2024年11月18日月曜日

寛仁2年(1018)1月~3月 後一条天皇(11歳)元服 道長の娘威子(20歳)が入内

北の丸公園 2013-01-28
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寛仁2年(1018)
この年
・この年、仏師康尚は近江国逢坂の関寺の仏像を造り始める。
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・この頃、『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)成立。藤原公任撰の歌集。
『倭漢朗詠集』或いは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる。
もともとは藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、のちに公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた。
達筆の藤原行成が清書、粘葉本に装幀し硯箱に入れて贈ったという。
下巻「祝」部に『君が代』の原典がある。
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1月
・『御堂関白記』寛仁2年正月に
「栖霞寺一切経を渡し奉る、これ故法橋奝然、唐より持ち渡る経なり、而して遺弟献ずるなり」と、道長が宋版一切経を手に入れたことがみえ、釈迦堂の造営に道長の関与があったことも推測される。
棲霞寺は五台山清涼寺と称された。これは聖地五台山を日本に移したものであり、清涼寺の名称は五台山最古の名刺の名によっている。
清涼寺には、国宝の十六羅漢図もあるが、北宋羅漢図の唯一の遺品であり、奝然が帰国の際にもたらしたと考えられる。
永延元年(987)2月、奝然は帰国・入京後、愛宕山に五台山大清涼寺を建立することを申請して、準備を進めたが、在世中には実現せず、「遺弟」の盛算が嵯峨の棲霞(せいか)寺に釈迦堂を建立した。
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1月3日
・この日、紫宸殿で後一条天皇(11歳)の元服の式。
後一条天皇の母彰子は皇太后から太皇太后へと昇る。
翌々5日、盛大な祝賀の宴が張られた。
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1月23日
・寛仁元年(1017)に内大臣、ついで摂政となった藤原頼通は、この日、大臣大饗を開く。
この時、摂政就任記念ということもあってか、4尺の倭絵屏風12帖が新調された。

この時の和歌について、『栄花物語』「ゆふしで」に記事がある。
「さべき人々に皆歌くばり賜はするに」「すべて和歌八十首ぞ出で来たりつれど」厳選され、前大和守藤原輔尹、道長、左馬頭藤原保昌妻式部(和泉式部)、祭主大中臣輔親、藤原公任の計8首をあげている。

さらに『小右記』などによると、この屏風の色紙形には、和歌だけでなく漢詩も書かれた。
漢詩は、大納言藤原斉信(ただのぶ)、公任、式部大輔藤原広業(ひろなり)、内蔵権頭慶滋(よししげ)為政、大内記藤原義忠、藤原為時(紫式部の父)が献じ、献じられた詩と和歌は藤原定頼(公任の子で書の名手)が書き出し、藤原公任と斉信という両才人が撰定にあたり詩と和歌の採否を決め、最後に行成によって色紙形が清書された。

実資は、「儒者に非ざる上臈の公卿、臣下の命に依り、屏風詩を作るは如何。凡人に異ならず」と非難している。
従来専門歌人によって作られていた和歌や、儒者(学者)によって作られていた漢詩が、摂関期以降は公卿など上級貴族によっても作られるようになった。
公卿など上級貴族が漢詩や和歌の世界に進出するようになっていった契機のひとつとして、道長への権力集中によって公卿たちに漢詩や和歌の制作が課されたことがあげられる。

院政期になると院が文化の巨大プロデューサーとなるが、道長はその先駆けである。
他の公卿たちは、別の公卿に詩作を依頼することはできない。
道長は、経済的賦課・文化的賦課をかけながら他の公卿たちとは隔絶した地位を築いていった。
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2月
・2月早々から、威子入内の準備は始められ、入内の日取りは3月7日と決定する。
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2月9日
・道長が太政大臣を辞任、前太政大臣となる。在任は2ヶ月間。
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3月7日
道長女威子(20歳)が入内
元服した後一条天皇(11歳)には母である太皇太后彰子(道長の娘)の妹威子(母は倫子、つまり天皇の母と同母妹、叔母)が入内し、女御となった。
年齢差はあるが、威子は小柄なので天皇と釣り合っていたという。

入内は結婚の式であるから、当時の風習として、これに先立って男女間に手紙のやり取りがなくてはならない。
そこで3月1日、蔵人が勅使として天皇の書状を捧げて道長邸に赴く。道長のほうでは道長・頼通以下、公卿が多数集まって勅使を迎え、頼通の弟の左大将教通が勅使から書状を受け取って御簾のなかに入る。
この第1回の時には威子からは返書を奉らず、勅使は別の席で公卿たちから振舞を受け、禄として女の装束一揃いをもらって帰る。
5日にも天皇から書状があり、今度は威子からも返事を差し出す。先回同様、公卿が集まって勅使を迎える。
万事は儀式的に、華やかに進められた。

3月7日、公卿・殿上人多数が従って、夜に入って無事威子の入内は終わった。
この頃の内裏は一条院であり、威子の室はその西北の対屋(たいのや)に設けられた。
彼女の母、源倫子も共に参内して世話した。

威子は天皇の生母太皇太后彰子の同母妹、つまり叔母であり、そして天皇より9歳も年長。
当時の例から見ると、姉妹の一人が父に、他が子にとつぐ例はかなり多く、嫌うべきことではなかったようである。
こんにちではこのような近親結婚は法律でも禁止され、医学的にも避けるべきこととされているが、もっと古くは兄妹の結婚も同母でなければかまわない風すらあった。天皇が11歳では結婚といっても形ばかりのことで、威子に子の生まれたのはそれから8年後のこと。

威子の入内に従った女房40人の中に二条殿の方と呼ばれた、道長の兄道兼の娘がいた。
長徳元年(995)、兄の関白道隆の病死によって関白の地位を得た道兼もまた病死して世に「七日関白」といわれ、この道兼の死によって道長の前途が開けた。
道兼が健在であったら、彼女も女御として後宮に入ったことであろう。彼女の姉の尊子(そんし)は、一条天皇の女御である(のち、参議藤原通任と仲よくなって評判を立てられた)。
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