す。彼はゴアの管区長の許で各地から届くヨーロッパ向け報告書を取り扱うことを担当しているため、日本の事情に通暁することができた。
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1563年7月6日(31歳)、ようやく西九州の横瀬浦(現、長崎県西海市)に上陸。横瀬浦の破壊後、平戸近くの度島に避難し、ここで1ヶ月、病気と闘い、同僚から日本語および日本の風習を学び、1564年には平戸、口之津に転じ、京都に向かう。
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1565年7月6日に入京し。しかし、保護者の足利将軍義輝が殺害され、堺、尼崎、河内の各地で孤軍奮闘することとなる。1568年、信長が入京すると、翌年、二条城建築現場で信長と対面、信長から畿内での普及活動を許され、以降、信長からは大いに寵愛される。
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1576年12月31日、オルガンティーノに中部日本布教長の職を譲り、その後は豊後の臼杵を本拠として過ごす。
1582年3月、巡察師ヴァリニャーノの通訳として五畿内を訪れ、信長から絶大な歓迎を受ける。またこの年5月、巡察師命により越前北庄(福井)へ赴く。
同年秋、九州に移った後の1582年6月、本能寺の変が惹起する。
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彼は九州の日本副管区長の許で、ヴァリニャーノの改革による日本年報の執筆者となる。
1579年、イエズス会員マフェイが、ポルトガル国王ドン・エンリケの依嘱によって『ポルトガル領東インド史』編集に着手すると、既にインド・日本からの通信者として知られるルイス・フロイスを想起し、彼を布教の第一線から退かせ、日本の布教史の著述に専念させるようイエズス会総長依頼する。
総長はこれを承諾し、インド管区巡察師ヴァリニャーノに指令を発す。
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1583年(天正11)、フロイスは日本副管区長ガスバル・コエリェから「日本史」編述の命を受け、翌1584年には、長崎で第1部のうち「日本総論」を脱稿、翌1585年6月14日には、「日欧風習の対照」を加津佐で執筆。
さらに翌年3月、「日本史」第1部の殆どを完成させた頃、副管区長の伴侶として五畿内を旅行し、大坂城では関白秀吉に謁見を許される。そして帰路、下関滞在中の1586年12月30日、「日本史」第1部を完成させる。
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1587年7月、秀吉が「伴天連追放令」を発布、副管区長は在日宜教師たちに平戸集結を命じる。
フロイスは、平戸に赴き、副管区長と共に有馬(1588年)、加津佐(1589年)に至る。
1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見。
この年から長崎に定住し、もっぱら「日本史」第2部完成に努め、1592年夏までに、1589年までを書き終える。
1592年10月9日、巡察師ヴァリニャーノに伴われてマカオに赴く。
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翌年1月18日と11月12日付の総長宛の自筆書簡で、彼は、もっぱらヴァリニャーノの書記として執筆を続けていること、健康状態が悪いこと、巡察師は、マカオにおいて「完成した・・・日本史」を推敲し検閲するために持参させたにもかかわらず、多忙を理由にそれを果さず、より短いものに纏めるようにと要望する、だが自分には不可能である、どうか原型のままでローマに送付できるよう総長のご尽力を乞う、自分の余命はいくぱくもない、と悲観的に懇願。
1895年、フロイスは長崎に戻る。朝鮮侵略、関白秀次の死、フランシスコ会宣教師の渡来、26聖人の殉教など、重大事件が相続き、1595、6年度「日本年報」執筆後、1597年3月15日付け「二十六聖人殉教事件」報告書をもって文筆活動に終止符を打つ。
同年7月8日、長崎に没す。65歳。
「日本史」第3部は、1595、6年の項まで進んでいたと認められる。
上長のヴァリニャーノは、「日本史」は余りに冗漫に過ぎるとして、ヨーロッパへの送付を許可せず、フロイスは絶望のうちに没する。
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「日本史」第1部は、「日本六十六国誌」および「日本総論」1巻と1549年~1578年の編年史、第2部は1578年~1589年、第3部は1590年以降の編年史で構成されている。
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フロイスが「日本史」と題する大著をものしたことは早くから知られていたが、原著はマカオのイエズス会学院内の書庫で埋もれたままで所在は知られていなかった。
18世紀、ポルトガル政府が海外にある同国関係文書を謄写させた際に出現するが、原稿は再び放置され、やがて湿気と虫や鼠のために破損し、1835年1月26日、学院の火災により焼亡するに至る。
従って、今日のフロイス「日本史」はこの18世紀にマカオで作製された写本によるものである。
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■「日本史」の記述
■「聖体の祝日後の水曜日(二十日)の夜(正しくは西暦6月21日、和暦6月2日)、同城(亀岡城)に軍勢が集結していた時、彼(光秀)は最も信頼していた腹心の部下の中から四名の指揮官を呼び、彼らに対し短く事情を説明した。
とりわけ、彼は自らを蹶起させるやむを得ぬ事情と有力な理由があったので、信長とその長子を誤つことなく殺害し、自らが天下の主になる決意であることを言い渡した。そして、そのために最良の時と、この難渋にして困難な仕事に願ってもない好機が到来していることを明らかにした。
すなわち、信長は兵力を伴わずに都に滞在しており、かような(謀叛に備えるような)ことには遠く思い及ばぬ状況にあり、兵力を有する主将たちは毛利との戦争に出動し、更に彼の三男は一万三千、ないし一万四千の兵を率いて四国と称する四カ国を征服するために出発している。
かかる幸運に際しては、遅延だけが(考えられる)何らかの心配の種となりうるであろう。
すでに危険を(家来たちに)託し、この計画を明白に打ち明けたからには、彼らに与えらるべき報酬は、特に彼らから期待される勲功と協力にすべて準じ、対応したものになるであろう、と語った。」
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■「ところで明智はきわめて注意深く、聡明だったので、もし彼らの中の誰かが先手をうって信長に密告するようなことがあれは、自分の企ては失敗するはかりか、いかなる場合でも死を免れないことを承知していたので、彼はただちに自らの面前で全員を武装せしめ、騎乗するように命じて真夜中に出発し、暁光が差し込む頃にはすでに都に到着していた。
更に明智は、自らの諸国と坂本の城砦を堅め、よく修理するように命じ、不在中、何らの騒動も生じないよう城内を絶えず監視するように言いつけた。そして都に入る前に兵士たちに対し、彼はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃にセルべ(serpe、火器の部品)を置いたまま待機しているようにと命じた。」
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■「それはすでに述べたように一五八二年六月二十日、水曜日のことであった。
兵士たちはかような動きが一体何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づき、その義弟である三河の国王(家康)を殺すつもりであろうと考えた。
このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達するや、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。
ところでこの事件は街の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こった何らかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。
我らの教会は、信長の場所からわずか一街を隔てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこの方に来て、折から早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。
間もなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。」
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■「明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当っていた守衛を殺した。
内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。
そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出て来た。
そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。
だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかはわかっていない。
我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪と言わず骨と言わず灰塩に化さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上に何ら残存しなかったことである。」
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■フロイスが1582年11月5日付けでイエズス会総会長に送った報告(「イエズス会日本年報」)
ここでは、南蛮寺には、司祭カリヤンらがいて、銃声が聞こえ、炎が上がるのが見え、明智が信長に叛いてこれを囲んだという知らせが届いたと、いう。続いて、本能寺の戦い様子が記される。
「明智の兵は宮殿の戸に達して直に中に入った。同所ではかくの如き謀反を嫌疑せず、抵抗する者がなかったため、内部に入って信長が手と顔を洗ひ終って手拭で清めてゐたのを見た。而してその背に矢を放った。信長はこの矢を抜いて薙刀、すなわち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に弾創を受けてその室に入り戸を閉ぢた。或人は彼が切腹したと言ひ、他の人達は宮殿に火を放って死んだと言ふ。」
「我等の知り得たところは、諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰したことである」。
宣教師たちは、信長が、布教活動に好意的な半面、自身を神格化し始めたことに対して冷淡で、信長の死はその騒慢に対するデウスの罰であり、「その体は塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られた」という。
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本能寺と南蛮寺の位置関係はコチラ
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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