2011年12月4日日曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(10) 「九 庭好む人 - 焚き火と掃葉」

東京 江戸城東御苑(2011-11-24)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(10) 
「九 庭好む人 - 焚き火と掃葉」
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麻布:
高台は屋敷町、下は商人町という特色を持っている。
震災後も麻布の高台は「こんもりとした森や林」が残る静かな町。
しかも郊外ではなく、銀座から30分ほどのところに位置する。

「夜帰る」(随筆集「寫況雑記」大正10年)
「悔恨と憂悶と希望と妄想と、あらゆる中年の感慨は雲の如くに叢り湧く。
わたしは此の沈痛なる深夜の感慨をよろこぶ。
此の感慨あるが為めに深夜獨り帰る時わたしの書斎ほどわたしの身に取つて世になつかしく思はれる処はない

大正10年9月15日
「雨歇まず。蟋蟀(こほろぎ)いつか長椅子の下に潜み夜をも待たず幽かに鳴く音を立つ。
平素書斎の塵を掃はざるもこの一徳あり。
獨居の幽趣亦棄つべきにあらず
明夜は中秋なりといヘど思ふに月無かるべし。
枕上クローデルの戯曲ペールユーミリヱーを読む」

大正14年12月21日
「風雨と共に寒気亦甚しく書窓黯澹たり。
午後に至るも手足の冷るを覚えたれば、臥牀に横りてプルーストの長篇小説を読む中、いつか華胥(かしよ)に遊べり。
既にして鄰家読経の声に夢寤(さむ)るや、空霽れわたり、窓前の喬木に弦月懸りて、暮靄蒼然、崖下の街を蔽ひたり。英泉が藍摺の坂画を見るが如し。
是同じ山の手にても、大久保の如き平坦の地に在りては見ること能はざる光景にして、予の麻布を愛する所以なり
抑今日のごとき寒雨の日、くうかく雞犬も屋外に出ることを好まざる時、終日獨爈邊にかこむ圓座し、心のまゝに好める書を読むことを得るは、人生無上の幸福にあらずや。
是畢竟家に恒産あるがためと思へば、予は年と共にいよいよ先考の恩澤に感泣せざるを得ざるなり」

「腕くらべ」(大正5~6年)
脇役の、根岸の里に佗び住まいする初老の劇作家倉山南果が〝庭を愛する人″として荷風によって好ましく措かれる。

「濹東綺譚」
残暑の日盛り蔵書を曝すのと、風のない初冬の午後庭の落葉を焚く事とは、わたくしが獨居の生涯の最も娯しみとしてゐる処である

「日乗」でも実にしばしば、落葉を掃っている。

「庭の落葉を掃ふ」(大正9年10月15日)、
「庭を掃ふ」(大正13年4月23日)、
「午後小園の落葉を掃ふ」(同年11月19日)、
「掃庭半日」(大正14年3月21日)、
「曇りて風なし。落葉を掃ふ」(同年11月12日)、
「今日も風静なるを幸落葉を焚きて半日を消す。毎年立冬の後、風なき日を窺ひ落葉を焚きつゝ樹下に書をよむほど興趣深きはなし」(同年11月22日)、
「昨日の烈風に落葉庭を埋む。掃うて焚く」(同年12月3日)、
「掃き清めたる庭に山吹と楓の落葉すこしばかり散りたるを、責餉の後掃寄せて焚く」(同年12月15日)
……と、実に掃葉の記述が多い。

昭和に入ってからも、戦時下の昭和19年秋、
「庭の落葉を焚く」(9月10)、
「庭の落葉を焚く」(9月14日)、
「掃庭半日」(10月11日)、
「庭に出で枯枝を焚きて飯を炊き得るなり」(11月13日)。

程よい焚き火の方法。

大正14年11月22日
荷風が焚き火と掃葉にこだわったのは、それが江戸の詩歌文人の静かな趣味であったことを知っていたから。

随筆「葷齊漫筆(くんさいまんぴつ)」
鴎外「伊澤蘭軒」のなかに、蘭軒が、庭を掃うのは必ず自分の仕事とし、家僕にはさせなかったことを知り、それに共感を覚えるくだりがある。
蘭軒が自ら箒をとったのは、園丁にまかせると、価値ある庭木には心をとめるが、名もない雑草のことはかえりみないからだという。

大正14年11月16日
「毎朝二階を掃除して後、暇あれば庭に出で草を抜き葉を掃ふ時、必思出すは伊澤蘭軒が掃庭の絶句なり」。
「伊澤蘭軒が掃庭の絶句」は、庭を掃うのは園丁ではなく自分の什事にしていることをうたった詩。

「荷風の庭好きはだから極端にいえば、言葉(文化)としての庭好きであって、実際に、庭や草花が好きというのとは少し違う。
現実の庭いじりよりも、荷風にとっては、日記に「庭の落葉を掃ふ」「雨の晴れ間に庭の雑草を除く」と書き記すことが大事なのである。
事実、本当に庭好きならば偏奇館の庭はいつもきれいに整えられている筈だが、実際にはそうではなかった。・・・」(川本)

「荷風にとっては実際の庭というより、言葉のなかの「庭」が大事だった。
庭いじりそのものより、文人趣味として庭いじりを語ることが大事だったのである。」(川本)

昭和17年夏に偏奇館を訪れた結城信一は、庭は「余り手入れもしてない」としている(『作家のいろいろ』)。

昭和19年に訪れた正岡容は、「アツシャ家の光景」さながらだったという印象を記す(『荷風前後』)。

鴎外の娘の小堀杏奴の随筆「火吹竹」(「図書」昭和37年12月号)。
大正11年に鴎外が亡くなったあと母親(鴎外夫人志げ)が、偏奇館を訪ねたときの言葉。
「荷風先生という方はとても変った方だよ。立派なお邸に住っていらしって、優しく、丁寧なものごしの方だけど、その御家の荒れていること、雑草がもう背よりも高く茂ってて、まるでお化け屋敷のようだったよ
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