2012年7月1日日曜日

天慶4年(941) 天慶の乱の歴史的位置(4) 天慶勲功者子孫と武士:源経基の場合

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-27
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天慶4年(941)
天慶の乱の歴史的位置(4)
天慶勲功者子孫と武士:源経基の場合
承平8年(938)、武蔵国の介として赴任していた経基は、権守興世王とともに無道な政務を行い、足立郡司武蔵武芝と対立。
平将門がその調停に赴くが、経基は、この調停の動きを自分に対する攻撃と誤解し上洛、将門の謀叛を訴えた。
この有様は、「介経基、いまだ兵の道に練れず」(『将門記』)と嘲笑されるほど、この時点での経基は、武人としても国司としても未熟であった。


しかし、翌天慶2年、将門が常陸国府を攻撃し国家的反乱を引き起こすと、次ぎの年(3年)には経基は従五位下に叙された。
ついで経基は、将門追討をめざす征夷大将軍藤原忠文のもと副将軍に抜擢される。

しかし、追討軍の到着を待たず、将門は藤原秀郷と平貞盛に討ち取られ、経基は恩賞に与ることはなかった。
ところが、次に経基は、藤原純友の反乱に対処するために、大宰権少弐に補任される。

経基は、将門の謀反を密告しただけで、五位に赦され、大宰少弐に補任されるという過分の恩賞をうけたことになる。
その背景には、彼の出自、彼を庇護し、手厚い恩賞を与えた存在が想定される。

経基の系譜については、『尊卑分脈』以下の系図、『大鏡』『今昔物語集』以下の文献が清和天皇の第六皇子貞純(さだずみ)親王の子とするのに対し、永承元年(1046)に源頼信(経基の子満仲の子、河内源氏の祖)が誉田(こんだ)八幡に奉納した告文では、経基は清和天皇の第一皇子である陽成天皇の皇子元平親王の子としている。

経基を副将軍に起用した忠文は陽成院の御給で従五位下に昇進しているし、彼の弟で副将軍の忠舒は陽成院司で、経基は陽成院の周辺と密接な関係にあったと考えられる。
陽成院は狩猟や武芸を好み、父元平親王も弾正台の長官弾正尹(いん)にあり、ともに健在であった。
こうしてみると、血縁関係はともかく、経基は陽成院や元平親王のもとで武人として養育され、将門の乱に際し彼らの庇護を受けたとみることができる
貞純親王は早世していたから、経基は元平の養子のような立場にあって武門としての性格を継承した可能性がある。

天慶3年(940)12月、経基は純友を追討する追捕凶賊使の次官に任命される。長官は小野好古、判官は藤原慶幸(よしゆき)、主典は大蔵春実。
翌年5月、追捕使軍は純友軍に博多津で決戦を挑み、春実の奮戦などで圧勝。

しかし、『純友追討記』には、春実・好古・慶事の名前はあるが、経基に名はない。
純友が討ち取られたあと、豊後で純友残党を追捕したのが、経基の唯一の事績であった。
ここでも、彼は武人として大きな活躍をすることはなかった。

その後、経基は大宰大弐となった好古のもとで少弐として仕え、純友の乱後の治安回復、また新羅滅亡後の対外的な危機といった九州の内憂外患に対処している。
こうした経歴をみると、一応武人としての評価は確立したといえる。

応和元年(961)又はその翌年、経基は没し、武門源氏は嫡男満仲に継承される。
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