2012年2月4日土曜日

貞観6年(864)~貞観8年(866) 富士山「貞観の大噴火」 精進湖と西湖が形成される。

京都 東寺(2012-01-25)
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貞観6年(864)
この年
・農民の雑徭(ぞうよう)30日を20日に減じると布告。

地方の疲弊に対応しての措置であるが、内実は、徭役が、国司たちによって不法にかれらの任地での営田などに投入されることが一層多くなっており、この改革に踏み切ったもの。
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・唐軍、南詔と広西で戦い敗北。
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1月
・円仁、没。
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1月1日
・清和天皇元服の儀。
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5月
富士山「貞観の大噴火」。精進湖と西湖が形成される。
この溶岩流は「青木ケ原溶岩流」と呼ばれ、その後植物が生育したため一般的には「青木ケ原樹海」として知られている。

5月末の駿河国の報告によれば、富士山の北西斜面(現在の長尾山付近)から噴火し、膨大な量の溶岩が山野を焼き尽くしながら流れ下り、本栖湖に達した。

5月25日
富士山噴火。方12里の山を焼き、火炎高20丈に達する。地震3回。噴火は10余日を経ても収まらず。烟雲鬱蒸して人近づけず。(「三代実録」)

7月中頃の甲斐国からの報告には、溶岩流は本栖湖と「剗(せ)の海」(西潮・精進湖のもととなった湖)を埋め、湖水は沸騰し、魚は死滅した。さらに人家も呑み込まれ、家屋は残っても一家が死に絶えた家も数えきれないほどであったとある。

7月17日
富士山の溶岩流出し、本栖水海に流れ込み30里が埋まり、高さ23丈広さ23里に至る。
水は熱湯になり魚死滅す。
周囲の百姓の居宅も埋まり、そのまま甲斐の国境に達する。
また河口海にも溶岩が向かう。溶岩台地は青木ヶ原となり、溶岩がせの海に流れ込んで精進湖と西湖に分かれる。(「三代実録」)
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貞観7年(865)
5月
・御霊会を抑制する法令が出る。
「京畿七道の諸人、事を御霊会に寄せ、私に徒衆を聚(あつ)め、走馬騎射」するのを禁じる。
民間の御霊会は続いていたが、政府はそれに対して警戒的で、庶民が集会し、武術に興じるのは不穏と看做した。
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貞観8年(866)
3月
・清和天皇、桜花を観るため廷臣らを従え右大臣藤原良相(よしみ)の西京の第(てい)に行幸。

詩賦の才あるもの40名(四位4人・五位8人・六位28人)を召集して、百花亭の詩をつくらせる。
また天皇は、廷臣の射技を見る。
伶人は式楽を奏し、幼童たちは天皇の前で舞いを披露。廷臣たちは、終日右大臣邸での歓楽を満喫した。

親政3代の時の神泉苑での花の宴は故事となり、宮廷の観桜は、神泉苑から藤氏大臣の私邸に移った。

7日後、清和は、王公以下の高官および百官人を供奉し、太政大臣良房の染殿第(そめどののてい)に赴く。

右大臣良相の邸や染殿の第は、天皇をはじめ多数の賓客をいちどきに迎え入れられるように、ひろく邸内の諸設備が整えられていた。
天皇は庭池のほとりの釣台にのぼって釣魚の遊びを見て、ついで射技の行事に興じた。さらに東門において、天皇は耕田での農夫らの作業にのぞんだ。さまざまの楽がつぎつぎと演奏された。

終りに、清和は邸内の望遠亭に引き返し、そこから花樹の眺めをたのしんだ。
伶人たちは、ふたたび種々の楽を奏し、童男妓女が花間でつぎつぎにみやびやかな舞い姿をみせた。文才あるものが数人よぴだされて「落花無数の雪」という題賦をおこなった。
宴遊は夕景におよび、群臣はすっかり観桜の美酒に酔いつぶれた。そのうえかれらはこの日、恩賞にあずかった。

この日、良房は、京内の貧窮者を鴨河のほとりに召集して、新銭饒益神宝(じようえきしんぽう)5万文、飯2,500裹(か、袋)をわけ与え、また京に近い43ヶ寺において、僧侶たちに金剛般若経・般若心経を転読させた。
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昨年(2011)末、藤原良相の邸宅跡が発見されたとのニュースが流れた。
コチラ、とコチラ
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場所はこの辺りのハズ。
朱雀門の前に当たるのかな?
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