2012年4月17日火曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(21) 「十六 放水路の発見」(その二)

東京 北の丸公園 田安門 2012-04-10
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(21)
「十六 放水路の発見」(その二)

随筆「枯葉の記」(昭和19年)。
この頃、鐘ヶ淵あたりの放水路で見た冬枯れした蘆萩の寂しい風景に心惹かれた、と書かれている。

「枯葉のことを思ふと、冬枯れした蘆荻の果てしなく、目のとゞくかぎり立ちつゞいた、寂しい河の景色が目に浮んでくる。
鐘ヶ淵のあたりであった。冬空のさむ気に暮れかゝる放水路の堤を、ひとりとぼとぼ俯向(うつむ)きがちに歩いてゐた時であった。枯蘆の中の水溜りに、宵の明星がぽつりと浮いてゐるのを見て、覚えず歩みを止め、夜と共にその光のいよいよ冴えてくるのを何とも知れず眺めてゐたことがあった」

人の姿はなく、蘆荻は枯れ果て、その冬ざれの風景に、荷風は詩趣を覚える。
1月22日、
堀切橋から四ツ木橋の風景をスケッチし、それを日記に添えている。

昭和7年1月25日、
京成電車で放水路を渡り、四ツ木へ。

1月29日、
中洲病院の帰りに、清洲橋を渡って深川の高橋まで行き、そこで以前(大正12年6月8日)そうしたように行徳行きの船に乗り、放水路を見に行く。
「宇喜田村の岸にて汽船より、陸に上る、橋ありて堀割の水分れて田家の間を流る、岸邊には竹薮あり老松あり、風景描くが如し、岸に沿ひて歩むこと数町にして放水路の堤に出づ、放水路は二條あり、東を中川放水路といひ西なるを荒川放水路と称す、二流の間に築かれたる堤防の上に佇立めば、右も左も枯蘆ばかりにて船も人家も遮られて目に入らず、幽静限りなし、折から日は既に砂村の彼方に没し晩照の影枯蘆の間の水たまりに映ず、風景ますます佳し」

2月2日、
「午後またもや荒川放水路の風景を見むとて」、深川、洲崎から放水路へ(放水路のスケッチが添えられる)。

5月9日、
砂町から葛西橋へ。

6月19日、
放水路からさらに江戸川へ。

12月19日、砂町から放水路へ(四たび放水路のスケッチが添えられる)。

作品集『おもかげ』(昭和13年)には、荷風自身が撮影した放水路の写真、堀切橋の写真さえ入っている。

名随筆「放水路」は、こうした”放水路通い”から生まれた。

「風景は、・・・近代の内的人間、芸術家がそれを「風景」として意識し、その美しさを絵画や言葉で表現したときにはじめて「風景」として自立する。「風景の発見」である。
それは、現実の風景というよりイメージの風景、あるいは内的人間の内部にある詩的感受性(荷風の場合なら落魄趣味)がまずあって、それに合致するフィクションとしての風景といってもいい。」(川本)

漱石「草枕」(明治39年)の風景の発見の箇所。
「この故に天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づきがたしとなす所において、芸術家は無数の琳琅(リンロウ)を見、無上の宝璐(ホウロ)を知る。俗にこれを名(ナヅ)けて美化という。
その実は美化でも何でもない。
燦爛(サンラン)彩光は、炳乎(ヘイコ)として昔から現象世界に実在している。
ただ一翳(イチエイ)眼にあって空化乱墜するが故に、俗累の羈絏(キセツ)牢として絶ちがたきが故に、栄辱得喪のわれに逼る事、念々切なるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎたのである」

荷風も、風景はただそこにあるものではなく、発見されるものだと気づいていた。

随筆「夏の町」(明治43年)で、隅田川の風景の美しさを発見したのは、モーパッサン、ゴンクール兄弟、ゾラの作品を通してであると書いている。
「自然主義時代の仏蘭西文学は自分には却て隅田川に対する空想を豊富ならしめた傾(カタムキ)がある。」

「モーパッサンを読んで若き日隅田川に遊んだ日のことを思い、ゴンクール兄弟を読んで葛飾の綾瀬あたりに広がる水辺の風景を思う。
そしてゾラを読み、江戸人が向島あたりの郊外に遊んだ風流のことを考える。
荷風の、風景への着目は、フランス文学を読んだことによって獲得されていく。」(川本)

「荷風はフランス文学を通し、言葉を通して風景を発見する。
それはちょうど、国木田独歩が、ロシアの白樺林の美しさを語ったツルゲーネフの「あひゞき」(二葉亭四迷訳)を読むことによって、武蔵野の雑木林の美しさを発見したことに似ている。
そこでの風景は、現実の風景というより、近代の内的人間によってイメージされた”表現された風景”である。
「われわれが風景を知覚するのは、絵画や詩歌などで教育され、仕込まれた視線によって」(オギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観』講談社現代新書)である。」(川本)

「現実の社会生活からゆっくりと乖離していき、世捨人のような単独者となった荷風の目の前に立ちあらわれてきたのが荒川放水路の寂しさだった。
孤影を深めゆく荷風の心のなかの詩魂が、荒川放水路という見捨てられた風景を発見していったのである。
ここには、孤独な単独者と荒涼寂寞たる風景の静かな交感がある。」(川本)

荷風が足繁く放水路に通うようになった昭和7年は、関東大震災後の東京周辺部の人口急増に対応するために、市区改正が行なわれ、従来の十五区制から三十五区制に改められた年である。
品川、目黒、世田谷、杉並などと並んで、隅田川以東に新たに、城東、葛飾、江戸川の三区が生まれた。
荒川放水路はこの時、東京市内に入る。

荷風の”放水路通い”は、この東京の東への拡大と一致している。
荷風は、東京が東へ開けていっているのを知り、持前の好奇心から、放水路へ出かけ、そこで、「蘆荻」と「工場の烟突」が重なり合う新しい郊外の風景を「発見」した。

随筆「郊外」(昭和12年)で、昭和7年秋の市区改正により東京府下の6郡が市中に合併された結果、「郊外」や「近郊」「近在」という言葉は「死語」になった、と書いている。
だからいっそう、「郊外」という言葉に「言ひがたい詩趣」を感じた。
その失なわれゆく「郊外」の風景が、放水路のあたりにいまだ残っていた。
荷風は、そのことに感動を覚えた。

荷風はしばしば、城東電車(私鉄、のち昭和17年に市電に併合)を利用。
城東電車は、東京の東への拡大にともない作られた新しい私鉄で、設立は大正2年、正式名は城東電気軌道株式会社(本社亀戸)。
第一期線として、大正8年、錦糸町から亀戸を通って小松川までの城東本線が開通。
ついでこの途中の亀戸天神から南の大島へ、さらに延長して砂町から稲荷前(「日乗」に出てくる砂町の疝気稲荷の前)までの砂町線が大正末に開通。
さらに昭和2年、稲荷前から西へ東陽公園から、洲崎まで通じ、この終点の洲崎で銀座、日本橋方面から来る市電と連絡するようになる。

この城東電車の開通によって、市中と城東が結ばれ、城東区(現、江東区の大島、砂町)が一気に市中に近くなる。
荷風が足繁く”放水路通い”をするようになるのは、この城東電車が洲崎で結ばれてから。

荷風は、だいたい、銀座から市電で洲崎まで出て、そこから城東電車に乗り換え、東の放水路に向かう。錦糸堀まで市電で行き、そこで城東電車に乗り換えることもあった。

「荷風は、城東電車という新しい都市の交通機関を利用し、放水路へと出かけた。
その点で、荷風は都市機能を充分に意識したモダンな都市散歩者だった。
新しいものに敏感な都市生活者だった。」(川本)

やがて昭和10年代に地下鉄が完成してからは、こんどは、それに乗って浅草通いをするようになる。
荷風の町歩きは、つねに鉄道という足の便と組合わされている。

「(荒川放水路の)中間の堤防は其左右ともに水が流れてゐて、遠く両岸の町や工場もかくれて見えず、橋の影も日の暮れかゝるころには朦朧とした水蒸気に包まれてしまふので、こゝに杖を曳く時、わたくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される自分の跫音を聞くばかり。いかにも世の中から捨てられた成れの果だといふやうな心持になる」(「放水路」)
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