2018年9月29日土曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その16)「〔略。自警団員に朝鮮軍にいたことのある東京憲兵隊の憲兵下士官がいて〕 いたるところで群衆が朝鮮人を捕らえていじめている。いじめるどころか、なぐり殺そうとする。自分は朝鮮にいてよく知っているが、みなが「不逞鮮人」ではない。あんまりかわいそうだから割りこんで朝鮮語で事情を聞こうとすると、血迷った群衆は、「鮮人だ!」「軍人に化けている」と自分にまで襲いかかってきた。殺気を感じて、「東京憲兵隊の制服を知らんか!」とどなりつけ、人々がひるむすきを見て、命からがら逃げ出したという。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その15)「そのうち爆弾の破裂の音や銃声などが聞こえますので身構えていますと、一人の鮮人が出て来ましたので私は竹槍で突殺しました。.....夜が明けたら鮮人も来ないだろうと夜明けを待っておりましたら今朝(3日)になってまた一人を殺りました。その朝荒川用水路付近には20人位の鮮人が血まみれになって倒れていました。」(『いはらき新聞』1923年9月4日)
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;世田谷区〉
小池嘉平
〔二子玉川の鎌田町で〕2日め位から誰が言ったかわからないですが「溝の口方面で鮮人が暴動をおこして大挙して東京へ襲撃してくる」「神奈川県の住民はほとんど殺されている」といううわさが流れてきたんです。そしてその時、溝の口警察の方面で半鐘を乱打するです。「それ! 大変だ!」ってわけですよ。それがさらにすすんで、すでに「玉川の堤防のむこうに暴動をおこした朝鮮人が散兵している。堤防のむこうの住人は殺されちゃってる。まず老人と女、子供をまとめてお寺なんかに1カ所にまとめちゃえ」と触れがあり、青年団の屈強なものをはじめ残りのものは非常招集です。
「手ぶらできちゃいかん、むこうが刃物をもってるんだから、こっちも凶器をもたなくちゃいかん」「日本刀のあるものは全部日本刀をもってこい。槍のあるものは槍を出せ」というんで、倉の中からひっぱり出してくる(ママ)ですが、もう錆びてるわけですよ。錆びてちゃ仕方ないからみんな研いでね。「さあいつでもこい」というわけです。私は18歳ですから”土地を守れ”ということで青年団に入らせられました。
その頃、二子玉川のすぐ上に渋谷水道〔渋谷町水道〕の水源地があるんですが、それに薬品を朝鮮人たちが投げ込む、同時に各家庭の井戸に薬品を放り込む。もたもたしてたらやられちゃうから井戸に蓋をしろといっていました。
そのときは渋谷水道はまだ完成してなかったんです。朝鮮人は労務者、今でいう土方ですが、渋谷水道は朝鮮人がつくっていたわけです。それで工事現場にいた朝鮮人を1カ所にまとめちゃったわけです。こういうわけだからあんた方は外へ出ないでもらいたい。食糧の補給はいっさいやるからといっているうちに戒厳令が出て〔略〕。
それであの地方は、各所に朝鮮の部落があったんですが、朝鮮人同士で連絡をとられると困るというので連絡をとられないようにしようと検問所を設け切断をはかった。わたしも日本刀を腰へぶちこみ、兵児帯しめました。1週間位して戒厳令が布かれて兵隊が渋谷水道まもっているんです。朝鮮人同士の連絡はさせないようにしていたんですが外部から朝鮮人の誰かが連絡にきたらしいんです。それで軍隊では「三声」といって「誰れだ、誰れだ、誰れだ!」って3回いって応答がない場合は、発砲してもかまわないことになっているんですが、10時頃「ドォーン」と軍隊の銃の実弾の音がきこえ、「ヒューウ」と風をきったのです。「それ! はじまった」てんで村中の人が大騒ぎした。軍隊の方は「だれだ! だれだ!」と声をかけるがわからない。そのうち「桑畑の中に逃げ込んだ」ていうんで、すぐさま全部のものが桑畑を包囲し、夜があげると同時にしらみつぶしにやったんですけれどだれもいなかった。いたらもうそらあ殺すことだってやりかねなかったですよ。だいたい銃音を聞いた時はすごかった。あの音を聞いた時、中にいた朝鮮人は非常に騒いだそうですよ。軍隊があとでいうには、お前たち騒いじぁいかん、お前たちを殺るんじぁない、といったらやっと落ちついたらしいですね。
渋谷水道の中の朝鮮人は50名位だと思います。
(「朝鮮人が暴動を起こして攻めてくる」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年) 

高群逸枝〔女性史家〕
2日(夜)夕方、警告が回ってきた。横浜を焼け出された数万の朝鮮人が暴徒化し、こちらへも約200名のものが襲来しつつあると(もちろんデマ)。〔略〕村の若い衆や亭主たちは朝鮮人のことで神経を極度に尖らせている。これはちょうどわが軍閥の盲動に似ている。もどかしい、いまわしいことどもだ。三軒茶屋では3人の朝鮮人が斬られたというはなし。私はもうつくづく日本人がいやになる。
〔略。3日〕もうそこの辻、ここの角で、不逞朝鮮人、不逞日本人が発見され、突き殺されているという。〔略〕自動車隊の畑で朝鮮人がかたまって、火を燃やしているという情報が伝わると、ここの男衆金ちゃんも、他の同士といっしょに竹槍をひっさげて立ち向かって行った。おお無知なる者よ。
(「火の国の女の日記」高群逸枝『高群逸枝全集第10巻』理論社、1965年)

中島健蔵〔フランス文学者〕
〔2日、駒沢で〕まだ「不逞鮮人」さわぎは、家の近所でははじまっていなかった。しかし、夕方になると、悪夢が追いかけて来たように半鐘が鳴り、「爆弾を持った不逞鮮人が隊を組んで、多摩川の二子の方面から街道つたいに襲撃して来る」という報知が、大声で伝えられた。〔略〕やがて世田谷の方から、1台の軍用トラックがゆっくりと動いてきた。本物の軍隊の出動である。そのトラックをかこむようにして、着剣した兵士が、重々しく走ってくる。これでもう疑う余地がなくなってしまった。
〔略。自警団員に朝鮮軍にいたことのある東京憲兵隊の憲兵下士官がいて〕 いたるところで群衆が朝鮮人を捕らえていじめている。いじめるどころか、なぐり殺そうとする。自分は朝鮮にいてよく知っているが、みなが「不逞鮮人」ではない。あんまりかわいそうだから割りこんで朝鮮語で事情を聞こうとすると、血迷った群衆は、「鮮人だ!」「軍人に化けている」と自分にまで襲いかかってきた。殺気を感じて、「東京憲兵隊の制服を知らんか!」とどなりつけ、人々がひるむすきを見て、命からがら逃げ出したという。
〔略。駒沢で〕 3日のひるまには、三軒茶屋で、歯医者だったと聞いたが、みなの見ている前で、その男が一人の朝鮮人をピストルで射殺した、といううわさもとんでいた。
(「いまわしい序曲 - 関東大震災」中島健藏『昭和時代』岩波書店、1957年)
仲西他七〔実業家〕
〔2日、駒沢で〕続いて忌わしい鮮人騒ぎが起りました。午後5時半頃、抜刀せる鮮人200〜300名、玉川沿岸にて同地住民と戦闘中との状報に始まり、更に大橋にも100名内外の鮮人と住民と戦争が起ったと伝えられ、或は爆弾を投じて帝都を焼き尽すとか、或は井戸に毒薬を投ずるとか言う如き、妖言百出の有様でありました。
〔略〕しかし午後11時過ぎ頃には、玉川にも大橋にも集団的鮮人のなきことを確かめられ、その後は次第に恐怖的動揺も薄らぎ、むしろ内地人が鮮人と間違えられて引かるるやら、たちの悪い邦人が民衆の襲撃を受くるなどの滑稽が所々に演ぜらるることになりました。
(高橋太七編『大正癸亥大震火災の思ひ出』私家版、1925年)

世田谷警察署
9月2日午後4時30分頃、三軒茶屋巡査派出所に急訴するものあり曰く「不逞鮮人約200〜300名神奈川県溝の口方面を焼き払いて既に玉川村二子の渡を越えたり」と、松本署長はこれを聞くと共に秋本・五十嵐両警部補をして巡査十数名を率いて自動車を駆りて同方面に赴かしめしが、その途上の光景たる異様の壮士が兇器棍棒を携帯して三々五々玉川方面に向いて走るあり、又警鐘を乱打する等殺気天地に充満し、既にして玉川原に到れば住民の混乱甚しといえども、遂に鮮人の隻影を見ず、これを高津分署に質すもまた要領を得ず、署長即ち部下に命じて各方面の内偵に従事せしめ、ようやくその流言蜚語に過ぎざるを知りたりしが、而も一般民衆は容易にこれを信ぜず、婦女子の如きは難を兵営に避くるに至れり。
而して自警団の武装せる警戒はかくの如くにして起り、鮮人を本署に拉致するもの2日の午後8時に於て既に120名に及べり。翌3日警視庁の命令に基きて戎・兇器の携帯を禁止し、かつ鮮人の保護に従いしが、4日に至りて鮮人三軒茶屋に放火せりとの報告に接し、直にこれを調査すれば犯人は鮮人にあらずして家僕が主家の物置に放火せるなり。
疑心暗鬼を生じ、衆庶その堵に安んぜざりし事それかくの如し、これに於て本署は鮮人の保護、流言の防止、自警団の取締に関して爾来最カを注ぎ、鮮人に対しては目黒競馬場を収容所としてここに保護すると共に、注意人物は軍隊に托して習志野に移し、引取人あるものはこれを放還せるのみならず当時多数鮮人の居住せる奥澤・等々力・瀬田・碑文谷・上野等には巡査を派遣して警戒の任に当らしめ、尋て又警視庁の命令に基きその就職をも斡旋せり。
始め目黒競馬場を鮮人の収容所と為すや、町民のこれに反対して極力その移転を迫りしが、署員の懇篤なる説諭に依りて漸次其誤解を一掃せり。〔略〕而して流言は叙上の外「横浜の大火は其放火に原因せり、不逞鮮人数100名東京に襲来せり、鮮人等井水に毒薬を投ずるものあり」と言えるが如き又は東京に於ける震火災を誇張せる説話等種々行われたりし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『国民新聞』(1923年10月21日)
9月2日午後5時40分府下世田谷太子堂付近にて鮮人朴某(28)を銃殺した犯人太子堂25写真業小林隆三(27)に令状執行収監す。

つづく




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