2024年11月18日月曜日

寛仁元年(1017)5月、三条上皇(42歳)没。 子の敦明親王(24歳)は東宮を辞退(小一条院の称号を受ける)

東京 北の丸公園 2013-01-15
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寛仁元年(1017)
5月9日
・三条上皇、42歳で没。
3ヶ月後、東宮敦明親王(三条の子)が東宮を辞退。
「丑剋(午前1時~午前3時)の頃、三条院から(源)頼清が来て云(い)ったことには、「三条院の御容態が重くいらっしゃいます」と。私は驚きながら、三条院の許に参入した。・・・辰剋(午前7時~午前9時ごろ)に、崩御なされた。」(『御堂関白記』寛仁元年(1017)5月9日条)
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5月27日
・この日、道長邸の倉から金銀2千両が盗まれる。『小右記』の後日の記事によると、砂金1,400両、銀800両であるという。
7月10日、盗賊は逮捕され、砂金1,000両などを取り戻した。この盗賊は播磨国に逃げたのを、同国白国(しろくに)郡司の手の者が捕えた。
『御堂関白記』と『小右記』・『左経記』では少し食い違っているが、盗人の主謀者は道長の家司の甘南備保資(かんなびのやすすけ)という者の郎等らしい。保資は当の金銀を納めた倉の管理責任者だったのであるが、その手下が他の公卿の従者たちと共謀して犯行をとげたもののようである。
このように、他の例を見ても、当時の記録に出て来る盗賊の多くは、いわゆる無職無頼の徒ではなく、れっきとした官吏であったり、貴族などの従者であったり、主人持ちの連中が多い。
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6月10日
・源信(76歳)歿。
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7月
・この年は5月頃から雨が多く、6月末に3日2夜の大雨が降り続き、7月に入るとたちまち一条以北の鴨川堤が決潰して濁流が流れこみ、京極一帯に大海のごとく、病者を収容していた悲田院では300人が押し流されたと伝えられた。その間、神祗官と陰陽寮が命ぜられて占いを奉仕し、どの神社の祟りかを考えている。
朝廷が本腰を入れて鴨川堤の修理を諸国に割り当てたのは、3年後であった。
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・7月以降、天皇の諸社行幸の上卿を命じられた大納言実資の行幸準備が繁忙となる。
彼のところに行幸に関する各種の問題が殺到し、弁や史を指揮し、道長や摂政頼通に相談しながら進めてゆく。
行幸の際に奉献する神宝類の選定・調達、賀茂上下両社の破損箇所の調査・修理、行幸の際の天皇御座所の新築の指図、行幸に使用する御輿の検査・修理、駕輿丁の衣裳の検査や補充、諸国に賦課した行幸費用・資材の督促などの問題が、連日のように持ち込まれ、これらを先例旧規を考え、周囲の実情とにらみあわせながら処理してゆく。
また、行事を担当する弁も史も、親族が死んで喪に服することになったから、神社行幸という神事に関係することはできなくなって、急に他の弁・史と交代するという事件も起こる。
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7月5日
・摂政頼通、皇太后宮で検非違使の補任宣旨を下す。
皇太后彰子は幼い後一条天皇の代理を行っている。
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8月
敦明親王(24歳)が東宮を辞退し、小一条院となる
敦良親王(9歳、後一条弟、皇太后彰子が生んだ子、道長の外孫、のちの後朱雀天皇)が立太子する。

敦明親王の母は立后に際して道長一派の激しい妨害を受けた皇后娍子であり、後見のない、非力な存在である。
親王は、左大臣藤原顕光の娘の延子(堀河女御)を妻とし、既に数人の王子が生まれているが、その舅と頼む顕光は無能と人々から謗られ軽んぜられている状態である。

『御堂関白記』『小右記』などによれば、8月4日、敦明親王が道長の子能信(よしのぶ)を介して道長との会談を求め、6日、道長は東宮御所に赴き、親王から「日来(ひごろ)の間思ひ定め聞こゆる所」として東宮辞退の決意を打ち明けられたという。
道長は、おそらく以前から敦明親王に辞任を仕向けるような工作を進めていたであろうし、この決心を聞くに及んで心中快哉を叫んだと思われる。
道長が、母の皇后娍子や舅の顕光の意見はどうであったかと尋ねると、東宮は、母皇后は不愉快だと思っているが、顕光はご随意にとの返答である、この決心はよく考えた末のことであるから、よろしく取りはからってもらいたい、と答えた。

実資が道長から聞いたところでは、敦明が、「輔佐の人無し。宮の事(春宮坊の仕事)有りて亡きがごとし。院崩御の後、弥よ為(せ)ん方無し。傳(顕光)・大夫(斉信)、その中宜しからず。一分も我がために益なし」、と嘆いたという(『小右記』)。

道長は、直ちにその場に摂政頼通を呼びよせ、敦明親王の今後の待遇について相談を纏めてしまった。
道長の示した条件には親王も満足の意を表したようである。
そして、道長は退出し、その足で皇太后彰子のもとに行って一切を報告した。

東宮辞退の噂はその日(6日)のうちに人々の間に広まった。
実資には6日のうちに蔵人右少弁藤原資業(すけなり)がこっそり話して、実資を驚かせている(『小右記』)。

源経頼はその日、人々と東光寺に遊びに出かけたが、たちまちある人の噂として、道長一家のこまごました動静までも聞きこんでいる(『左経記』)。
また、『左経記』には次の東宮は敦良親王ということまで、6日の条に記されている。

行成は前日の5日に、摂政頼通から、東宮の件が起こりつつあることを聞かされ、6日には従者や子供から知らされて、頼通の邸に駈けつけた(『権記』)。
これらの記事から、人々が、東宮の一件の結末を見守っていた関心のほどがわかる。

翌7日、公卿たちは頼通以下続々と道長邸に集まった。
新東宮が敦良親王であることには、なんの疑いもなく、相談の内容は新東宮の立太子式の時期についてである。
早いに越したことはないという意見が纏まり、早速陰陽道の達人の安倍吉平(よしひら)に日を選ばせたところ、明後日が吉日であるという。それとばかりに立太子式の準備が始まり、9日には敦良親王立太子の式典が盛大に挙行された。
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8月6日
「東宮(敦明親王)がおっしゃって云われたことには、「東宮の地位を停めるという事を申すために、書状を差し上げた。ここに立ち寄られた事は、有難いことです」と。私は、遜位についてのご意向は、確かに承ったということを申し上げた。」(『御堂関白記』寛仁元年(1017)8月6日条)
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8月9日
「三宮(敦良親王)を皇太弟(こうたいてい)に立てた。立太子宣命は、申剋(さるのこく/午後3時~午後5時ごろ)に下した。右大臣(藤原公季)が、宣命の内弁を勤めた。」(『御堂関白記』寛仁元年(1017)8月9日条)
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8月10日
・この日、急に天皇の賀茂社行幸予定日の19日が天皇の物忌の日になってしまった。
日取りを変更することになって、摂政頼通が陰陽道の安倍吉平に暦を見て考えさせると、9月26日は吉日だが、天皇の生母の皇太后彰子の衰日(すいにち)に当たる、11月25日ならば不都合ないとのことで11月25日に変更と内定。
しかし、8月10日は重日(じゆうにち)で、行幸日取りの変更を発表するには不適当な日というので、正式発表は翌11日となった。
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8月中旬
・天皇の賀茂社行幸の上卿になっている実資は、道長から一代一度大仁王会(にんのうえ)の検校に指名される。
仁王経を講ずる仁王会は毎年行なわれるが、一代一度大仁王会は、その最も大規模なもので、天皇一代に一回だけ行なわれて、国家安泰を祈願するもので、検校はその上卿である。
実資は賀茂社行幸と大仁王会との両方の上卿を兼ねたわけだが、10月8日に大仁王会を、11月25日に天皇の賀茂社行幸を無事に片づけている。
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8月21日
・新東宮が天皇に初めて拝謁する儀式が行なわれた時、人々は、道長一家の栄華は古今無比、いったい前世にどんな善根があってこのように栄えるのだろうか、と語り合ったという(『権記』)。
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8月23日
・新東宮に内裏から壷切の太刀が授けられ、勅使の捧げる剣を、道長自ら取り伝えて東宮の枕もとに置いた。
壷切の太刀は、関白藤原基経が父から伝えられた名剣であり、基経がこれを宇多天皇に献上し、天皇は皇太子敦仁親王(醍醐天皇)にこれを授けてから、東宮の守り刀として代々の東宮に受け継がれてきたもの。

道長は、敦明親王の立太子の時には、この壷切の太刀を授けることを拒み、敦明親王は立太子の後1年半の間、遂に壷切の太刀を新帝後一条天皇から受けつぐことなく、太刀は内裏の納殿にしまわれていた。
これは『御堂関白記』や『小右記』に記されており、道長は敦明親王を皇太子としておく気はなく、初めからその退位を予定していたことが知られる。
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8月25日
東宮の地位を退いた敦明親王は、小一粂院という称号を受け、太上天皇に准ずる待遇を受けることになった
自身は危険な境を脱し、道長からは厚遇され、一応満足したようである。
封戸や年給なども東宮のときのまま減額されず、年分受領も与えられた(実体は不明だが、国の守の収入を得られる特別の待遇。受領推薦権とも)。
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8月末
・この時の除目は、頼通が摂政となって最初の除目であった。
道長は宇治の別荘に数日滞在し、除目の指図はしないとの態度を表明した。
しかし、それまでの彼の威勢は余りに大きく、公卿も頼通自身も、道長が前摂政として新摂政頼通に適切な指示を与えることを望んでいた。
除目の事前運動も、相変わらず道長を目あてに行なわれたらしい。そして、頼通も除目の間、道長のもとに急使を派してその指揮を仰ぎ、道長はこれに返書を授けている。
人々は道長の引退を事実上認めず、道長は、この後も、前摂政、前太政大臣として、相変わらず万事に指示を与える立場に置かれていた。
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