2024年7月14日日曜日

長保元年(999)8月 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ 10月 道長、彰子入内の際の四尺屏風に貼るための和歌を人々に依頼 「上達部が左府の命によって和歌を献上することは。往古から聞いたことがないことである。」(実資『小右記』)  

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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長保元年(999)
8月9日
中宮定子の寂しい内裏退出
定子は再び懐妊して、内裏を退出することになった。
日取りは、道長の娘、彰子入内の数ヶ月前の8月9日、退出先は、二条邸は焼失したため前但馬守平生昌(なりまさ)の三条の邸と決まる。
生昌は公卿でもなく、門も粗末で中宮御所にふさわしくないため、慌てて四足門に改造する始末。
また、中宮の行啓であるから、当然公卿が行列その他万端の指揮をすべきなのに、彰子の入内が近く道長に気兼ねして誰も引き受ける者がいない。
本来ならば中宮には中宮職という役所があり、その長官である中宮大夫か権大夫とかに公卿が勤めていて、それらが指揮する筈のところ、定子にはこの数年、中宮職はあってもその長官(大夫)は置かれていない。
辛うじてこの年正月、中納言平惟仲が中宮大夫に任ぜられたが、半年で辞任し、後任は誰も任命されていない。指揮の公卿がいないままに8月9日を迎えた。

この日の朝、道長は、前年秋に故大納言重信の後家から買い取った宇治の別荘(後に子の頼通が平等院を建立する)に行った。
道長が出かけるので、公卿たちも追随する。
これは定子の懐妊退出を喜ばない道長の嫌がらせで、不愉快な事がある時に道長がよく用いた手段である。

どうしようもなく、実資に呼出しがかかる。
彼は腹をこわしていたが出仕したところ、幸い中納言藤原時光が、病気と物忌を押し切って参入して、時光が万端指図することになった。

生昌の家は大急ぎで門を改造したとはいえ、板葺きの門で、中宮の輿が板葺きの門を入るとは前代未聞と謂われた。
清少納言など、定子付きの女房たちの車は北の門から入ることになったが、この門は小さくて車が入らず、やむを得ず門から建物まで大急ぎで莚を敷き、女房たちはでこぼこ道を門から歩かされた。
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9月
・この月、頼信、上野介在任中のこの月、道長に馬10頭を贈る。
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・この月、内裏が触穢(しよくえ)になったのを幸いに、道長が公卿を引き連れて、嵯峨・大井で遊覧し紅葉狩り。
そこで「処々の紅葉を尋ぬ」の題を出し(漢詩と同じである)、帰京して和歌の会を行なった。
その折の公任の歌(行成『権記』)。

滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

百人一首にもとられた秀作で、「た」と「な」のくり返しが流麗な調べをもたらしている。
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9月25日
・この日の定によって彰子入内の準備が始まる。日取り・式次第・行列・侍女の人選・調度品の調達などの雑事を定める。
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10月25日
・彰子入内の日は11月1日と決定したが、内裏は焼けて一条院に移っていたので、彰子は一条院に入内することになる。
その際、方角が悪いというので、この日(10月25日)、道長は彰子と共に西の京の大蔵録太秦連理(おおくらのさかんうずまさのつらまさ)の家に移った。東から一条院に入るのをやめて、西から東に向かって入内しようというのである。
連理は、官は大蔵省の卑官であるが、古来財力は豊かで立派な邸宅を構えていたと考えられる。この連理の家には連日公卿・殿上人が押しかけて準備を手伝っている。
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