2011年12月4日日曜日

永禄11年(1568)9月 信長の上洛軍、破竹の進撃、近江を平定し入京 [信長35歳]

東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-30)
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信長の上洛軍が入京した 北白川 山中越え

永禄11年(1568)
9月
・信長、美濃加納へ全3ヶ条の定(楽市令)を下す(「圓徳寺文書」)。


他、以下に宛てて全3ヶ条の禁制を下す。
嵯峨郷清凉寺、近江沖島、近江永源寺、京都某所(上京宛か)、山城吉田郷、京都紫野大徳寺ならびに門前町、京都紫野大徳寺中・門前、山城八瀬荘、洛中余部某所、山城賀茂別雷神社境内6郷、山城若王子神社等、山城大山崎、山城妙心寺、山城南禅寺及び門前町、近江新知恩院、山城清水寺及び門前町、山城東寺及び境内、山城西八条遍照心院、山城本能寺、山城妙伝寺、山城妙顕寺、摂津尼ヶ崎本興寺、山城「八瀬」童子。

「定 加納 
一、当市場越居の輩、分国往還煩有へからす。并、借銭・借米・さかり銭・敷 地年貢・門みな諸役、免許せしめ訖。譜代相伝の者たりといふとも違乱すへからさる事。 
一、楽市・楽座之上、諸商売すへき事。 
一、をしかひ・狼籍・喧嘩・口論・使入るへからす。并、高を取り、非分申かくへからざる事。 
右条々、違背の族に於ては、成敗を加ふへき者也。仍て下知件の如し。 
永禄十一年九月日                   花押(信長)」(「制札」)
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・吉川元春・小早川隆景ら、豊前三岳城に長野弘勝を攻略、弘勝自刃。
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・オラニエ公ウィレム1世、軍隊3万(騎兵9千)を編成。
ルーメイ・ウィレム・ファン・デル・マルク伯の部隊も参加。
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・サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い。
カリブ海、スペイン領サン・ホワン・デ・ウルーア島に退避した英商人ジョン・ホーキンズ船団にスペイン船団12隻が攻撃。英本国に帰還できた者は15人のみ。
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9月2日
・三好康長3千余、西京辺に進撃。
3日、松永久秀の籠もる大和多聞山城の西北側を攻撃。筒井順慶は東側より攻撃、程なく攻略。
4日、三好三人衆軍、東大寺辺の久秀軍を攻撃し諸郷に放火、その後に西京へ進撃。
5日、帰陣。
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9月5日
・信長、岐阜に軍勢再結集。
7日、濃尾勢三4州の軍兵6万(「尾・濃・勢・三 四ヶ国の軍兵を引率し)、義昭を奉じて岐阜進発。平尾村(岐阜県垂井町)泊。

8日、彦根南方高宮(彦根市)で浅井長政(24)合流。
11日、.高宮進発、愛智川渡り野陣。

「尾州より織田上総介、江州中郡へ出張すと云々。仍て今朝石成主税助坂本まで罷り下り了んぬ。」(「言継卿記」)。
山科言継はこの年62歳。
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9月6日
・松田秀雄・諏訪俊郷、美濃国立政寺へ禁制を下す(「立政寺文書」)。
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9月12日
・佐久間信盛・木下藤吉郎・丹羽長秀・浅井新八郎4将、六角氏の城砦群の最も奥にある六角一族山中山城守の箕作城(神崎郡五個荘町山本、六角承禎親子が篭る観音寺城に近接)を攻撃
(「信長公記」に初めて藤吉郎の名が出る)。

攻撃開始は申刻(午後3時過ぎ)、夜半に陥落。和田山城城主田中治部大夫逃亡。日野城の蒲生賢秀を降す。六角承禎父子、居城観音寺城(安土町)より石部へ逃亡

翌13日、信長は観音寺城に無血入城。
近辺の寺社・村に動揺を鎮め逃散した者に戻るよう呼掛け
(柴田勝家・森可成・坂井政尚・蜂屋頼隆4将が担当)。

六角家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田勝正・平井・九里ら7名が裏切る(「言継卿記」)。

信長所領となって間もない美濃将士は先手として追い使われると覚悟していた。
しかし、戦が始まると、信長は美濃衆などに構わず馬廻りだけで攻撃を開始。
思いもよらない戦の仕方に、美濃三人衆などはただ驚くばかり(「信長公記」)。
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9月13日
・三好政康・香西某3千、木津平城へ入城。
16日、西京に引き返す。
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9月14日
信長、近江平定
この日(14日)迄に18支城全て開城(人質を差出させ所領を安堵)。
柴田勝家・坂井右近・蜂屋頼隆・森可成、近江政治奉行とする。
信長、義昭を迎える使者(不破光治)を美濃立正寺に送る。
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9月14日
・正親町天皇、信長に、入洛を了承し、京都での乱暴を禁じ、禁裏警固兵配備を下命する左中弁経元奉書綸旨(「激励綸旨」)を与える。
これと同時に、万里小路惟房書状も信長に出される
(「綸旨は京都の治安と禁中警護を命じている。奉行右筆明院良政が伝えるであろうし、磯谷久次・立入宗継に天皇の仰せを詳しく申し合わせる。」)。

この時点では、
①信長は未だ観音寺城に、
②義昭は美濃立政寺に、
③将軍義栄は高槻の普門寺にいて、
④将軍義栄に近い山科言継は信長を「敵」と呼ぶ段階。


この段階で、義昭・義栄の権力闘争と無関係に、信長の上洛を全国制覇の第1歩と確信したことを示す。
信長の全国制覇を信じて、激励綸旨を与える画策は吉田兼右に繋がる磯谷久次・立入宗継ではないか(立花京子)。  

天皇は、義昭ではなく信長を主体と認め、別個の交渉相手として対応すべきとの認識を持つ。
天皇は、年初に三好三人衆に擁立された義栄を14代将軍に任じており、義昭・信長に対して苦しい立場にある(幸い、義栄は病気で急没)。

また、上京・下京の惣町、洛中洛外の寺社などは、信長から禁制を獲得している。
禁制     下京
一、当手軍勢濫妨狼籍のこと、
一、陣執り、放火のこと、
一、非分の族申し懸くのこと、
右条々、違犯の輩においては、すみやかに厳科に処すべきものなり、よって執達くだんのごとし、
永禄拾一年九月日
弾正忠 判
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9月14日
・この日の「言継卿記」。
「六角入道承禎の城落ちるとうんぬん、江州ことごとく焼ける」
(観音寺山城落城の報が翌日には届いている)。
織田軍の近江制圧により京中は終夜騒動(「京中辺土騒動なり」)。

山科言継は、子の言経・薄以継(言継3男で薄家を継ぐ)に指示し、山科邸家財を禁中の内侍所・台所や薄家へ運ぶ。山科言継は信長を「敵」と表記(「言継卿記」)。

将軍義栄宣下に関わった為、関白近衛前久・参議高倉永相・水無瀬親氏らは京都を出奔、中納言勧修寺晴右は籠居に追い込まれる。
山科言継も処罰を受ける恐れはあったが、義昭の元服装束のことで協力するなど、双方に保険をかけており、入洛する義昭の勘気は免れる。
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9月15日
・信長、近臣不破河内守を立政寺足利義昭迎えに差向ける。
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9月15日
・大友宗麟、マカオ滞在のニセアのカルネイロ司教に、印度総督への硝石200斤輸入の斡旋を依頼。
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9月18日
・細川藤孝、西養坊へ義昭入洛に際し「先規」の如く参陣するよう通達(「富田仙助氏所蔵文書」)。
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9月18日
・スウェーデン、有力貴族が蜂起。エーリク14世を逮捕・幽閉。
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9月21日
・信長、柏原(山東町)の上菩薩院に着陣。
22日、桑実寺(安土町)へ入り。ここで信長・義昭が合流。
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9月22日
・朝廷、皇室領の山科郷民・上賀茂・下賀茂郷民に禁裏警固を命令(「御湯殿上日記」)。
23日、中山孝親・山科言継・勧修寺晴右・庭田重保・五辻為仲を禁裏警備の責任者とする(「言継卿記」)。
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9月22日
・信長、近江百済寺へ全3ヶ条の「条書」下す(「百済寺文書」)。
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9月23日
・信長、三井寺に出陣。
足利義昭、守山着。
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9月23日
・関白近衛前久、信長入京を避けて大坂へ出奔。
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9月23日
・諏訪晴長・飯尾貞遙、山城賀茂郷の諸侍へ義昭入洛にあたり忠節を尽くすべきことを通達。
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9月23日
・毛利元就、足利義昭へ周防・長門・出雲・伯耆のうち1千貫文の土地献上を約す。
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9月23日
この日の「言継卿記」など。
「織田弾止忠、今日三井寺へ出張るとうんぬん、先勢山科七郷へ陣取り」(「言継卿記」4)。


多聞院英俊、この日「京辺土」へ細川藤孝・和田惟政を「大将」として「江州裏帰衆」1万余が上洛したことを知る(「多聞院日記」)。


信長軍の実際の進軍は「信長公記」より少し早い。
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9月24日
・信長、湖上より瀬田着。
25日、三井寺極楽院泊。軍勢は大津の松本・馬場に宿陣、義昭は三井寺光浄院泊。
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9月24日
・小泉島介(西院)・和久壱岐守(九条)、早旦に城に火をかけ南方へ退却。
柳本某、丹州より出張し嵯峨川端の太秦を放火し、大将軍まで進撃。(「言継卿記」)
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9月24日
・毛利元就、部下の佐藤元實・井上就貞らに高橋、秋月に兵粮米を送ることを命じる。
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9月25日
・箸尾氏、十市郷五ヶ所を焼く。
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9月25日
・『言継卿記』9月25日条には、
「尾州の足軽二、三騎」が言継屋敷の近所まできて、「禁裏御近所の儀、かたく申しつけそうろう」(内裏周辺の警固を信長が命じた)
と伝えられている。
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9月26日
信長、入京
織田信長6万、足利義昭を奉じて入京。


織田軍、朝、山科郷より南方へ出張。
北白川よりも同様に別働隊が進軍。


この日、足利義昭が清水寺に布陣、信長は東寺に布陣。
山科郷粟田口西院の方々で放火、久我で合戦があったという(「言継卿記」4)。


信長、洛中法制を制定(「続史愚抄」)。


義栄は阿波に退く。


光秀、公家衆との交渉に当たる。 

「早旦より尾州衆出張す。山科郷より南方へ通り了んぬ。北白川よりも同じく出ずる人数これあり。細川兵部大輔(藤孝)・明印(明院良政)ら北門まで参る。今日武家清水寺まで御座を移さると云々。織田弾正忠信長東寺まで進発すと云々。山科郷・粟田口・西院方ニ放火、久我に於いて軍(イクサ)これありと云々。左右方多く討ち死すと云々。石成主税助友通の城勝隆(竜)寺に於いて同じく合戦これありと云々。」(「言継卿記」同日条)

山科を通って入京した軍勢は、京都七口の一つ、汁谷口(しるたにぐち、渋谷口)から洛外に入り、そして鴨川に架かる五条橋を渡って洛中に入ったと推測される。
北白川より入京してきた軍勢も、おそらく京都七口の一つ、北白川口(今道越、あるいは山中越)から洛外へと入り、鴨川を渡り人京したと思われる。

内裏警固の細川藤孝・明院良政については、「三淵兵部大輔(細川藤孝)・明院参られて、織田上総仰せつけられ、御警固かたく申しつけられそうろう」と宮中の女官の日記『御湯殿上日記』にも見える。

同行していた浅井長政は北近江に戻る。

この頃の信長の武将達:
柴田勝家、佐久間盛信、森可成、坂井政尚、蜂屋頼隆、丹羽長秀、木下秀吉、明智光秀、中川重政、滝川一益。明智・中川は上洛前に抜擢。  

応仁・文明の乱以降、中央政界の覇者は、将軍候補者の足利氏血族の誰を担ぐかが第1条件。
信長は2回の決勝綸旨(天皇からの上洛命令)を受けるが、上洛には義昭を「錦の御旗」利用。

義昭のゴールは、義輝の後継者となり幕府を再興すること(義昭の目指す幕府再興は、義維・義栄父子に対抗する義晴・義輝流の当家再興のこと)。
義昭保護は、義維・義栄父子、三好三人衆、松永久秀と戦うことになる。  

足利義維(よしつな)・義栄(よしひで)父子と義輝・義昭兄弟の争い
①義晴(播磨守護赤松義村に託されここで養育)。
②義維(阿波の三好氏が後援、10代将軍義材(義尹・義稙)の養子となる)、母は細川成之の娘・室は大内義興の娘)三好三人衆・松永久秀は義維を担いで、自らの勢力伸張の正当性とする。
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9月26日
・先鋒の柴田勝家・蜂屋兵庫頭頼隆・森可成・坂井右近政尚4将、桂川を越え、三好三人衆岩成友通の西岡勝龍寺(2,500、向日市)攻撃。
信長、勝龍寺表に着陣
29日、岩成友通降伏。信長先手に加わる。
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9月26日
・大和多聞山城松永久秀、奈良中及び興福寺へ乱妨停止を安堵。
この日、興福寺塔頭の成身院・常如院・吉祥院・蓮成院、法隆寺へ避難。
松永久秀の「懸銭」以下の賦課に対する処遇を気にした行動。(「多聞院日記」)
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9月27日
・信長軍の江北郡衆・高島衆8千、神楽岡に布陣。後に南方へ移動。
足利義昭は清水寺より東寺へ赴き、西岡向へ移動し寂照院に布陣。

信長軍、西岡・吉祥院・淀・鳥羽・河州・楠葉(枚方市楠葉)などを放火。
摂津天神馬場(高槻市天神町、上宮天神社付近)に布陣。(「言継卿記」同日条)。
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9月27日
・箸尾氏と竜王山城を陥れた秋山氏、十市郷で苅田・放火。
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9月27日
・フランス、「ロンジュモーの和約」でのユグノーに関する保護を廃止する王令。
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9月28日
・大和多聞山城松永久秀、信長に人質(「広橋殿ノムスメ」)を差し出す。
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9月28日
・信長、義昭と共に山崎に移動。
義昭は山崎の竹内長治邸へ布陣。
信長軍、三好長逸の摂津芥川城(高槻市)を攻撃
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9月28日
・山科言継、黄昏時に東坊城盛長を訪問、義昭への祗候について談合、一両日は静観する。
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9月29日
勝龍寺城の岩成友通、降伏
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9月29日
・足利義昭、山崎天神馬場まで進軍。
先勢は摂津芥川麓を火攻め。その他、河内国方々を放火(「言継卿記」)。
この日、義昭、京都松尾神社へ禁制を下す(「松尾神社文書」)。
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9月30日
・信長、山崎(大山崎町)に着陣、先陣を天神山に置く。
夜、芥川城(高槻市芥川)、退散
高槻芥川城三好長逸・細川昭元(のち信長妹婿)逃亡。


郡山道場・富田寺を破壊
続いて、篠原右京亮長房の越水城(西宮市)・滝川城(神戸市兵庫区)、落城
信長・義昭、芥川城入り、本営とする

冨田(摂津高槻)は教行寺を中心に形成された寺内町。
矢銭を拒むと寺外が破却される。
寺内町衆が矢銭に応じ寺内破壊は免れる(「言継卿記」)。
茨木の郡山では道場が破壊され改めて矢銭が課せられる(「細川両家記」)。
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9月30日
・「般舟院(はんじゅいん)のこと、尾州衆破却乱妨し、無きがごときていたらく」(伏見の般舟院は、信長の軍勢によって壊され、ないのと同じありさま)(『言継卿記』9月30日条)。

『信長公記』巻1には、「諸勢洛中へ入りそうらいては、下々(しもじも)届かざる族(やから)もこれあるべきやの御思慮を加えられ、警固を洛中洛外へ仰せつけられ、みだりがましき儀これなし、」とある。
『言継卿記』にもこの「般舟院」以外に、信長の軍勢による乱妨狼籍と思われるものは見えなく、信長軍の規律は守られていたと見られる。
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9月30日
・大和国人十市某・箸尾某、義昭命により高田城を攻撃した「布方」を撃破(「多聞院日記」)。
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月末
・フランス国王軍司令官王弟アンジュー公アンリ(17)、出陣。
実質的にはタヴァンヌ元帥が指揮官。
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