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*二条殿址
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*本能寺址
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*南蛮寺址
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一番上は、京都の烏丸御池交差点(北東角)にある石碑。銘文は、「烏丸御池遺跡・平安京跡」とあり、以下・・・
「この交差点付近は、縄文晩期~古墳時代の土器が多数出土することから、有史以前より集落が営まれていたことが推定され、地名をとって烏丸御池遺跡と呼んでいる。
この碑が建つ地点は、平安京では左京三条三坊十四町と十五町の間の三条坊門小路にあたり、付近は当時の一等地であった。中でも交差点北西角の地には、後鳥羽上皇の押小路殿に始まる著名な園地があり、そのため三条坊門泉殿などの別名で呼ばれていた。今、ここを東西に走る御池通は、神泉苑の前を通ることに因むというのが通説だが、『坊目誌』ではこの泉殿の園地に由来するという説が掲げられている。
その後も付近は高級住宅街として、足利一門の邸宅が存在したが、戦国時代には、この辺りにも砦や城が幾つも構えられ、泉殿の跡には織田信長の宿館が作られた。これらは本能寺の変の際にもその舞台の一つとなったと伝える。
江戸時代になると、金座・銀座などが集中して金融街へと変貌し、その賑わいは、現在でも近代建築の多く残る三条通や烏丸通のオフィスビル群に見ることができる。」
とあります。
この「信長の宿館」というくだりが、三つの二条城の二つ目にあげる所以です。
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天正元(1573年)、信長は将軍義昭の旧二条城を攻め、義昭追放後これを破却。天正4(1576)年、自らの在京屋敷として、二条殿を立ち退かせ、「二条御新造」を築城。
この辺りは江戸時代には金座・銀座があり(石碑は後ほど紹介します)、通りの名前も両替町通りです。しかし、町名は、二条殿町・龍池町・御池之町があり、二条殿の石碑(上から2,3番目)のある場所には龍池小学校(烏丸御池上ル、現在は廃校)があります。これらは二条殿の「龍躍池」にちなんだもののようです。
信長は3年後には正親町天皇の皇子の誠仁親王にこれを献上、二条御所となりますが、天正10年の本能寺の変の際、信長嫡男信忠はここで自刃、二条御所は焼失する。
信忠はこの二条御所の隣にある二条妙覚寺宿泊してまして、急報を聞き本能寺に駆けつけようとしますが、京都奉行村井貞勝に押し止められ、二条御所に籠ることになります。しかし、明智軍は、二条御所の隣の近衛邸お屋根に上りここから火矢を放ったとのことで、防戦敵わず自刃となったようです。
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ということで、旧本能寺跡の石碑も仲間に入れました。
2 件のコメント:
私も当初、今の本能寺の位置が天正期の本能寺と同じ場所にあると勘違いして友人にたしなめられたことがあります。何もこの本能寺に限らず、京都の区画は平安時代の頃と大きく変わっており、そうした違いを辿ったりしたこともありましたがいろいろと違いを比較できて面白かったですね。
京都関連の記事ばかりにコメントさせてもらっていますが、その他の記事もいつも読ませてもらっています。特に年表についてはその詳細さに毎度舌を巻かされ、南京戦については私の専門範囲である中国に関連する内容なだけにとても勉強になっています。
いつもコメント有難うございます。退屈な内容につきあって戴いて非常に恐縮です。なるべく面白くするよう工夫しますので、息長くおつきあい下さい。
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