2012年8月14日火曜日

天元6年/永観元年(983)~永観2年(984) 奝然の入宋 花山天皇(17歳)の即位

東京 北の丸公園 2012-08-10
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天元6年/永観元年(983)
この年
・遼が国号を契丹に戻す。
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4月
・永観に改元。
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8月
奝然(ちようねん)が入宋して、天台山を巡礼した後、太宗に謁する。
翌年、五台山をも訪れ、太宗から宋版の大蔵経を下賜され帰国。

彼の巡礼の目的は、求法であるが、成立して間もない宋と通交するため、公的な使者としての役割も担っていた。
彼は太宗に、天皇の系譜や地理、人口など、日本の詳しい情報を報告しており、日本の地位を認めさせようとした。

天元2(979)年、宋が中国を統一した後、初めて中国を訪れたのが東大寺僧の奝然。
彼は、平安京西方の愛宕山に寺院建立を計画し、その実規のために天台山・五台山の巡礼を企てた。
この年8月、宋商の船にのって入宋した奝然一行は太宗皇帝の指示により、天台山を巡礼した後、都開封に入り、翌984年、五台山を巡礼し、その後、再び都開封で太宗皇帝に拝謁し、法済大師号と開宝勅版(宋版)大蔵経5,048巻を賜与された。

その間、奝然は、銅器・職員令・王年代記を皇帝へ献上し、日本の風土・流布する内外典・五穀・動物などについて問答している(遣唐使に似た皇帝とのやりとり)。
五台山巡礼は皇帝の許可を得ており、路次の費用も公費で賄われた。
985年には天台山のある台州開元寺において、釈迦瑞像の造立を行なった。
また、帰国に際しては、正式な遣使の要請を伝えることを依頼される。

朝廷上層部にいた奝然の後援者:
円融天皇、東宮師貞(もろさだ)親王(のちの花山天皇)、皇后藤原遵子、一品資子内親王、関白太政大臣藤原頼忠、右大臣藤原兼家、権大納言藤原為光、権大納言藤原朝光、蔵人頭藤原実資、右近中将藤原道隆、弾正少弼藤原道兼ら。
奝然の巡礼は、国家事業的な面だけではなく、個人的な色彩もあった。

釈迦瑞像:
優填王(ウダヤナ王)のために牛頭栴檀(ごずせんだん、最上の白檀)で作られたと経典に説かれる5尺の釈迦の模刻像で、4世紀終わりにインド僧鳩摩羅琰(くまらたん)・鳩摩羅什(らじゆう)により中国にもたらされ、401年に長安に入ったと伝えられる。
優填王の釈迦瑞像として信仰を集め、隋・唐を通じて揚州の閲元寺に安置されていたが、当時は宋の太宗によって首都汴京(べんけい、開封)の宮中に移されていた。
奝然はこれを拝して模刻を決意した。
中国ではこの釈迦像は失われているので、清涼寺式釈迦は当時の中国仏教を偲ばせる貴重な像である。
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永観2年(984)
8月
円融天皇が譲位し、師貞親王(冷泉天皇皇子、母は伊尹の娘、女御懐子(かいし)、花山天皇、17歳)が受禅、懐仁(やすひと)親王が立太子する。
太政大臣頼忠が引き続き関白に任ぜられる。
右大臣兼家にとって外孫懐仁親王(円融天皇の女御である娘詮子(せんし)の子、のちの一条天皇)の即位は最大の目標。

外戚として伊尹の子の年若い義懐(よしかね)が参議に、ついで寛和2年には権中納言に躍進して勢力を得て、その権力は関白を凌ぐといわれる。
兼家は黙々と次の代を期待
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10月
・師貞親王が即位する。花山天皇。
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11月
・諸所の饗禄を禁じ官人の綱紀粛正を図る。
その他、
受領の兼官を停止。
破銭法(悪銭を嫌うことの禁令)制定。
永観の荘園整理令を発布。延喜2年以降の新立荘園の停止。
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源為憲「三宝絵詞」が成立。
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