2024年11月25日月曜日

寛仁2年(1018)12月 家司受領のありよう。 「大殿辺の例進の外、他の勤めを致すべからず」(藤原能通) 敦康親王(20歳)病没

江戸城(皇居)梅林坂 2013-02-13
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寛仁2年(1018)
12月
・この月、道長は両親の追善供養のため法華八講(法華経八巻を一座一巻ずつ講ずる法会)を営む。実資『小右記』には道長が法華八講の僧前(饗膳)を大納言以下に割り当てていることが見える。
僧前ひとつと言っても僧侶1人分の食事ではなく、「高坏(たかつき)十二本、折敷(おしき)・懸盤(かけばん)の饗二十前(ぜん)、大破子(おおわりこ)六荷、手作布(てつくりぬの)百段」(『小右記』治安2年7月14日条)という大規模なもの。
また、法華八講で特に荘厳な儀が行われる五巻日には上達部・殿上人は棒物を奉じており、実資も捧物(香炉)を作らせている。

道長の正室源倫子が法成寺西北院を供養した時も、実資は関白頼通から僧前の準備を求められ、道長の法成寺金堂供養にも講師天台座主用の僧前を奉じている。
倫子の六十賀においても、太后(太皇太后彰子)令旨により、実資の養子伯耆守資頼に対して綾掛(あやのうちかけ)、同じく養子宰相資平には尼用の夏装束が賦課されている。

これらの儀式・行事については経済的奉仕だけではなく、当然、儀式・行事への参列も求められ、経済的奉仕を要求されない場合でも参列を命じられている例も多い。
また、道長主催でなくとも当時后であった道長の娘たち(太皇太后彰子・皇太后妍子・中宮威子)や、道長外孫である東宮敦良親王の儀式・行事に関して参列や経済的奉仕を要求される場合も多かった。

一方、公卿たちも道長の歓心を買うために、進んで奉仕を行った。
道長をたびたび批判している実資さえ、道長が法華八講の僧前を大納言以下の公卿に割り当てた時、左右大臣と大納言実資が除かれたことに対して、奉仕を請おうとして資平に道長の意向を伺わせている。
その結果、13日には道長から了承され、僧前を奉仕することになった。
道長の公卿に対する賦課があまり抵抗なく受け入れられていったのは、貴族間において儀式・行事主催者に対する相互扶助である「訪(とぶらい)」の慣行があったことが前提となっているのかもしれない。
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12月3日
・家司受領のありよう。
『小右記』寛仁2年12月3日条に道長へ奉仕する家司受領のありようが見える。
備後守と備前守が水害や旱魃のため公事を納入できないと言っている。
備後守藤原能通(よしみち)は「大殿辺の例進の外、他の勤めを致すべからず」(大殿道長への恒例の進物以外は他へは何も納めることができない)、
備前守藤原景斉(かげなり)は 「米五百石を大殿に献じ、三百石を摂政に献ず。公事は術(すべ)無し」(米500石を大殿道長へ献上し、300石を摂政頼通へ献上すると、朝廷へは納めるすべがないい)とある。
公事より摂関への奉仕を優先する、この頃の権力のありかがよくわかる。

このように、受領は恒常的な国家財政を支えるだけではなく、摂関や公卿への奉仕を行えるだけの財物を蓄えることができた。
そのため、受領からの奉仕を求めて、摂関家ではもともと家司・家人である人物を受領に充てる家司受領が登場した。
特に、近江守には道長が活躍した寛弘年間から万寿年間まで、藤原惟憲のように殆ど彼の家司が任命されている。

(参考)
公卿の家の場合、家司・家人を受領にするだけではなく、子のうちの1人を受領にする例もある。
藤原実資の場合、養子資頼が治安元(1021)年から4年間伯耆守、長元元(1028)年に美作守となり、実資家に奉仕を行っている。
藤原行成の子実経も但馬守、父没後に近江守に任じられている。
公卿の子が受領に任じられ家のために経済的に奉仕する例である。
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12月17日
・敦康親王(20歳)、病没。
一条天皇の第1皇子、母は皇后藤原定子。
誕生と同日に道長の長女彰子が女御宣下を受ける。
誕生翌年の長保2年(1000年)4月18日、親王宣下を受けるが、同年末、2歳の時で母定子が没する。
少しして当時まだ子どものなかった中宮彰子に養育が託される。彰子は親王を愛情を込めて育てたが、道長は全く別の意味で親王に奉仕していた。
道長にとって、敦康親王は彰子に皇子誕生がなかった時の保険に過ぎなかった。
寛弘5年(1008年)9月、彰子に第2皇子敦成親王(のちの後一条天皇)が生まれると、道長は敦康親王への奉仕を放棄し、ひたすら敦成親王の即位を望むようになる。
寛弘8年(1011年)6月2日、一品に叙せられ三宮に准ぜられたが、その10日後、父一条天皇の意に反して、皇太子に立てられたのは4歳の異母弟敦成親王であった。

敦康親王は『大鏡』に「御才(ざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」と記されている。
長和2年(1013年)12月10日、中務卿具平親王の次女を娶る。
寛仁2年(1018年)12月17日、にわかに発病し、出家の後、薨去。
残された一女嫄子女王は頼通・隆姫女王夫婦に引き取られ、のちに後朱雀天皇に入内した。
「太閤(藤原道長)から左中将(源)朝任を介して、命が有った。そこで堂前の座に着した。大殿(藤原道長)が云(い)ったことには、「式部卿敦康親王は、未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)、薨(こう)じた<年20>」と。」(『小右記』寛仁2年(1018)12月17日条)
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