2018年9月16日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その3)〈1100の証言;品川区/鈴ヶ森〉「「朝鮮人が井戸に毒を入れるから、朝鮮人を見たらぶっ殺してもかまわん」っていうようなお達しなんですけれども、私の町会でも3件そういう事件がありました。しかし殺されたのはみんな日本人だったですね。」   

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その2)〈1100の証言;品川区/品川・北品川・大崎〉「.....外7名が9月2日の夜同町多数の自警団と自警中半鐘を乱打し、横浜方面から〇〇2千名来襲の旨を宣伝したので通り掛った〇〇を乱打人事不省に陥らしめ、更に日本人2名を殴打人事不省に陥らしめた事件.....」(『読売新聞』(1923年10月17日))
からつづく

〈1100の証言;品川区/鈴ヶ森〉
内田良平〔政治活動家〕
福田狂二は居宅を立会川に占め雑誌『進め』の事務所を鈴ケ森に置きたるが、2日11時頃その事務所へ鮮人数名逃げ込みたるため、群衆はこれに押寄せたるに事務所内に居たる者等が反抗したるため、群衆中大鋸を持ち行きたる者その一人の首を引き切り一人を袋叩きにしたるに、狂二は猟銃を持ち出で来りたるにそれを奪い取られ敵せずと思いけん、何れも裏口より逸走したり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

竹下了〔鈴ヶ森の雑誌社「進め社」の2階で被災〕
次の朝〔2日〕になると、情勢ががらりと変わって「六郷の方から朝鮮人が押しかけてくる」っていうデマが乱れ飛んだわけなんですね。私らもこりあ大変だってんで町内の人たちもそうだったんですが、日本刀、竹槍を持ちだして、自警団を組織したわけなんです。「朝鮮人が井戸に毒を入れるから、朝鮮人を見たらぶっ殺してもかまわん」っていうようなお達しなんですけれども、私の町会でも3件そういう事件がありました。しかし殺されたのはみんな日本人だったですね。ただススメ社の中に朝鮮の朴さんっていう方がおられて、この人が髪の毛を長くしていた。その頃髪を長くしているのは非常に異例なんで、それが非常に目について、自警団が「あれぁ、朝鮮人じゃないか」とススメ社にききあわせてきたんですが、「そうじゃないんだ、あの人は日本人なんだ」っていうんで、その人を坊主にしてやっと助かったわけです。その人は朝鮮独立運動の人だったです。
朝鮮人さわぎは2日からでしたね。それから朝鮮人のウワサが消えたのは1ヵ月位後でしょうか。しかしそれまで自警団を解くつていうことはなかった。しかし朝鮮人がいちばんたくさん殺されたのは9月3日~5日位だったと思う
しかしなにしろ自警団の組織が支配階級によってすぐさま組織された。東京全都でしょう。自警団は主に町会中心ですよ。〔略〕自警団の会長は町内会の会長で、他は店屋の若い店員だとか八百屋のあんちゃんだとか魚屋のあんちゃんだとかで、竹槍とか日本刀とか持ってました。日本刀の方が多かったですね。
〔略〕日本人労働者は彼等を蔑視してましたね。だからそういう朝鮮人は殺してもよいということだったのではないですか。でなけりぁ、ああ急速に3日とたたないうちに東京全部が自警団によって組織され、朝鮮人とみれば片っぱしから殺すというような社会情勢が生まれるという異様な状態は起こらないのではないですか。
(「米騒動と朝鮮人虐殺事件」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1913年)

横田忠夫〔鈴ヶ森の「進め社」で被災〕
9月2日も暮れんとする、5時頃大森方面の半鐘が一斉に鳴り出した「海嘯(つなみ)が来る!」という叫び声があちこちに聞えたかと思うと付近の仮小屋の人達も一度にどよめきだした。もう大森の方に逃げ出した女子供もある。
私達も大森の八景園へ避難しようと思っていると大森の方から白鉢巻をして襷がけで腰に日本刀をプチ込んだ男が自転車でやって来た。そして「大森の方から朝鮮人が沢山押し寄せて来たあ! 女や子供は逃げろ、男は刀か竹槍をもって出てくれい。もう大森の町端(はず)れで戦が始っている」と叫んで通った。
近所の仮小屋では女や子供は悲鳴をあげながら駈け回る。続いて「朝鮮人がこの際日本人を皆殺すつもりなそうだ。横浜へも東京へも火をつけたのは朝鮮人だ」「大森で抜き身をもった鮮人が500~600人来て火をつけたり物をとったり大変だ、在郷軍人や青年団は敗けそうだという」「もうそこまで来た」などと近所の人が右往左往に駈けながら喚き立てる。〔略〕時々青年団や在郷軍人は駈け歩いて武装して下さいという。
〔略〕道には屈強の若者は手に手に白刃や竹槍や鳶口などを持って鉢巻をして外へ出ている通行の人達をじろじろ見ていた。〔略。岡、松並、自分の〕3人が立会川停留所の付近を歩いていた時は日がすっかり落ちて暗かった。ある家の塀に何か張ってあると思ってみると「鮮人数百名大井町各所の井戸に毒薬を投じて逃走せり、今夜大挙襲来せん」と書いてあった。東海道へ出るともう沢山の青年団と在郷軍人がてんでに竹槍や日本刀をもちがやがやしていた。
すると一人の男が駈けて来て「今ガス電気会社の広場に鮮人が500名ばかり押し寄せて来て青年団と対時している。何か要求をしているらしい」という。3人はそこで「そんならひとつ私達がその間を調停して騒動を未然に防がなければならぬ」といって進め社へ帰ろうと思った。そして福田〔狂二〕の家へ来ると竹井が今体育会へ行って聞くともう鮮人は散々敗けて逃走したから心配するなと警官が言っていたから進め社へ帰ろうという。
〔略〕竹井が私の顔を見ると「おい君、ここに何かの恨みのある奴が入って来て塀を乗りこえようとして却ってこの辺の人達に殺されたそうだ」という。〔略〕近所の人達は互に「俺がその男が塀を乗りこえて入ろうとした時引きずり落した」「俺がこの日本刀で頭を切った」「俺がこの竹槍で臀を突くと3寸ばかり竹槍が入った。これこの通り血と肉片がついている」などといっていた。
そこへまた新しい一人が来て「進め社へ鮮人が一人逃げこんだので皆で殺した。確かに鮮人だった、海岸の方で人を3人ばかり殺した奴だ」という。私達は何が何やら解らなくなった。そこへまた隣りの家の人が来て私達へ「あなた方大変ですよ、ここで殺されたのは進め社のあの若い人なんです。私はちゃんと知っています。裏と表の門をあけようとしても錠がかけてあったので入れぬと思ったか塀を乗り越えようとしたら皆が刀で切る、竹槍で突く、かわいそうに私等がどんなにとめても殺されちやったんですよ。それから皆で中へ入って鮮人がいるかと散々探したのだ」といった。
私達はあっと驚いた。しばらくは声も出なかった。人相や服装や前後の行動をよく聞いて察するにどうしても竹下〔了〕らしい。
〔略〕大井、大森の半鐘はひっきりなしにガンガンガンガンと鳴る。山!川!という合言葉が時々聞える外に人の声がしない。ドン、パテパチ、という銃声が絶えぬ。法螺貝の声喇叭の声が聞える。忍びやかに歩く人々は竹槍や白刃を提げている。折柄火事の煙も薄いだがようやく満ちた月が煌々と私等の真上に照り出した。ウワ!ウワ!と喊(とき)の声が遠くであるいは、近くで起る。「ああ竹下が」と4人が時々いって後は黙してしまう。
その時30間ばかり離れた濱の家という料理屋の前で「鮮人だ!」という叫びとともに黒影が飛ぶ、と殴る音がする、4人も駈けつけたらもうその男は死んでいた。突然濱の家のねじり鉢巻をした番頭が竹槍高捧げげて「日本勝ったあ!」といったら50~60人がこれに和して「万歳!」と叫んだ。
〔略〕私がブラブラと付近を歩いていたら一人の大きな男が来ていきなり私の前に立ち塞がって「おい君はここの者か」という。「そうだ」といったら「ここで今日昼に鮮人が沢山集って君等と暴動の相談したそうだ。どうか」という。私は「そんな事はない。社会主義者という者はこんな時こそ皆と一緒に働くもので、民衆の利益に反するような事をする者じゃない」といって、ふとその男が何か白いものを持っていると思い見れば、3尺ばかりの白刃を提げている。私は「おい君達バカな噂が広まっているよ。来たまえ」といったら3人が集って来た。そして皆で弁解した。付近の者もたくさん集って来た。時々遠くで「社会主義者を殺してしまえ」という凄い声がする。どうやら弁解が利いて竹槍白刃は帰った。
〔略〕岡と松並は品川警察署へ行って竹下の死骸を見て来るといって出た。しばらく経て帰ってきたが「やられたのはやはり竹下だが命は助かるかも知れぬ。傷は頭と腕と臀とその外無数だ。今警察で手当を受けている。福田へ寄ったら鮮人が暴動を起し大森の方から来るというので体育会の生徒をつれて行ってみたが、大森へ行けば川崎の方へいったという、川崎の方へ行けば横浜だという。全然無根だと思い帰って来ると立会川の辺ではまだ大森だという。そんなわけで鮮人騒ぎは嘘だと言っていた」というのでようやく愁眉を開いた。
3日は天気がよく東京、横浜の煙も鎮まった。表門の前を見ると血が1尺四方ばかりゴツタリと流れている。竹下がやられた跡なのだ。飯を食う間にもちょいちょい竹槍や鳶口が来て覗いて行く。9時頃品川署の刑事がドカドカと来て立会川の福田を初め竹井の一家までことごとく検束された。〔後に竹下は無事と確認〕
(「火焔!銃声!半鐘!竹槍! - 同志竹下が襲われた夜」『進め』1923年12月号、進め社)

つづく




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