長保元年(999)
8月9日
・中宮定子の寂しい内裏退出
定子は再び懐妊して、内裏を退出することになった。
日取りは、道長の娘、彰子入内の数ヶ月前の8月9日、退出先は、二条邸は焼失したため前但馬守平生昌(なりまさ)の三条の邸と決まる。
生昌は公卿でもなく、門も粗末で中宮御所にふさわしくないため、慌てて四足門に改造する始末。
また、中宮の行啓であるから、当然公卿が行列その他万端の指揮をすべきなのに、彰子の入内が近く道長に気兼ねして誰も引き受ける者がいない。
本来ならば中宮には中宮職という役所があり、その長官である中宮大夫か権大夫とかに公卿が勤めていて、それらが指揮する筈のところ、定子にはこの数年、中宮職はあってもその長官(大夫)は置かれていない。
辛うじてこの年正月、中納言平惟仲が中宮大夫に任ぜられたが、半年で辞任し、後任は誰も任命されていない。指揮の公卿がいないままに8月9日を迎えた。
この日の朝、道長は、前年秋に故大納言重信の後家から買い取った宇治の別荘(後に子の頼通が平等院を建立する)に行った。
道長が出かけるので、公卿たちも追随する。
これは定子の懐妊退出を喜ばない道長の嫌がらせで、不愉快な事がある時に道長がよく用いた手段である。
どうしようもなく、実資に呼出しがかかる。
彼は腹をこわしていたが出仕したところ、幸い中納言藤原時光が、病気と物忌を押し切って参入して、時光が万端指図することになった。
生昌の家は大急ぎで門を改造したとはいえ、板葺きの門で、中宮の輿が板葺きの門を入るとは前代未聞と謂われた。
清少納言など、定子付きの女房たちの車は北の門から入ることになったが、この門は小さくて車が入らず、やむを得ず門から建物まで大急ぎで莚を敷き、女房たちはでこぼこ道を門から歩かされた。
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9月
・この月、頼信、上野介在任中のこの月、道長に馬10頭を贈る。
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・この月、内裏が触穢(しよくえ)になったのを幸いに、道長が公卿を引き連れて、嵯峨・大井で遊覧し紅葉狩り。
そこで「処々の紅葉を尋ぬ」の題を出し(漢詩と同じである)、帰京して和歌の会を行なった。
その折の公任の歌(行成『権記』)。
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
百人一首にもとられた秀作で、「た」と「な」のくり返しが流麗な調べをもたらしている。
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9月25日
・この日の定によって彰子入内の準備が始まる。日取り・式次第・行列・侍女の人選・調度品の調達などの雑事を定める。
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10月25日
・彰子入内の日は11月1日と決定したが、内裏は焼けて一条院に移っていたので、彰子は一条院に入内することになる。
その際、方角が悪いというので、この日(10月25日)、道長は彰子と共に西の京の大蔵録太秦連理(おおくらのさかんうずまさのつらまさ)の家に移った。東から一条院に入るのをやめて、西から東に向かって入内しようというのである。
連理は、官は大蔵省の卑官であるが、古来財力は豊かで立派な邸宅を構えていたと考えられる。この連理の家には連日公卿・殿上人が押しかけて準備を手伝っている。
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ちなみに
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『御堂関白記』には…
長保元年(999)10月21日条
◆◇◆◇◆
(藤原)彰子入内(じゅだい)の際の四尺屏風(びょうぶ)に貼るための和歌を人々に詠ませた。#光る君へ pic.twitter.com/5JgLYwdFI9
ちなみに
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『小右記』には…
長保元年(999)10月23日条
◆◇◆◇◆
源相公(俊賢)が左府(藤原道長)の使として来て、屏風(びょうぶ)の和歌の題を授けた。その詞(ことば)に云(い)ったことには、「和歌を詠むように」ということだ。あれこれ、まったく御返事は申し難い。#光る君へ pic.twitter.com/jHLle5TCMq
◆◇ #光る君へ コラム◇◆
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◤ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
屏風歌(びょうぶうた)はお断り!
道長の依頼を拒否した藤原実資
________________◢
をしへて!
時代考証・ #倉本一宏 さん を公開!!https://t.co/rg6sLrenC3
ちなみに
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『御堂関白記』には…
長保元年(999)10月27日条
◆◇◆◇◆
屏風(びょうぶ)の歌を人々が持ってきた。内(一条天皇)から御使があった。蔵人(橘)則隆であった。右衛門督(藤原公任)・藤宰相(藤原懐平)・左兵衛督(藤原高遠)・宰相中将(藤原斉信)に盃を勧めた。#光る君へ pic.twitter.com/eKl6gUpDIg
ちなみに
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『小右記』には…
長保元年(999)10月28日条
◆◇◆◇◆
花山法皇・右衛門督(藤原)公任・左兵衛督(藤原)高遠・宰相中将(藤原斉信)・源宰相俊賢が、皆、和歌を献上した。上達部が左府(藤原道長)の命によって和歌を献上することは。往古(おうこ)から聞いたことがないことである。#光る君へ pic.twitter.com/VpoTWV4lnJ
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『小右記』には…
長保元年(999)10月28日条
◆◇◆◇◆
皇后宮(藤原遵子)の御読経に参った。平中納言(惟仲)・藤宰相(藤原懐平)・式部大輔(菅原輔正)・皇后宮大夫(藤原公任)が参入した。あれこれが云(い)ったことには、「昨日、左府(藤原道長)に於いて和歌を撰(えら)び定めた」と。#光る君へ pic.twitter.com/dc5xEXTyHc
ちなみに
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『小右記』には…
長保元年(999)10月28日条
◆◇◆◇◆
今夕、和歌を催促される御書状があった。堪えられないということを申させた。きっと不快の意向があるであろうか。この事は、感心しないことである。#光る君へ pic.twitter.com/h8X0IhofZ5
ちなみに
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『小右記』には…
長保元年(999)10月29日条
◆◇◆◇◆
和歌について、源相公(俊賢)を介して譴責(けんせき)があった。重ねて堪えられないということを申した。#光る君へ pic.twitter.com/zu2LQv8DIP
ちなみに
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『小右記』には…
長保元年(999)10月30日条
◆◇◆◇◆
主人(藤原道長)は私(藤原実資)に和歌を献上するよう責めた。献詞(けんし)を述べたが、承引しなかった。右大弁(藤原行成)は書き終わった。・・・私は黄昏に帰った。今日、主人は、私のために和顔があった。#光る君へ pic.twitter.com/rWoiFyjk6I
ちなみに
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『権記』には…
長保元年(999)10月30日条
◆◇◆◇◆
内裏(だいり)から西京に参った。倭絵(やまとえ)四尺屏風(びょうぶ)の色紙形を書いた<故・(飛鳥部)常則の絵である。和歌は、現在の左丞相(藤原道長)以下が詠んだ>。#光る君へ pic.twitter.com/DpdJnW4LWi
ちなみに
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『小右記』には…
長保元年(999)10月30日条
◆◇◆◇◆
藤相公(藤原懐平)と同車して、左府<西京>へ参った。・・・(藤原)行成が、屏風の色紙形を書いた。花山法皇・主人の相府(藤原道長)・右大将(藤原道綱)・右衛門督(藤原公任)・宰相中将(藤原斉信)・源宰相(俊賢)の和歌を色紙形に書いた。 pic.twitter.com/lBf5xKR460
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『小右記』には…
長保元年(999)10月30日条
◆◇◆◇◆
皆、名前を書いた。後代にすでに面目を失している。但し(花山)法皇の御製は、「読み人知らず」とした。左府(藤原道長)は「左大臣」と書いた。この事は、奇怪な事である。#光る君へ pic.twitter.com/VOqy2RjbN2
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