2012年7月18日水曜日

天暦5(951)~天暦6(952) 「後撰和歌集」の撰集開始 正蔵率分制の制定

東京 北の丸公園 2012-07-10
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天暦5(951)
この年
・後周の建国
・北漢の建国
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10月
・宮中梨壺に撰和歌所を置き、「後撰和歌集」の撰集を始める。
この月、村上天皇は宮中の梨壷に撰和歌所をもうけ、その別当に師輔の長男蔵人左近衛少将伊尹(これただ)を任命した。
そこでの仕事は、すでに読解しにくくなっている『万葉集』に訓点をつけることと、延喜の『古今和歌集』のあとをうけて第二の勅撰集を編むこと。
撰和歌所のメンバーには、河内掾清原元輔・近江掾紀時文(貫之の息)・讃岐掾大中臣能宣・学生(がくしよう)源順、そして御書所預の坂上望城(さかのうえのもちき)が選ばれ、梨壷の5人といわれた。
いずれもその家は平安初期には名流であったが、いまは衰えて、その肩書が物語るように受領級の中以下である。和歌の方面では、貫之の後塵を拝する小タレントであった。
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・この月、右大臣師輔は比叡山の東北、横川楞厳院(よかわりようごんいん、円仁の創立)の嶺にのぼり、天台中興の僧、良源をあおいでこの地(横川)に法華三昧堂の設立を決意した。
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天暦6(952)
この年
・政府は越前国の雑掌(国府の下僚)の申入れで追捕使・押領使を停止した。
両使の随兵が所部(国内)を横行して農民を脅略するのを、郡司の力ではどうにもならぬし、これでは受領もその任にたえないというのが雑掌の言い分であった。
一方、同時期、出雲国では治安対策のうえから押領使の設置を要望して、それが実現している。また、天暦10年(956)には、近江国に追捕使が置かれている。
いずれも、右大臣師輔が法の執行を命じているが、場当たり的な対処になっている。
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8月
朱雀法皇、没。
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9月
率分正蔵率分、調庸・中男作物(ちゆうなんさくもつ)・交易雑物(こうえきぞうもつ)などの十分の一を別納)が制定され、重要な公用に充てられる。

正蔵率分制
税の違期や未納が多くなり、何とか必要最小限度の官物を確保しようとした結果、この年、国司が毎年貢納する調や庸のうち、1割を太政官が管理する率分所に別納させ、神社への奉幣料、宮中の節会(重要な年中行事)に参加した者の俸禄など、恒例の儀式用に使用するようになった
また、調庸によくみられる色代(しきだい、指定品目以外で納めること)は禁じられ、定額を所定の正品目で確保することが目ざされた。
用途としては特に神社の幣料に集中し、これが当時の最も重要な行事と考えられていたことを示す。伊勢神宮の幣料に率分を充てることはほぼ慣例となり、鎌倉時代でもこの原則は守られている。
率はのちに2割に増額されたが、国司の受領功過定の重要な審査項目となったため、納入は比較的良好であった。ただし、裏返せば、残りの8~9割については、あまり厳密に要求されなくなったということでもある。
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12月
・年末、左近衛少将藤原伊尹(これただ)の邸の井戸に死人の頭などが投げ込まれる。
知らずに伊尹は参内したが、間もなく公卿のあいだでこのことが問題になり、宮中は7日間の穢(けがれ)ということになった。栄華への昇り坂にある右大臣の御曹子伊尹に怨みを抱く者の仕業と考えられる。
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