2018年2月25日日曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート1 (明治元年~8年)


「はじめに」より

前田卓(つな)。明治元年六月十七日に、熊本県玉名郡小天(おあま)村(現玉名市天水町小天)に生まれ、昭和十三年九月六日に東京で亡くなった女である。戸籍名はツナ。明治時代の流行で漢字を当て、子を付けて卓子とも称したし、「つな」や「つな子」と書くこともあった。墓には前田卓と刻まれている。
日本の近代の夜明けとともに生まれ、明治、大正、昭和と生きた。表舞台で華々しく活躍したわけではない。多くの女性と同じように、その時代を懸命に生き、働き、死んでいった市井の人だ。
それでも歴史の表にわずかに顔を出す。一つは、夏目漱石の小説『草枕』のヒロイン那美のモデルとして、もう一つは、孫文や黄興ら中国の革命家たちが日本でつくった「中国革命同盟会」(通称「中国同盟会」)を支援した女性として。

・・・・・わずかに残る手がかりから浮かび上がる前田卓は、キラキラと輝いている。制度的にも社会常識的にも女性が男性の付属物とみなされた時代に、白面と平等を当たり前のこととし、傷つきながらも平然とそれを買いた女だったからだ。

少女のころから武術をたしなみ、花のように美しかった。誰に対しても同じように接し、誰にでもはっきり物を言い、誰とでも親しんだ。
自由と平等を夢見たが、声高に叫んだり主張したりするのではなく、私は私であると胸を張っていた。
闊達すぎる言動で、「新しい女」とされた。
三度結婚したが、いずれも長続きしなかった。
大人になっても柿の木に登った。
資産家のお嬢さんに生まれ育ったが、財産を無くしても平気だった。孤児院でも働いた。
ぐちはこぼさなかった。
・・・・・

明治元年6月17日
前田卓(つな)、熊本県玉名郡小天(おあま)村(現玉名市天水町小天)に生まれる。
父、前田案山子(かかし、当時は覚之助)はその藩主のそば近くに仕えていた。「明治維新の際、武術を以て藩主の側備に充られ、他行を許されず」(「衆議院議員候補者列伝一名帝国名士叢伝第二篇」、加藤豊子「熊本の自由民権家 前田案山子とその周辺」より)とある。「九州一」の名をとどろかせた槍の名手であり、藩随一の剣豪として、藩主のボディーガードを務めていた。
母はキヨ。熊本の街中に生まれ、「小町」と呼ばれるほどの美人だった。藩主の側にという話もあったらしいが、案山子と結婚した。
卓は、14歳年上の長女シゲ、9歳上の長男下学(かがく)、4歳上の次男清人(きよと)につづく、前田家の次女。

前田家は、代々小天村八久保の郷士であった。卓の祖父の代でさらに財をなし、卓が生まれた当時は、本邸を中心に4里(約16km)四方が前田家の土地で、熊本まで他人の土地を踏まずに行くことができたほどの資産家。八久保は、現在の玉名市の最南端で、熊本市との境に位置する。

維新後、父・寛之助は村に帰り、田夫として村人のために献身する決意を固め、名前も案山子と改めた。彼は、剣一筋だったことを反省して、まず学問を始めた。子供たちのための学校も作った。そして地租改正の理不尽さと闘い、やがて熊本の自由民権運動の中心的存在として奔走し、帝国議会議員になっていく。
卓が生まれたころ、父親は大きな転身を図っていた。

明治3年5月8日
細川護久が二代目藩知事となった。護久は、藩の儒学者横井小南の教えを受けて藩政改革運動を起こしていた実学党のメンバーとともに、矢継ぎ早に改革を断行する。
ともに横井小南の弟子で、姉妹を妻にしていた竹崎茶堂徳富一敬(徳富蘇峰、蘆花兄弟の父)が作った「改革意見書綱領」は次のようなものである。

①旧習打破、簡素を旨とし知事の生活を簡素化し、家族睦まじくする。
②知事自ら政治を行い、農商の声にも直に耳を傾ける。
③二の丸、宮内御殿、御城天守閣等外回りの門塀だけを残して取り壊す。
④上米・一分半米・口米三稜・諸出米銀など枝葉の雑税はすべて廃止する。
⑤鷹揚は解放する。
⑥出納は会計局一本に絞る。
⑦藩内に上下二院を設け、上院は知事以下の諸役人、下院は一般選出の議員で構成し、両院合議して政治を行う。
⑧役人は一切入札公選にする。
⑨諸拝借銀は一切廃止する。
⑩農工商生産を第一の務めとして、臨時急場のため戸数に応じて米銀を備え置く。
⑪惣庄屋以下村役人は入札公選とする。

更に、この綱領に基づいて出された知事布告には、
「中にも百姓は暑寒風雨もいとわず、骨折りて貢を納め夫役をつとめ老人子供病者にさえ暖に着せ、こころよく養うことを得ざるは全く年貢夫役のからき放なりと我ふかく恥おそる」
とある。
農民は厳しい環境の中でも身を粉にして働きに働きながら、年貢を納めてきた。そしてそのため、自分の老いた親や子供、病気の者を暖かく、気持ちよく養うことができなかった。それはひとえに、年貢や賦役が重かったからであり、そうしたことをさせてきたことを深く恥じると、わびている。

明治4年
洋学校と古城医学校を設立、開校。
洋学校は、アメリカ人のL・L・ジェーンズを教師に迎え、中等学校程度の教育を与える全寮制、4年制、男女共学の学校である。ジェーンズの熱い指導は、「熊本バンド」というキリスト者の集団を生み出し、そのメンバーであった徳富蘇峰らは、洋学校開校後、設立されたばかりの京都の同志社英学校に集団で転校し、この学校の内実を整える役割を果たした。
古城医学校は、オランダ人マンスフェルトや長崎の蘭学医を迎え、西洋医学の普及をめざした。病院も併設し、はじめは抵抗も強く、妨害もあったが、しだいに入院患者も増えていった。

案山子はこの護久の改革に強く共鳴し、小天でその一翼を担おうと決心した。
しかし、長男下学を洋学校に入学させ、自分も小天で同じことをやるのだと思い定めた頃、この藩主による改革はあっさり終わってしまう。
新政府が、熊本のそのような過激な路線を認めなかった。

まず、熊本藩同様の雑税廃止を求める一揆が、九州各地で起こった。また、藩内に根強く残る攘夷派の不穏な動きがあり、熊本藩兵卒がイギリス公使に斬りつける事件が起った。
その結果、護久藩知事は責任をとって、明治4年に政府に辞意を表明した。改革路線は、たった1年で終止符が打たれた。役人などの入札公選や、上下二院制などが現実に実施される前に、この実学党系の熊本県政権は挫折した。
そして廃藩置県によって政府は、中央から安岡良亮を知事として派遣し、実学党系の役人を一掃した。廃止された雑税は復活した。

藩主は地位を追われ、熊本から東京に行ってしまったが、案山子はその意志を継ごうとした。
洋学校ではないまでも、学校を作った。西郷軍にも官軍にも郷備金を渡さなかった。地租改正に対しては粘り強く闘った。

明治7年
板垣退助らが愛国公党を結成し、「民選議院設立建白書」を発表し、自由民権運動が始まる。維新の志士たちの新政府に対する失望と反撥が、生活の基盤を失った不平士族や、徴税にあえぐ農民の不満を吸収し、運動は全国に広がった。
熊本は、九州の自由民権運動の中心であった。横井小南の政治思想を受けつぐ実学党が県政権から追われた後も、実学党のメンバーは『熊本新聞』で論陣を張るなど、静かな潮流をつくっていた。

この年
明治7年(卓は6歳)、案山子は村に小天小学校を作った。小天小学校は、当初前田家の屋敷内にあった。また同年、小学校以上の高等教育の場として、私塾蒙正館をやはり屋敷内に開いた。竹添進一郎(後、東大教授)や志賀喬木ら、旧藩校系の優秀な教師を招いたため、九州各県から学生が集まった。

卓は設立されたばかりの小学校で学び、さらに、高等な学問を修める教授や学生を身近に見て育っていく。小学校終了後は、蒙正館で学んだこともあったらしい。同時に卓は、他の兄弟同様、父親の指導で剣術のけいこにも励んだ。剣や薙刀、小太刀を厳しく仕込まれた。案山子は卓に男女の区別なく、文武両道を授けた。卓は剣術の腕を上げた。

明治8年4月
宮崎八郎(宮崎滔天の長兄)有馬源内らが、鹿本郡植木町に、ルソーの『民約論』やモンテスキューの『万法精理』などを教える「植木学校」を開校。この学校は、近隣の町で演説会も行うなど、一種の結社のような動きも見せたため、半年後には安岡知事は閉鎖を命じた。
しかし、この学校は、人民主権などの種を熊本の地にまくことになった。この学校の教師と教え子の一部は、西前戦争のときに宮崎八郎率いる協同隊として西郷軍に参加し、一部は公選県会の議員となり、実学党や案山子らと共に、役人公選や民会開設を主張していく。さらに協同隊の生き残りは、東京で『中外新聞』などで論陣を張っていた池松豊記らとともに、愛国社の動きに連動する結社「相愛社」を熊本に結成する。
こうした流れの中で、案山子も独自の動きを見せていく。

この年(明治8年)
案山子は、地租改正に際し政府に対して農民の先頭に立って闘い始める。
まず、小天の農地の地価評価額をめぐって異議申し立て(*)をし、さらに、江戸時代から行われていた海辺の干拓地の免税問題で、その後20年近くにわたって農民側の要求を通す運動を進めていく。そこから案山子は自由民権家になり、国会議員になっていく。

(*)小天では、村民から選ばれた代表として、案山子が農民側の主張を通すことに成功し、地価の評価額そのものを減額させた。

(つづく)

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