2012年4月17日火曜日

延喜2年(902)2月3日 「延喜の荘園整理令」

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-04-10
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延喜2年(902)2月3日
・「延喜の荘園整理令」が出される

国政刷新についての7通の法令(法令集『類聚三代格』)。
地方の諸状況を、令の原則や格・式による修正に照らして検討し、執政官の立場で全てを発議。
政策は保守的で、反動的要素も含まれる
寛平期の政策を受け継ぎ、それを徹底している。

一般的には「延喜の荘園整理令」と呼ばれるが、律令国家建て直しを企図した多様な内容

①班田の励行、国府などの官舎・国分寺・神社・池や用水路などの潅漑設備の修理

②調庸などの布製品の品質維持をはじめとする律令制全般の維持

③院宮王臣家の荘園の禁止

④院宮王臣家の家人が、権威をかさに着て在地の裁判に介入することの禁止

⑤院宮王臣家の家人が身分的特権を楯にして、納税を拒否することの禁止

⑥国司が院宮王臣家の家人を使役することを認めること

⑦院宮王臣家が山川薮沢(そうたく)などの共有地を囲い込むことの禁止、など。

うち、③以下が荘園整理令。

これらの施策の目的は、
9世紀後半頃から活発化した富豪層や院宮王臣家の活動と在地の有力者の結びつきを阻止し、
国司がその活動を黙認したり、逆に国司がそれらと結託することを防止する、
ところにある。
究極の目標は、税を賦課できる人数(課丁数)の確保

律令制への回帰に荘園整理令は有効に機能したか。
あまり効果はなく、10世紀以降、ますます院宮王臣家は勢力を増大させ、国司との結合も進展。
現実的抑制効果は薄い。

班田収授の問題
基経が実施した元慶4年(880)以降、班田不履行が続き、その間に口分田を持たない課丁(かてい)が増え、不課の戸が多く田を領作し、受領による人口・耕地の調査がいい加減になり、農民の調・庸貢納が一層困難になっていた。
政府は、諸国に対し戸ごとの人口登録を行わせ、それに基づいて12年後に班田を実施することを命じる
長い準備期間は、即時実施への諸条件が欠けていたことを示す。
他方、調庸の品質粗悪、進貢遅延などに関して律文を引用し、歴朝の出した法令に触れて厳しい態度を示してもいる。

延喜2年作成の『阿波国戸籍』など10世紀以降に作成された戸籍では、女性の数が男性を上回り、また、100歳以上の老人が数多くみられる。
女性は男性に比べて税が軽減され、60歳以上の者は納税義務がないため、この戸籍は税逃れを目的に偽造されたと考えられる。
一方、院宮王臣家が在地に進出するにしたがって、農民たちも本貰地(戸籍に登録された土地)から離れ、国司の手の届きにくい、それらの荘園に浮浪人として集まるようになった。

斑田収授制は日本古代の土地制度の基本。
班田は戸籍を基に6年毎に実施されてきたが、延喜2年を最後とし班田も行われなくなる。
こうなると、籍帳による個別人身的支配は機能しなくなり、人頭税を放棄せざるを得なくなる

これに代わって、今度は、実際に耕作している土地に税をかけることになる。
これは早く、「正税を徴集するには、耕作した田からがもっとも適している」(『類聚三代格』昌泰4年官符)と指摘されているように、まず正税出挙が対象となり、しだいに租・庸・調といった官物、さらには交易雑物などの臨時雑物にも広げられてゆく。
明治に至るまで続けられた、土地を単位とした日本の税制がここに成立する。

戸籍によって民衆を把握することが困難になると、代わって「名」という耕作単位が現れる。
名は、もとは人物名に由来し、「犬丸名」などと名付けられていた。
この「名」を掌握する者を田堵と呼び、国衙は彼らを台帳に登録して税を賦課する基準とした(田堵の出現)。
こうしたあり方は10世紀前半頃には現れ、「負名体制」と呼ばれている。
ただし、全体の耕作面積は、律令制下よりも減少していたことが『尾張国郡司百姓等解文』から窺える。
院官主臣家の進出により課税対象者が激減したこと、耕地自体が荒廃したことによる。
10世紀の国家財政逼迫の原因である。


田堵は単なる小農民ではなく、一定以上の規模を持って小農を束ね、国司や荘園領主と契約を結んで耕作に当たる人物であったと考えられる。

田堵から徴税するために、国衙からは検田使が派遣され、条里の坪付ごとに耕作の有無を判断し、耕作田の面積を把握した。
その上で、所有者や耕作者(田堵)、そして作柄などを書き上げ、一国の総面積を集計した。
こうした帳簿は「馬上帳」と呼ばれた。検田使が馬に乗ったまま郡内を調査したことによる。

一方で、「名」ごとに作付面積を記した帳簿もつくられ(負名検田帳)、馬上帳とつきあわせて、田堵ごとの納税額が計算された。
このような作業を行ったのは、国衙に付属した検田所であった。
秋になると、国衙から収納使が派遣され、税が徴収されることになる。

しかし、田堵の負担は、計算された税のみではない。
『尾張国郡司百姓等解文』には、収納使が配下の者を率いて現れ、税のほかに高額の「土毛」を要求していたことがみえる。
「土毛」は、産物という意味で、この「土毛」が彼らの収入であった。
『尾張国郡司百姓等解文』でも、土毛を取ること自体は非難されず、その比率の高さが問題にされている。
これは在地慣行の一つで、田堵からみれば、一種の付加税に当たる。

また、こうした収取方法は、9世紀までとは大きく変わっている。
9世紀頃までは、郡司が責任者として徴税に当たっていたが、10世紀以降は国衙から直接検田使や収納使が派遣されて、調査・徴税に当たるようになった。
その原因は、受領国司の成立と郡司の変質である。
受領の権限が大きくなるのと反比例して郡司の力は減少した。従って、受領の権力が増大し、直接在地に力を及ぼせるようになった結果、負名体制が成立したとみることができる。


政策を阻むもの
政策を進めてゆくと、政府・受領は、地方において諸院・諸宮・王臣家と土豪・有力農民との結託の作る堅く厚い壁にぶつかる。

太政官符は、元慶・寛平の時代よりもずっとひどい状態を示す。
「諸国の奸濫(かんらん)の百姓、課役を遁(のが)れんために、動(やや)もすれば京師に赴き、好んで豪家に属し、あるいは、田地をもつて詐(いつわ)りて寄進と称し、あるいは、舎宅をもって巧みに売与と号して、遂に使を請い牒(ちよう、領家の文書)を取りて封を加え牓(ぼう、立札)を立つ。

国吏(受領)矯餝(きようしよく、いつわり)の計を知ると雖も、しかも権貴の勢を憚りて口を鉗(つぐ)み、舌を巻きて敢えて禁制せず。・・・」

土豪・有力農民の、権門勢家への土地・宅舎の寄進、それの庄園化。
「使を請い牒を取りて封を加え牓を立つ」は立庄の手続きで、それによって、その寄進地系荘園はまず国家から不輸が保証され、さらに国吏不入の特権を与えられた。
桓武朝以来、歴朝によって設置された勅旨開田は諸国にかなり多い。
それは地方の農事の妨げになり、有勢者が「新たに庄家を立て、多く苛法を施し、課責尤も繁く、威脅耐え難し」という状態にもなり、国・郡司、地方民から強く非難の声があがっていた。

延喜の荘園整理令と呼ばれる土地調査令を受けて諸国国衙は、寺社・王臣家・富豪層に公験(くげん、権利書)を提出させて土地の権利関係を明確にし、それまで富豪層が脱税のための隠れ蓑として寄進し、爆発的に増加していた「王臣家の荘」の免税特権を否定して公田(課税地)に引き戻した(『類聚三代格』)。

免税地は、政府が官省符(太政官符と民部省符)で認めた「免田」に限定されることになり、それまで班田のたびに権利関係の変動をふまえて新たに作成されてきた班田図に代えて(班田園が作られなくなり、班田図の記載内容と現実の権利関係がズレてきたことが題であった)、この調査結果を「基準国図」に登録して固定した。
この基準国図に登記された公田・免田面積が、これ以後、国衙による課税・免税の基礎となった

この土地調査をもとに国衙は、富豪層に経営可能な公田面積を割り当て、所属や身分に関係なく、請け負った公田面積に応じて租税(官物(かんぶつ)と臨時雑役(ぞうやく))を納めさせる徴税方式を採用した。

公田請作者(うけさくしや)は国衙の帳簿に「負名(ふみよう)」として登録され、国衙に対して直接納税責任を負うとともに、その経営を保障されることになった。
この「負名体制」は、9世紀の「里倉負名(りそうふみよう)」を発展させたものであり、以後、11世紀中葉までの間、受領による国内支配の基礎となった。
負名として編成された富豪層は「田堵(たと)」と呼ばれるようになった。

政府は、地方民の権門寺社への田地・舎宅の寄進を厳禁し、醍醐天皇の代以後の勅旨開田に限りこれを一切停止し、それらを地方民に耕作させることにする。
但し、権門に相伝されてきた庄家(庄園)で券契(立庄を保証した太政官符・民部省符)の明確なものをこの法の適用から除外した。
従って、正規の手続きをとらなかった多くの寄進地系庄園は、勢いづいた受領たちによって潰された。

延喜の政策は、権門・勢家と土豪・有力農民とのくされ緑を、幾分かは一時的に痛めつけたが、その根は大きく残り、強大となり、爾後ながく政治問題として紛糾を続ける。

延喜の政府は、この年だけではなく、延喜5年(905)あたりまでその政治路線を守ることに力を尽くす。
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